てっちゃんが私のために何度も言ってくれていた言葉… 32歳、急性リンパ球性心筋炎で、具合を悪くしてたったの5日で逝ってしまったてっちゃん。最後、彼と何も話せなかった。 頭の中をグルグルする滅茶苦茶な想いを、とにかく吐きだしてみようかと思う。 <The title of this blog is the words My husband, Tetsuya often said to me...He was only 32 years old, passed away due to acute lymphocytic myocarditis. I could not talk with him enough after he felt sick. I will just write out my feeling and emotion that are stucking in my mind everyday.>
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2016年12月31日土曜日
年越し
年越しとか新年とか、今年とか来年とか、
正直そんなことはどうでもよくて、
でもやっぱり、日本人だからなのか、12月31日って言う数字を見ると、どこか区切りな気がしちゃう。
てっちゃんがこの瞬間、僕がいなくても楽しく過ごしてほしいと思ってるのか、一緒に過ごせなくて淋しいと思っているのか、まだやっぱりわからない。
どっちもなんだと思う。
私は後者でしかないけれど。
でも、目の前に大事な人たちがいる現実も現実だから、それはそれで大切にしなきゃいけないと思う。
てっちゃんがアメリカにいると思ったのか、てっちゃんがいる場所だと年越しまであとどれぐらいなのか計算して連絡したいと思って携帯を手にとっている自分がいた。
会いたい。
近くにいたい…。
てっちゃんが戻ってくる方法がないかと必死に考えるのと同じぐらい、周りのみんなを悲しませずにどうにかして少しでも早くてっちゃんに会いに行ける方法はないか考える。
1年よく頑張った!って、一回だけ会いに来てくれないかな…。
2016年12月27日火曜日
ごめんね。
たくさん話したいのに、
たくさん問いかけたいのに、
ちょっと思考停止状態かも。
聞いても聞いても返事がないからなのか、
それだけ私が冷静になりつつあるっていうことなのか、
全然わからない。
死んじゃいやだよ、てっちゃん。
遠距離でも耐えるから、忙しくて遊びにいけなくても我慢するから、
でも、一生会えないのは、命が亡くなっちゃうのはダメだよ、てっちゃん。
みんな悲しんでるよ。
わかってるよね、もう嫌というほど聞こえてるよね…
今さら遅いよね。
ごめんね。
ごめん。
やっぱりそれしか言えないや。
2016年12月24日土曜日
2016年12月23日金曜日
寂しいね。
てっちゃん。
人混みの中を通るとね、いまだに人の流れが苦しくて、それに飲み込まれないように下を向いちゃうことが多いんだけどね、でも、今日ふと思ってね…
人の幸せそうな顔はみたくないけど、でもちゃんと顔あげて周りを見てないと、もしかしたら見つかるかもしれないてっちゃんを見つけられるチャンスもなくなっちゃう、って…。
でも、結局は苦しくなって、息止めて一気に人混みを早足で抜けたんだ。
私、こんなになっちゃった。
誰のせいにもできなくて、考えに考え抜いて誰かに責任を押し付けようとすると、自分に返ってくる。
てっちゃんは少し元気になった?
クリスマスとか、年末年始を迎えるのがこんなに楽しみじゃないの、初めてだよ。
一緒にいられないの、寂しいね…。
今年だけ我慢すれば、来年のクリスマスとかお正月はまた一緒に楽しめるってわかってれば、あきらめだってつくと思うんだけど。
この世の私からの声はきっとてっちゃんには聞こえてて、ただてっちゃんからの返事が聞こえてこないだけ。でも、あの世にいるてっちゃんは、どんなに必死に私に声をかけ続けてても私は聞こえてない。片道すら届かないんだもんね、てっちゃん、向こうでずっとずっと、私よりずっと苦しい想いしてるのかな…
もうすぐ一年経つんだって。
私どうしたらいいんだろう。てっちゃんはもうけりがついた?現実受け止めた?
