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2018年9月17日月曜日

対する人の奥の部分



また一人、素敵な女優さんがこの世から旅立ってしまった。

異色で、個性的で、実力派、面白くて、たくましい…
別世界の人なんだけど、どこかホッとするような親しみやすさもある…


数ヵ月前に映画を見て、
その演技の素晴らしさと、こぼれ出る人間性の大きさに、
改めてすごいなー、好きだなーと感じた矢先だったのに。


家族関係の難しさや、病気と闘って、

その家族や病気と一緒に生き抜いて、

何をおもって、どう人生の幕をおろしたんだろう、

家族はどんな思いだろう、

と思う。



さっき見たニュース番組で、彼女の半生を振り返っていて、

彼女が以前、突然左目を失明したときの記者会見の映像が流れた。


「絶望です」

そう言ったあとに、

「でも、今まで見えなかった、いろんな人の奥の部分が見えるようになるチャンスかもしれない」

って、そう言って、

「対する人の、表に見えない部分がちゃんと見える人になれるかな。なれたらいいな。なれなかったらごめんなさい。」


そんなふうに(一言一句あってはいないかもだけど)言ってた。



片目が見えなくなってしまったのに、
見えるものが増えるようになるかもしれない、

ってそう言った彼女。


そこに、どれだけの戸惑いや不安や葛藤があっただろう…
「絶望です」の想いを、どれだけ強く抑え込んでいたんだろう…


きっと、それまでの人生でも、
私なんかが想像できる以上の苦境があって、
その度に自分の心を訓練してきたんだろうから、
と、そう思ってはみるものの、

なんか心が動かされた。


私にもできるかな…


私だから見えるかもしれない、対する人の奥にある悲しみや苦しみを感じ取って、寄り添ってあげること。


なれたらいいな。なれなかったらごめんなさい。


そう思って、今の仕事をやってみてる。
今すぐじゃなくても、いつか。

2018年8月22日水曜日

奇跡を探せれば…



てっちゃんへ


今日は、あの日を彷彿させるぐらいまた暑い一日でした。

あれがたった3年前のこととは思えないほど、
その後に起こったことが多すぎ(重すぎ)たからか、
あの日がものすごく前のことのように感じるよ。

てっちゃんはどう?


結婚式が終わると、「できればもう一回やりたい」って思う人が多いってよく聞くけど、
てっちゃんは「一回で十分だわ」って言ってたね。

準備が大変で、そのバタバタ感とか、当日もいろいろ段取りとかを考えながら気を張って過ごしてたからかな…?

あのときは、
そのてっちゃんの「一回で十分」が少しネガティブな意味に聞こえて残念だったけど、
でも今は私も同じように「あの一回で十分」って思ってる。


どう願ったって、もう一回はできないけど、
でもあの一日が本当に大切で、宝物で、

あの一日に、

あの一日を作ってくれたてっちゃんに、家族に、友達に、式場のスタッフの人たちに、お祝いしてくれた人たちに、

心から感謝してる。


もしかしたら正確には、

結婚式をもう一回するなんてことが叶うチャンスがあり得たとしたら、
そんなチャンスはいらないから、
ただ、てっちゃんと隣にいられるチャンスをくださいってことなのかな。

