てっちゃんが私のために何度も言ってくれていた言葉… 32歳、急性リンパ球性心筋炎で、具合を悪くしてたったの5日で逝ってしまったてっちゃん。最後、彼と何も話せなかった。 頭の中をグルグルする滅茶苦茶な想いを、とにかく吐きだしてみようかと思う。 <The title of this blog is the words My husband, Tetsuya often said to me...He was only 32 years old, passed away due to acute lymphocytic myocarditis. I could not talk with him enough after he felt sick. I will just write out my feeling and emotion that are stucking in my mind everyday.>
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2016年8月26日金曜日
あきらめる…。
あきらめてきた。
そんな気がしている。
てっちゃんが死んじゃったという事実にも、
今私に降りかかっている現実にも、
これから生きなきゃいけない人生にも、
人が亡くなるということが、大切な人を失うということが、当然じゃないのに当然のように日常の中に流れていく世の中にも、
幸せそうにしている人たちを目にしなきゃいけない日々の生活にも、
誰のことも責めようがないということにも、
あきらめがついてきた気がする。
少しだけ。
受け止め始めたというより、あきらめはじめた。
受け止めることは不可能。
乗り越えることも不可能。
だから、あきらめるしかない気がする。
そのやり方、感覚がいいものなのかわからないけれど、でもあきらめないと割り切れないし、割り切れなければ私は一生このままだと思う。
前と同じ気持ちでは笑えない、一生。
前と同じようには楽しめない、ずっと。
前の私ではない。
でも、それも全部あきらめるしかないのかな。
てっちゃん、どう思う?
こういう時に、遺影の中のてっちゃんの笑顔が、私の気持ちを複雑にさせるんだよ。
2016年8月21日日曜日
結婚式
去年のこの第三土曜日、8月22日は私達の結婚式だった。
去年のこの日は、今日みたいに不安定な天気じゃなくて、みんなに申しわけないほどの暑さで、でも私の大好きな青空の力をいっぱい感じることができた。
家族とたくさんの友達に囲まれて、みんなからの愛も、てっちゃんからの愛もたくさん感じた1日だった。
まさかまさか、一年後がこんなふうになっているなんて思わなかった。
みんなだってそうだった。
てっちゃんだって、そんなことこれっぽっちも考えてはいなかった。
楽しかった。
幸せだった。
元気だった。
去年の今頃はこんなふうだったとか、あんなふうだったとか、いろいろ考えてはきりがなくなってる私を見たら、てっちゃんなんて言うだろう。
きっと、あの時からこんなふうに変わってしまったってネガティブに話すんじゃなくて、
あの時は何が楽しかったとか、また◯◯したいとか、ポジティブな話をするんだろうな。
でも、それは一緒にいればこそできる話…だな、やっぱり。
そんなふうにきれいな話はまだできない。
てっちゃんと一緒に過ごした10年間で、私はかなりポジティブ思考になった。
てっちゃんといると、ネガティブではいられなかった。なる必要もなかった。
でも、そのてっちゃんがいなくなっちゃって、また逆戻りした気分。
てっちゃんだったら、もうそろそろ前を向いて歩いているのかな。
昨日は月命日でもあった。
てっちゃんの好きだったものを食べることにしている日。
嬉しい記念日じゃなくて、悲しい日。
だけど、好物を出したら、少しでも喜んでくれるかなと思う。
てっちゃんの好きだったものを食べられる日、と思えば、毎月くるこの日の迎え方が少しだけ変わる。