2016年12月21日水曜日
叶わないものを叶えている姿
人の幸せがどうしても穏やかに受け止められない。
幸せそうに見えるだけで、本当はたくさん苦しい思いをしている人たちかもしれないのに、そこは私の目と心には映らない。
見ず知らずの人のそんな姿に対して、羨ましいというか、不公平感とか憎さすら感じちゃうこともある…。
テレビの中の作り話にすら、しかも本当に些細な素朴な日常のやりとりや、感情の変化や、言葉のやりとりでしかないのに、てっちゃんと私にはもうそんなやりとりが叶わないと気づいた途端に、心の中が一気に濁る。
何かふと思ったことがあったとき、話したくなることがあったとき、触れたくなったとき、それをその感情のままに叶えたいだけなのに。
他人のそんな一つ一つの言動が、私たちに当然のようにできていたことで、今できなくなってる現実に、ただの運命だという残酷な理由しか存在しないから、どうしてもどうしても穏やかでいられない。
そんな自分に気づいたときに、「みんなは全く悪くない。何を人に嫌味な目を向けてるんだ」って自分に言い聞かせるので精一杯。
てっちゃんのことがあったことで、私が悩むのは、自分とてっちゃんの二人の間の問題だけであってほしいのに…。
それ以外に対する自分の感情や人間性が変わってしまうことだけは本当にやめたい。本当に…。
2016年12月16日金曜日
ありがとう。
てっちゃん、ありがとう。
昨日の夜は、またちょっと急にいろんなことが不安になって、怖くなって、自分も嫌になって、寝る前に見つめたてっちゃんの写真の顔が、いつもの優しい顔に見えてない自分がいた。
でも、夢で、てっちゃん私の手を握っててくれた。その他のことは覚えてないけど、その手をさすった感覚を覚えてる。
ここに書けば、どこかできっと読んでくれてるって信じてるよ。
こうやって書いてる私の姿をずっと見てくれてるって信じてるよ。
昨日の夜、夢に出てきてくれたのは、てっちゃんが私を少しでも安心させるためだったんだって信じてる。
ありがとう。
今日も、すごくしんどいことがあったから、てっちゃんの力がほしい。
でも、欲張りは言えない。
でもやっぱり、また会いたいよ。
2016年12月14日水曜日
久しぶりの声
夢の中でてっちゃんと電話で話した。
あの日以来初めてだった。
ハッキリと声を聞いた。
今まで夢に出てきたときも、会話はしてたんだろうけど、あまり「てっちゃんの声だ!」って認識することはなかった。
でも昨日は、てっちゃんと電話をしながら、てっちゃんの声を聞けてホッとしてる自分がいた…のを覚えている。
“てっちゃんの声、私ちゃんと覚えてるんだ…”
目が覚めたときそう思った。
そりゃそうか、って、そんなふうに思ってる自分がバカらしくも思ったけれど、でもとにかく久しぶりだった。
声が聞こえてきそうとか、そう思うことはあっても、やっぱりちゃんと実際に聞かないと、どんな声なのかわかるようでわからない。
そう思ってたから。
その夢の中の会話自体は、
てっちゃんに私が電話をかけたら、電車に乗るところだったらしく、しかもそんなに機嫌も良くなくて、「電車降りたらかけ直すから!」と、今はさっさと切りたいと言いたそうな感じで、ある意味てっちゃんらしいというか、そのきっぱりした感じ…でも温かさも感じた。
それで、“もう少し待ってればまたてっちゃんの声が聞ける”って、なんかソワソワしながら待っていたら目が覚めちゃった。
今までの生活だったら、てっちゃんと電話をすることなんて当然で、ソワソワするようなことでもなかったのに、そこはなんだか今の現実の意識が夢に入り込んでた…。
でも、声が聞けて良かった。
もっと話したかったけど、もっと声をゆっくり聞きたかったけど、でも、良かった。
2016年12月13日火曜日
…
会いたいよ…
ただ、ただ、あの優しい笑顔で受け止めてほしいの…
会いたいよ…
会いたいと思う気持ちがどうしてもコントロールできないよ…
会えないとおさまらないよ。
てっちゃん…会いたいよ。あの頃に戻りたいよ。涙が止まらないよ。会いたいよ。どうしたらいいんだよ、てっちゃん。
2016年12月12日月曜日
てっちゃんと連絡がとれれば…
一回でいいから、
というのは控えめなお願いで、本当は何回でも…と思うけど、
でも一回でいいから、
今てっちゃんがどこでどんなふうにしてるのか、てっちゃんがいるところがどんなところなのかを見に、てっちゃんの近況を聞きに、いける手段がほしい。
周りの人が信じてることや、本に書いてあるようなことや、想像の世界の話じゃなくて、私が私の力で…
夢でもいいし、幻覚でもいい。
自分の力でそれができれば、それは自分が自分で見たものなんだからって、少しは納得できる気がする。
このことに「現実味」という言葉は使いたくないけど、でもその見たものに少しは現実味を感じることができる気がする。