それが本音かな。


アメリカにいた頃の私たちの勝手な将来プランでは、
今年はもう日本にいたかもしれないから、
今日は二人で飲みに行ってたかな。

平日だし、いつも通り遅くまで研究で、お祝いは前倒しか持越しだったかな。


今でもずっと、
いつかてっちゃんが何かの形で、
私に「声」を届けてくれる瞬間があるはず、と信じて、
毎日何度も、その「声」を探してます。


今見てるドラマがあってね、
パパを亡くした娘と、夫を亡くした妻の人生の話なんだけどね、

そのパパが亡くなった後に、その娘が

「小さな奇跡はいっぱいあるよ 毎日それ見つけていけば、それでいいんだよ」

ってパパが言ってるんじゃないかってセリフがあったの。


その通りだなって思ってね。

それしかできないからなんだけど、

でも日々起こるちょっとしたことを奇跡だと感じながら、
それをてっちゃんからの贈り物だと考えながら過ごしていく、

私も「小さな奇跡を毎日探してる…」って、

それでいいんだって、
そう思ったんだ。


てっちゃんの「声」とは違うかもだけど、
てっちゃんが届けてくれてる、作ってくれてる「奇跡」。


って、なんかきれいっぽいこと、前向きっぽいこと書いてみたけど、

やっぱり本当は
てっちゃんと、あーでもないこーでもないって、今日何があった、明日はこんなことがあるって、

そんな当然の、なんてことない話がしたいよ。

それだけだよ。



また書くね。


2018年7月17日火曜日

変化とか相変わらずとか



しばらくブログを書かなかった(書けなかった)理由。


自分の感情を「書く」こと以外の形でコントロールできるようになったから。

新しい仕事をはじめて、そのことで頭と体が精一杯だから。

そういう中で日々を踏ん張るために、この「書く」行動は、逆に自分を乱すかもしれないと不安だったから。

書いても書いても、現実は変わらないことを書く度に思い知らされてきたから。



ここしばらくは、
“平気”にできる自分と、“相変わらず”な自分の2種類を操るのに葛藤してる。

無意識に操ってるんだけど、
操ってることに気づいたときに、
それこそ幽体離脱みたいに、“平気”な自分がヒューって自分の中から抜けていく。


てっちゃんは、最近どこにいるかわかんない。

私が呼ばないようにしてるのかもとも思う。

時々、夢の中で手繋いで歩いてるけど、
面と向かって話してることはあんまりない。


「笑ってても泣いていても平等に時間は過ぎる」って歌詞を聞いて、

そうだよね…って、

だから笑ってた方がいいんだよねって、

今までだったら
「そんなこと、わかってできたら苦労しないわ!」
って思ってたことも、

そうだよね…って、
言えるようにはなった。

でも、

「だから笑っていられる生活を送ろう!」

って言うのとは違う。
でも、端から見たら、今の私を見て、

「しんどそうだね」

っていう人はいないんだろうなと思う。


人と話すときに、
てっちゃん関連の話や、自分の心境とか、そういう話をすることも減った。

私だって、誰かと話すとき、その人の旦那さんとか家族のことを聞くより、その人自身の仕事のこととか趣味のことを聞いたりするんだから当然のことだし、

それが悪いことじゃないのも勿論わかってるつもりなんだけど、


でも、みんながみんなの生活や人生をやっぱり持ってて、
これが私の運命だって…

それは誰のせいでもないんだけど、
やっぱり悔しい。さびしい。


てっちゃんはあの世に逝ってしまった人で、

それがだんだん「異常」じゃなくなっていって、

「いるはずの人がいない」んじゃなくて、
「いないんだよね、そうだよね」になっていく。


それは、「忘れる」とは違うって、きっと誰もが言ってくれると思うけど、

でも、てっちゃんとのエピソードはこれ以上新規作成できなくて、
新しい写真も、新しい表情も、見ることはできない。
でも、それがみんなの中で普通になっていく。


「私」はたぶん生きていける。
とにかく仕事をすることも、ご飯を食べることも、眠ることも、買い物することも、出掛けることも、笑うことも、冗談を言うことも、ぐーたらすることもできるようになったから。