…気がする。
2016年8月16日火曜日
お盆
初盆だった。
ドイツから戻り、てっちゃんの実家で、家族と過ごした。
家に着き、祭壇の前に座り、久しぶりにお線香をあげる。
何度もやってきてることだったけど、何度やっても骨壷から出てきてくれないてっちゃん。
何度てっちゃんの家に、てっちゃんの部屋に入っても出てきてくれないてっちゃん。
ドイツという少し離れたところからしばらくぶりに帰ってきたせいか、いつも以上にそれを感じてなかなか手が合わせられなかった。
バカみたいだけど、でもどこかまだ本気で、てっちゃんが生き返るすべがあるんじゃないかと思ってる自分の想いが粉々にされた気分だった。
家族が実家に揃う日程を考えて、迎え火は法要の前日だった11日に、送り火は昨日焚いた。
正直、てっちゃん自身も、てっちゃんの魂も、その居場所がどこにあるのか、本当にあっちに行ってしまったのかも、まだよくわかっていない状態だったから、お盆に「帰ってくる、天国に戻る」という感覚にも違和感があった。
でもやっぱり、実際火を焚いてみると、その間涙が止まらなかった。
そういうことをてっちゃんのためにやっているという、この現実が悔しくてたまらなかったのもある。
でも、そういう儀式にはやっぱり何か持つ意味や感じるものがあるんだなと、こうやって一つ一つの節目を大事にすることが大切って、こういうことなんだなって、感覚的にだけど思った気もする。
それが、今の私のこの心境にどう影響したかは、まだよくわからないけれど。
私の先輩でもある、てっちゃんの友達や先輩が何人か訪ねてきてくれた。
てっちゃんが好きだったからと持ってきてくれたお酒を、お父さん、お母さんと一緒にたのしみながら、てっちゃんのこと、高校のこと、大学のこと、アメリカでのこと、たくさん話した。
「てっちゃん、この話聞いたら絶対◯◯って言ってるね」
と、てっちゃんの声や表情、リアクションを想像しながらたくさん話した。
そんな会話を通して、わかってはいたけど改めて気づく。
私にはもっともっとてっちゃんのことを話す相手、時間が必要。
今はやっぱりてっちゃんのことで頭がいっぱい。
そしてやっぱり、てっちゃんに会いたい…。
でも、やっぱりてっちゃんがいない…。
てっちゃんの姿だけが見えない、てっちゃんの声だけが聞こえない。
こんなにみんな集まってるのにてっちゃんだけがいない…。
なんでよ、なんでよ、なんでよ。
こうやって想っているのが私だけじゃないこと、てっちゃんの家族だって、友達だって、先輩だって…
みんなそんなふうに思ってるんだと思うけど。
来年もまた来てね。
そう言うのが適切なんだろうけど、どこにも行ってほしくなかった。
魂だけじゃなくて、全部かえってきてよ。
2016年8月12日金曜日
あの時、それ以降のこと。
書きたいのに書けない。
あの時のこと。
少しずつ、でもできるだけたくさん、書き出してみてるけど、やっぱり、今書き出してある分以降のことは、手が動きたがらない。
思い出したくないわけじゃない。
むしろ忘れるのはこわい。
書き出せばすごい勢いで書けるのに、書く前からいろんな記憶や場面が順番関係なく、どんどん頭の中で迫ってきて追いつかなくなる。
一番書きたいことなのに。
書けないなら書かなくていい。
そんな単純なことも、今は一つ一つ考えてしまう。
夢の中での私達
ここ数ヶ月、具体的にいつ頃からかわからないけれど、
やっぱり眠りが浅いのか、とにかくたくさん夢を見る。
てっちゃんは全然夢を見ない、というか覚えていないことがほとんどな人だったから、
それに比べると私は、夢を見ることは昔から多かったかもしれないけれど、
でもとにかく最近は、毎日見る。
朝起きた時点で、内容をはっきり覚えていないことももちろんあるけれど、
夢をたくさん見た感覚はすごくあって、起きた瞬間からすごく疲れる。
起きた時から頭が重い。
そんなことがかなり頻繁にある。