というか、あの日から今日まで、いろんな人にいろんな言葉をかけてもらって、一つ一つがありがたくて、でもひねくれて受け取ってしまう自分も確実にいて…
私なりに必死に、周りの人の言葉を受け止めて受け入れてみようとしてきたつもりだけど、
こんなふうにしてみたらてっちゃんもきっと喜ぶよとか、
こんなふうに考えるしかないよねとか、
こう考えてみたら少しは楽かもしれないよとか、
そんなふうにたくさんのパターンを提示してみてもらうんだけど、どうしてもしっくりくるものがない。
自分を奮い立たせるというか、この想いをバネに踏ん張ってやろうって…こう考えてみるしかない!って思える状況がどうしても見つからない。
みんなからもらう言葉が嫌だって言うんじゃなくて、こんなにたくさんの人達が、必死にてっちゃんと私のことを想って考えて言葉を選んでくれた、こんなにたくさんの手段を持ってしても動いてくれない自分の心とこの変わらない現実に、もうどう手を付けていいのかわからない。
動かない気持ち、動けない心を、無理に動かそうとする必要なんてないと思いつつ、でも外の世界に目を向けると、やっぱり世界も、周りの人も、進んでる、動いてる。
物理的にだけじゃなくて、時間空間というだけでもなくて、心も。
私にとって、てっちゃんの身に起こったことも、その結果この現実と自分が闘っていることも、“てっちゃんと私”の中で起こったことだから、てっちゃんと私のやり取りの中で、何か納得なり力に変わるものなりが見つけられないと結局はダメなのかなって思った。
でも、それは現実的には無理なこと…。
2016年12月11日日曜日
心と頭、写真とお骨
自分も現実もわからない。
頭の中でグルグル回ってたもの、回ってるもの、なんだかもう本当に数え切れないほど回りすぎて混ざっちゃったんだろうかと思う。
いろんな思いが駆け巡りすぎて苦しいから、一つずつ吐き出そうとしてみるけれど、もうその要素すらつかめなくなってきてる気もする。
少しそのグルグルした状態に、自分の身体がついてくるようになっただけで、中身は何も変わってないことはわかる。
だって私まだ、てっちゃんが死んじゃったって思ってない…。
あの数日に起きたことが、全ててっちゃんの身に降りかかったことだってことも、それを隣で全部見てたのが私だってことも、そのことは全部わかってる。
それが理由で日本に帰ってこなきゃいけなくなって、たくさんの人達がてっちゃんの最後に会いに来てくれて、来られなかった人もみんな、その事実を知りながらあれから毎日を過ごしてる。
それはわかってる。
でも、そのすべての結果、てっちゃんが死んじゃったってことがわかってない。
信じられるとか信じられないとか、そういうことでもなく、わかってない。
まだ、まだどこかで何かを信じてる。
たぶんわかってないのは私の心。
頭はわかってる。
てっちゃんの遺影を見つめながら、話をする。
でもあまりの違和感に長く話せない。
写真と向き合えばてっちゃんの顔が見えるけど、てっちゃんの身体の一部は骨壷の中にある。
だからお骨に向かって話すほうが、てっちゃんっていう「人間」と話せてる気がする。
そうじゃないとどこかそっぽ向いて話しちゃってるようにも感じる。
でも、お骨と向き合っているとてっちゃんの表情が見えない。見ようとすると、なぜか、悲しいけどなぜか、元気だった頃のてっちゃんじゃなくて、息を引き取ったあとのあの顔が出てきちゃう。
ベッドで息をしなくなっちゃったてっちゃん、
霊安室に運ばれたあともう一度会いに行ったときのてっちゃん、
お別れ会のときに数日ぶりに会ったてっちゃん、
日本に着いて改めて会ったてっちゃん、
納棺のときのてっちゃん、
お花をいっぱいに敷き詰められて、本当に顔しか見えなくなっちゃったてっちゃん、
そんなてっちゃんが、場所を変えて運ばれて、生きている私には絶対に入れない、扉の向こうの熱い熱い部屋に入れられちゃった…
出てきたらてっちゃんの面影これっぽっちもなくなってた……
悲しさよりも衝撃だった。
そんなすべてを振り返らないと、骨壷にてっちゃんの一部が入っていることが、私の心にはわからない。
でも、頭ではわかっている。
じゃあなんで、わかっている頭で心をコントロールできないんだろう…
それがわからないから…それができない自分もわからないし、この現実にどうしたって納得ができないから困ってる。
解決策はてっちゃんにしか持ち得ないものだとわかっているから先が見えない。
2016年12月5日月曜日
報告
もしかしたら、これを読んでくださっている方の中には、
てっちゃんつながりの知り合いの方もいるかもしれないし、
ただただ、てっちゃんを想う気持ちで、少しでもてっちゃんの事を知ろうと、
このブログを開いてくださってる方がいるかもしれないし…
私の想いだけじゃなくて、現実的な報告を少しだけします。
1月には一周忌になります。
一周忌の法要は、勝手ながら、身内だけでやらせて頂くことになりました。