でも、「てっちゃんと生きていくはずだった私」はどんどん置いてきぼりをくらう。


その答え

「それはこの先もずっとなんだろうね」

…ですよね……


結局これ。
書いても書いても、嘆いても嘆いても、答えは一緒。

2018年4月25日水曜日

ごめんなさい



あれ以来、


人の幸せを祝ったり、共有したりすることが、

どうしてもできなくて……



この二年間に、

結婚した友達や、

新しい命を授かった友達…

他にもたくさん前向きな変化を得た人…



結婚や出産は、

どう考えたって無条件に幸せなことでお祝いすべきことで、

私たちが結婚したときだって、

本当ににたくさんの人達にお祝いしてもらったのに、

なのに、
言葉のひとつもかけられず、

いいね!のひとつも押せず、

お祝いの品のひとつも渡せず、

顔を見せに行くこともできず、



ごめんなさい。

本当にごめんなさい。




この二年間の私の心は、

自分でも驚くほど醜くくて、

と言っても、どうしてもどうしようもないんだけど、

どうか、許してください。


こんな心をもってしまった私を見て、

てっちゃんだっていい気はしないだろうに、

でも、努力しても意識しても、
ガチガチになった心がほどけてくれないので、

ごめんなさい。


自分の心が、現実的にもう不可能なことを求めてしまうのを抑えるだけで精一杯なので、

どうか大目に見てください。


なにも言わずに「きっとわかってくれる」と思って今まで過ぎてしまってごめんなさい。



2018年4月24日火曜日

Blessed…




最近はもっぱら洋楽を聴くことが多い。

別に詳しいわけでもないけど、

何となくイントロと声の雰囲気で選ぶ。


電車の中にいると、
やっぱり周りの人の話し声や表情が気になったり、
ボーッとした勢いで波を呼び寄せ易くなっちゃうから、

音楽は、そういうものを遮断するのにいい。


で、私は歌詞を聞きたがる質なんだけど、
一つのフレーズが、また少し心を柔らかくしてくれた。


******************************************

When I'm lost,

I'm missing you like crazy

And I tell myself I'm so blessed to have had you in my life, my life


******************************************


この後半の部分に、私はなかなかたどり着けないことが多い。

てっちゃんに会いたくてしかたなくなって、

それが叶わない現実に幻滅して、
自分が少し冷静になるのを待つしかない。


でも、
この歌詞の通りなんだ。


私の人生に、てっちゃんという大きな大きな強い存在がいるということが、


何よりもありがたいことで、

幸せなこと。


てっちゃんがいなくなった世界のことを恨むんじゃなくて、
(恨まないわけにはいかないんだけど…)

てっちゃんが私と一緒にいてくれた時間に感謝する。


他の誰にもできなかった、てっちゃんが選んでくれた私との時間を…ね。




そんなことを、電車に乗って、洋楽を聞きながら思う。

2018年4月15日日曜日

ただいま




てっちゃんの両親のおかげで、今年もまたあの地に行くことができた。


二人が感じて抱えてきた、

悲しみや現実の残酷さ、悔しさや、

それでも理解が及ばない苦しさは、

もちろん言葉では例えようがないんだけど、



でも、少しでも、この旅が、

頭と心のすれ違いや矛盾と闘うだけの時間じゃなくて、

てっちゃんの笑顔を思い浮かべられる、

心を解放できる時間であったらいいなと思う。



そして、

てっちゃんの代わりには決してなれないけれど、

少しでも、私のできる親孝行になった部分があればいいと心から願う。




あれ以来、もう何度も、
てっちゃんなしで飛行機に乗って長旅をしているけれど、

でもやっぱり今でも隣の席にてっちゃんを求める。


美味しいとは言えない機内食も、

ワインを二人でもらってゆっくり喋りながら食べれば、

何も気にならなかった。


チャールストンの空港は、この二年で工事が進んで、少し大きくなった。

4年前、
私がてっちゃんのいるチャールストンに着いたときに、
お迎えで座っててくれたあの場所は、もう見当たらない…。



心はどんな瞬間も、

あのときのものを鮮明に覚えてて探し求めてるのに、

今回、空港を出た瞬間に自分が感じたチャールストンの空気が違った。



(あれ…こんな空気だったっけ…こんな匂いだったっけ…)