アメリカから日本に帰ってきて、まだ間もない頃、とにかくとにかくてっちゃんの夢を見ることが私の毎日を支える力になっている気がして、毎晩毎晩必死にてっちゃんにお願いをした。
そういうときに限って、あんまり出てきてくれなかったりして…
そんな翌朝は、それに気づいた瞬間から気持ちが沈んでしまって、
夢にすら出てきてくれないてっちゃんに怒ったことも何度もあった。
やっと出てきてくれたかと思うと、冷たい態度をしたてっちゃんだったり、
てっちゃんだということはわかるけど、表情がわからなかったり…。
夢の中ですらも、てっちゃんは死んじゃった設定になっていたりすると、
“否定したくて仕方がないことなのに、頭はやっぱりちゃんとわかっているんだ…”
と自分を残念に思ったりもする。
逆にときどき、すごく楽しそうに笑っていたり、私のために優しくしてくれたり、しっかり抱きしめてくれているのを感じる夢を見ることもあって、そうすると、起きた時に、その一瞬の感覚だけを頼りに、その日一日のエネルギーをしぼり出すことができる気がしたりもする。
その中でも、今までの自分では見たことのなかった種類の夢がある。
てっちゃんが幽霊にでもなっちゃったかのように、私にだけ見えてる夢。
てっちゃんはそこにいるし、私とは会話も普通にしているのだけど、周りの人は全然気づいてくれない。
しかも2,3回見た。
細かいストーリーまでは覚えていないけれど、私はてっちゃんがかえってきたと喜んでいるのか、とにかく興奮していて、周りの友達に、
「ほら!てっちゃんここにいるよ!」
と何度も声をかけるのに、どの人も無視をするか「何言ってんの」と信じない。
でも私たちは私たちで、2人で話してるのも楽しいから、それはそれで楽しんでいて、最終的には、
「なんでみんな気づかないんだろうね~。変だね~みんな。」
と言って、あまり気にしない。
そんなふうに話したところまでは覚えているけれど、そこからの内容は覚えていない。
生きているという設定でもなく、死んじゃってるわけでもなく、私にだけ見えるてっちゃん。
それが何を意味しているのかはわからないのだけれど。。。
会いに来てくれたのかなとも思うけど、なんだかよくわからない。
この前見た夢で、少し驚いたのは、
てっちゃんが目の前にいて、普通に普段通り会話をしていた場面で、自分が頭の中で、
「この会話が途切れたら"なんで逝っちゃったの?"って聞こう」
となぜかはっきり思ったこと。
実際に聞けた記憶はないし、その夢がどうやって終わったのかも覚えていない。
でも、なぜか普通の会話の中で、ふとハッキリそう思ったのを目が覚めたときに思い出した。
次会ったときはちゃんと聞けるかな。
答えちゃんとくれるかな。
そんなこと聞かれたって一番困るのはてっちゃんなんだけど…
てっちゃんの「死」を自分なりに受け止めていこうと必死に努力する中で、時期によって感覚が変わるのが、
てっちゃんは今どこにいるのか。
遠くの空のどこかにてっちゃんがすごく穏やかな顔してこっちを見ている気がするときもあれば、
私のすぐ隣で私のことなんか気にせずぐっすり眠っている気がすることもある。
ふと目の前に飛んできた蝶々がてっちゃんかと思うこともあれば、
空にポツンと浮かぶ雲がてっちゃんに見えることもある。
でも、どんなにどんなに探しても見つからなかったり、どこでどうしているのか見当がつかなくて、居場所を感じられないときもある。
そんなときは、てっちゃんの写真に向かって「ただいま」とか「おやすみ」というのもなんだかいつも以上にすごく淋しく虚しくなる。
夢はその時の心境を表しているとか何とかって聞いたこともあるけれど、そんな感じもしない。
夢で会えるだけいっか。
いや、やっぱりそんなの絶対嫌だ。
会いたい。
そんなんで満足したくない。
こうやって、一人で葛藤する。
2016年8月3日水曜日
本を読む
ブログを始める少し前ぐらいから、いくつか本を読んでみている。
「家族を亡くしたあなたに」
「やまない雨はない」