吸い慣れた空気のはずなのに、

自分の身体や感覚が、チャールストンに「帰(返)ってきた」んじゃなくて、

“ホーム”が日本になってるのを思い知らされた。





でも、旅の間では、
そんなショックも静めてくれるほど、

チャールストンの

大きな空と、

大きな景色と、

陽の光と、

なんとも言えない自然の温かみは、


私にたくさんの深呼吸をさせてくれた。



息が止まるほど美しい、というのとは違う、

そこでただ空を見上げて、

肩の力を抜いて、

とにかく大きく息を吸いたくなるような、

あの空間。




心が急にてっちゃんを強く求める瞬間も、

その空間は、私に大きく深呼吸をさせてくれるか、

とにかくただ、涙を流させてくれるかの、必ずどっちか。


必ずすぐに逃げ場がある。



こうやって、書けば書くほど、やっぱりチャールストンが好きなんだけど、

でも、私はこの一年で、

日本で生活し直す自分を、だいぶ描けるようになった。

そして、それを受け入れられるように少しなった。



我慢してまで日本にいる必要なんてないと言うのはもちろんわかった上で、

もしかしたら何かの拍子にまた飛び出すかもしれないけど、


それでも、今の私には、

日本で、

母親と一緒に暮らしながら、

次の生活スタイルを少しずつ造り上げていくことがいいんだって、

ちゃんと納得してる。


そう「したい」と、ちゃんと自分の意思で思ってる気がすることもある。



だから、

チャールストンのもつ、

前と全く変わらないエネルギーも温かみも、

今回はちゃんと自分の中に取り込んで帰れる気がする。




そして、


「自分」を信じること、信じようとすること、

「自分」を大切にすること、

てっちゃんを信じること、

てっちゃんと私が二人で築いてきた絆を信じること、

聞きたくても聞けなくなってしまったてっちゃんからの言葉を、とにかく信じること、強く思うこと、


その全部がうまくできなくても、

そうしてみようと努力すること、

私が今てっちゃんにできることはそれだけだということ、

苦しいけど、

それを自分にずっとずっと言い聞かせるしかないし、

それが結果的にすごく大切なんだってことを改めてたくさん考えた。



そして、

そうやって努力して踏ん張って信じて生きてみたら、

きっと、いつか、何十年後かに、

なにかがたぶん、
なにかをたぶん、

理解できるんじゃないかと思う。




帰ってきてすぐは、心がわりときれいでいられるから、

そのうちに書き留めておいてみる。



てっちゃんが、日本にもチャールストンにもいないことを、
何度も何度も思い知らされるのはすごくしんどいけど、

でも、なんだかんだとここまで毎年、

あの地を訪れることができる環境や、
周りの人の理解、サポートがあることに感謝して…




てっちゃん、今回も私たちをたくさん守ってくれてありがとう。

2018年3月22日木曜日

誕生日おめでとう。



てっちゃん、35歳の誕生日、おめでとう。


今日もお仕事がんばってますか。

そっちに行くと仕事なんてないのかな。

何して過ごしてますか。




昨日、一日早かったけど、
てっちゃんの誕生日祝いで、てっちゃん友達とご飯にいってきたよ。
一緒にいたよね…?