「夫をなくしてからのひとりの生き方」
「人は死んでもまたあえる」
自分の言葉にできない想いを、代弁してくれてる気がして、すごい勢いで読んだ本もあれば、
少し宗教観が強すぎて、勉強にはなったけれど、「参考程度にしておいたほうがよさそうだな」と思う本もあった。
良いと思って読み進めても、途中で苦しくなって手を止めたことも何度もあった。
書かれている状況、想いに、自分の経験や心があまりに重なると、ホッとするようで苦しくもなる。
東日本大震災に関連して出された本や放送されるテレビ番組もその一つ。
それこそ、理由も状況も違うから、同じように感じるには安易な部分もあるかもしれないけれど、
でも、突然目の前からいなくなってしまった家族がいる人のことや、
そうじゃなくても、一人の人生の中であるかないかというぐらいすごく衝撃的なことが、
自身の身に起こった感覚とか…
私なりにだけど共感だったり参考になったりする部分がある。
本の執筆に協力したり、テレビに出たりしてみようと思う人は、
どこか何となくでも、必死にでも、その現実を受け止めていたり、受け止めようと努力していたり、
その中で続く自分の人生と向き合おうとしてみていたり、それがうまくできなくても何かしら外に発信しようとしている…そういう意味では私がやってみていることも近いのかな?
…と、これを書きながら考えてみたり。。。
一人の人の経験を一冊の本や一つの番組にしているものもあれば、
何人もの経験談を集めているものも読んだり見たりした。
ここには書ききれないほどたくさんのことを考えたし、感じたし、気づいた。
その中で、ちゃんと胸に刻んでおかなきゃいけないな…と思ったことは、
どれだけ私が、今回のことでたくさんの人に支えられて、助けられて、
最小限の身体的・心理的負担だけでやってこられたかということ。
てっちゃんという、最高で最大で最愛のものを失ってしまったことは事実でしかないけれど、
それでも友達がいて、兄姉がいて、親がいて、そしててっちゃんの家族がいて…
感謝すべき人の名前をあげていたら、日が暮れてしまいそうなほど、
本当にたくさんの人たちのおかげで私は救われたんだと思う。今、生きていられるんだと思う。
本や番組の中に出てくる人の中には、もともとの本人の性格も関係するかもしれないけれど、でも周りに思いを吐きだす人が十分にいなかったり、そうしようと思っても周りの人から十分に支えてもらえなかったり、そんな人達がたくさんいた。
その人たちが不幸だとか、私が幸せとかそういうことではなく、
でもただ、私は本当にたくさんの人たちの力によって、今生きられているんだと、そう思う。
話を聞いてくれる人がいること、
気持ちがいっぱいいっぱいの時に、私の代わりに頭や体を動かしてたくさんの手続きを手伝ってくれた人がいること、
ご飯を作ってくれる人がいること、
てっちゃんの話をたくさんしてくれる人がいること、
その時の私にできそうなことを必死に考えてくれて、一緒に動いてくれる人がいること、
経済的にサポートしてくれる/くれた人がいること、
ただただ、涙を流させてくれる人がいること、
私のせいじゃないと、私のことを一番に心配してくれる人がいること、
だからといって、まだそれを糧に、恩返しのために、ちゃんと立ち上がらなくちゃ、と思うほど、
頭と身体は元気ではないのだけれど、でも、
“「心から」感謝する”
ってこういうことなんだなって、それこそ心の底から思う。
一番上に書いた「家族を亡くしたあなたに」という本は、
アメリカの心理医の女性が書いたもので、まだ読み切れていない部分はあるけれど、
今まで読んだ本の中では、一番自分の気持ちに合った部分が多い本。
今度、気が向いたら、その本の中身も少し書き留めていこう。
そして、もし良さそうな本や記事、何かあればぜひ教えてください。
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