今日はケーキ買って帰ろうかなと思ってるけど、
てっちゃん、別にケーキ好きじゃないし、
「しのの分だけでいいよ~」
って言われそうで迷ってるよ。



てっちゃんが隣にいない人生を、
私なりにどう生きていくか、どういう形ならやれそうか、
最近一生懸命考えてます。


踏み出す怖さと、

このままで居続けるわけにもいかないと思う焦りと、

家族や友達や先生がいてくれる心強さと、

てっちゃんがいないとてつもない心細さと、

過去に戻りたい欲と、

「今」をだいぶ冷静に考えられるようになってる自分と、



……前とは少し違う、いろんな感情が今は自分の中にある。

ドンッと暗い穴に落ちたように感じるときや、

とりあえず右行ってみたけど、次の道が続かなくて左に戻ってみたりする感覚とか、

ヨイショって壁を登ったら、その先はぼんやり明るい空間が広がってるように感じるときもある。



でも、とにかく、

てっちゃんのことがあったことが、

次の私の人生の軸になることは確実で、

それがいずれ誰かのためになれば、と思うけど、

なんだかんだ言って結局は、

自分がこの現実を、自分の中で受け入れていくためにやってみたいことをやるのかもしれないと思う。



てっちゃんは何て言うかなって、

いつも思うし、

意見がほしくて仕方がないけど、

でも最終的には「志野がやりたいならやりな」って、

良くも悪くもそういう気がするから、

そうするしかない。


ゴタゴタ考えてないで動いちゃいなよって自分に思うこともあるけど、

そういう思いきりの要素も、
てっちゃんがいなくなっちゃってから薄くなったと思う。


「やるしかない」
じゃなくて
「やりたい」
と思うようになるには…

「生きるしかない」
じゃなくて
「生きたい」
と感じられるようになるには…

もう少し時間が必要。



35歳のてっちゃんに、会いたい。

あのときにも戻りたいけど、

やっぱり「今」にいてほしい。



2018年3月2日金曜日

戸籍



今日は、ちょっと必要があって、
役所に戸籍謄本を取りに行った。


入籍して、てっちゃんと私は戸籍を共にして、
てっちゃんが亡くなって、てっちゃんは「除籍」にされた。


「除籍」と聞いて、

枠を全部「×」にされたり、
斜線を入れられたりするのかと思って淋しかったけど、


てっちゃんの名前の枠の隣に
「除籍」
と、四角で囲まれた文字が入っただけだったから、
気持ち的にはだいぶ違った。

役所も気を使ってるのかな。



そんなこんなで、除籍後っていうのは、
「筆頭者」
は自分自身になるのかと勝手に思って、
今日はその欄に自分の名前を書いて申請した。


そうしたら、受けとるときに

「筆頭者は亡くなられても変わりませんので…」

と、申請用紙を訂正するように言われた。



正直なんか不思議?複雑?な気分。



もちろん、てっちゃんの名前を私の「家族」としてまだ示せることは嬉しい一方で、

じゃあ「除籍」って何?と思う。



是非とも筆頭を名乗ってほしい自慢の旦那さんだけど、
その旦那さんはいないんですよって一目でわかるようにされてて、

戸籍は「除」かれたのに、私の戸籍申請の筆頭にはかわりない……。


なんか逆に寂しくなった。


こういうちっちゃなことが、
山のようにある。


「そんなもんか~…」


で済ませられるようになってきたけど、

空しくなるし寂しくなるし、

てっちゃんに会いたくなる。



2018年2月13日火曜日

電話の向こう



昨日は、3歳の甥っ子と遊んでいた。

レンジャーもののキャラクターに扮して、
変身ものまねをするのが今は大好きで、
いつもそのセリフを言いながらなりきってる。


でも、今日、ふと、おもちゃを電話に見立てて

「もしもし~?」

と話していたので、


「誰とお話ししてるの?」

と聞くと、

「てっちゃんだよ」

と…。


え…急にてっちゃん??(笑)


前後にてっちゃんの話をしてたわけでも、名前が出たわけでもないのに。

その甥っ子もてっちゃんに会ったことはあるけれど、きっと彼にとってのてっちゃんは写真の中の人。
うちに来たら手を合わせる相手。
具体的なイメージはあんまりないんじゃないかと私は思ってる。



なんで急にてっちゃんが甥っ子の中の電話相手になったんだろうって思いながら、

それと同時に、


“この子の中にてっちゃんは生きてる”


ってこういうことなんだ…って、

なんかスッと入ってきて、

てっちゃんが電話の向こうに来てくれてたのかもしれないけど、

少なくともあの瞬間、甥っ子はてっちゃんと繋がってたわけで、

なんというか、

心が少しシンプルになった瞬間だった。


大人はダメだね。


繋がらないとわかっていながら、てっちゃんに電話をかけてはため息をつき、

LINEでメッセージを送っては既読になってないかチェックする。


それがいけないとも思わないけど、自分が楽になれる訳じゃない。



心にヒントをくれた甥っ子に感謝。


少しでも穏やかな心で、

てっちゃんを想って、


今日も一日。

2018年1月20日土曜日

ありがとう



てっちゃん。


てっちゃんが築き上げてきた交友関係のおかげで、

今日と言う日を、一人でシクシクしないで過ごすことができたよ。

今、私がてっちゃんにできることが、
てっちゃんを想い続けるということでしかないのが、
悔しくて寂しくてやるせないけど、
でもてっちゃんが見られなかった今日、明日を私は見ていきます。


シクシクメソメソしてても、呆れずに、優しく見守っててね。



こうなった今、てっちゃんに感謝してること。



あの世に行くことに全く恐怖がなくなったこと。

そこに待っててくれる人がいるといつでも思えること。

日々のちょっとしたことに、てっちゃんの力を感じて、
ちょっとしたことに感謝できるようになったこと。

命、死、生、人間である限り絶対に遭遇するものを深く深く考えられるようになったこと。

てっちゃんが繋いでくれた出会いが、今の自分の支えになっていること。

てっちゃんの妻でいられること。



ありがとう、てっちゃん。

優しいも、厳しいも、神経質も、気分屋も、調子いいも、大らかも、かしこいも、くだらないも、甘えん坊も、強がりも、全部全部、あなたにしかない、

そのてっちゃんが大好きです。



2018年1月18日木曜日

後悔



2年前の今日…


2年前のこの時間帯…


考えても答えのでないものは考えないようにしてるけど、
どうしてもこういうことばっかり繰り返して考えちゃうここ数日。


金曜まで仕事に行ってた人が、
月曜の朝には心停止と蘇生繰り返して人工呼吸器つけてて、
水曜の朝には亡くなっちゃうって……

やっぱり何度想像しても追い付かない。


二年前の今日、まだ家に一緒にいたのに、
(今年でいう)土曜には一生会えないところにいっちゃうって……


身一つで家を出て病院に向かって、
2日後に家に戻ったときに、
家の中が出掛ける直前のバタバタのそのままで…

てっちゃんの枕元には、
体温計も、
ペットボトルも、
嘔吐したとき用の洗面器も、
全部そのまま置いてあって、


ただ、ただ、てっちゃんだけがいなかった。

意味がわからなかった。

その家にてっちゃんがもう二度と帰ってこられないことの意味がわからなかった。


今の私だったら、朝まで待たずに病院に行かせてたのに。

心のなかで過去の自分に何回もビンタする。

一生以上の後悔。


2018年1月14日日曜日

三回忌、三年目、丸二年



この時期だ。

明日は、三回忌の法要。


そう、もうすぐ丸2年。

チャールストンで過ごした時間より、
日本に帰ってきてからの時間の方が
長くなった。


母親のおかげで、
家族のおかげで、
てっちゃん側の家族のおかげで、
ずっと支えてくれてる友達のおかげで、
ほぼ毎週、私にすべてを吐き出す空間を作ってくれている先生のおかげで、

そして、てっちゃんのおかげで、

私の一日一日は、
なんとかなんとか、
2年もの時間を、
乗りきってきた。


この2年間で、私は変わった。


夜寝つけるようになった。

仕事に週4回出られるようになった。

でも、人と目を合わせないように歩くことが多くなった。

外食もできるようになった。

でも大勢の席や人混みは苦手になった。

空や自然がより好きになった。

新しい仕事のことを考えられるようになってきた。

人の生活に関心が持てなくなった。

見ず知らずの人に優しくできるようになった。

友達と会う機会はかなり減ってしまった。

祝日や行事は他人事になった。

一人で出掛けることや一人で歩くことに慣れてきた。

夢や野望はなくなっちゃった。

楽しいことがしたいとは思えなくなった。

体を動かしてみる意欲は湧いてきて、ヨガに通ったりもした。

無理はしなくなった。



何より、

てっちゃんのことを、更に好きになった。

でも、

てっちゃんとは、私が死ぬまで会えないんだってことは理解した。

そのときまで、自分が一生向き合わなきゃいけない、抱えなきゃいけないことの重さを思い知った。


でも、

こうなったからこそ出会えた人、
巡り会えたもの、
気づけたこと、
大切にできる時間、
より強くなった関係や思い、

そういうものも山のようにあることを知った。


こういう人生に
させられてしまった自分にだからこそ、
できることやわかること、
いつか何かの力になることがあるはずだってこと、

それを一つでも増やしていくしかないということをわかってきた。


あのキラキラした頃とは違う、
毎日ゲラゲラ笑ってた時とは違う、
夢に溢れてた心とは違う、

泣き虫で、
いじけてばっかで、
イライラして、
暗いばっかりの私のことを、


今てっちゃんはどう思ってるんだろう。

それが不安でまた涙が出てきちゃうけど、

明日は、てっちゃんにいっぱいいっぱい、

いつも以上に感謝の気持ちを伝えよう。



前よりもさらに強くなったてっちゃんへの気持ちも、
たくさん伝えよう。