お墓に関してですが、実はまだ納骨はしていません。
できていません…。
お墓参りを通して、てっちゃんに会いに、挨拶に行こうと考えてくださってる方も、もしかしたらいるかと思いますし、納骨を済ませることで、皆さんの為だけでなく、もしかしたら私自身の為にも、何か良い方向に働くことがあるかもしれないとは、たくさん考えました。
でもまだ、心の整理も全然できていないので、てっちゃんの家族とも相談をして、
もう少し私の家に一緒にいてもらうことにしました。
もし自宅でもよければ、ぜひてっちゃんに会いに来てあげてください。
お位牌は、てっちゃんの実家の仏壇に入れてもらっています。
こうやって、てっちゃんの「居場所」がどこだかよくわからないと言われてもおかしくない状況を作り出しているのも、また自分自身ですが、今はこの形が、自分にとって、家族にとって、少なくとも今は、いいのだと思っています。
今の私にとって、てっちゃんを知っている方と、彼の話を一緒にできることは、
とても気持ちが安らぐことだと感じています。
もちろんそれは、てっちゃんの事をよく知らない私の知り合いといるのが心地よくないという意味では全くなく、
てっちゃんとの話を一緒にできる方とお話ができるということは、もし今まで面識がなかった方だったとしても、今の私には力になります。…と今は感じています。
2016年12月3日土曜日
悲しいことがあったとき…。
ちょっと、というかだいぶ悲しいショックなことがあった。
もうこれ以上、大切な人を、少なくとも私は大切だと思っている、恩人だと思っている人を失いたくはないのだけど…。
てっちゃんがいなくなってしまったこととは別の部分で、こういう想いをしなくちゃいけなくなると、
こういうときに、てっちゃんに話を聞いてもらえない現実を改めて突きつけられると、
こうやって私は、てっちゃんのいない世界で、自分の世界で生きていかなきゃいけないんだって、
またすごく弱気になって、心細くなって、いろいろなことに怖がる自分がまた出てくる。
私は今周りの人に守ってもらって、支えてもらって、なんとかやってる。
でも、それに甘えすぎて、いつまでもいつまでもそうしていると、どこまでも被害者ぶっているように私を見てしまう人もいるんだろうなと思う。
こんな私にずっと寄り添う周りの人も、相当のエネルギーがいる。
そのことは忘れちゃいけない。
てっちゃんだったら、こんな時どんな言葉をかけてくれるだろう。
どんな風に私に接してくるだろう。
10年一緒にいた。
でも、たかが10年でもあった。
一緒にいた時間にお互い経験したことは、本当にたくさんあったし、たくさんのことを話し合ってきた。
たくさんの言葉をかけあってきた。
でも、それでもやっぱり、一緒にいた時間には経験しなかったことが、まだ人生には山ほどあって、
てっちゃんの声がなかなかスッと聞こえてこない。
きっと、結局私の心の整理がつくのを黙って見守ってくれてるんだろうなと思う。
困って意見を求めると、予想以上にあっさりと、あっさり過ぎて逆に受け入れるのに時間がかかるぐらい現実的に、彼なりの結論を提示してくると思う。
てっちゃんという最強に心強い存在がいれば、多少心が折れそうになっても、
最終的な受け皿がある感覚があった。
今はそれがなくて、背筋がピンと伸ばせない。よしっ!って思えない。
それもまた現実。
白い温かい空間
昨日、お風呂に入って、首の深さまで身体を沈めてお湯につかって目を閉じてみた。
いつも入っているお湯よりも少しだけぬるくて、身体とお湯の間に一枚膜があるような、
身体がほんのり温かいボワっとした空間に包み込まれて浮いているような、
そんな感覚がした。
淡く白い、ただただ、そんな空間。
その時にふと思った。
あの時、
てっちゃんが挿管のために意識がなくなるその時、
この世から離れざるを得なかったあの時、あの瞬間、
てっちゃん、こんなふうな感覚だったのかな。
…むしろ、こんな感覚でいてくれたらいいんだけどな。
意識が遠のく中で、呼吸の苦しさから解放されていくとき、
頭上から引っ切り無しに降ってくる私の声を聞いていたとき、
口は動かなくても、声は出せなくても、ボーっとする頭の中で私に返事をしてくれながら、
温かいものに包まれていくような、何も感じなくてよくなる解放感を全身で感じてくれていたのかな。
私の想いだけを言えば、
そんな温もりなんかに包まれてないで、もう一回目を開けて、一言だけでいいから言葉を交わすために必死に戻ってきてよ、って今でもそう思うけど、
でも、昨日お風呂で感じた、どうってことない感覚だけど、でもあんな感覚であの時てっちゃんがいられたとしたら、もしそうだったとしたら、
少しだけ、ほんの少しだけど、てっちゃんを想う気持ちとかあの時を振り返る気持ちに温かみが差した気がした。
全ては私の勝手な想像で、その時の自分の気分とか、思い返す場面の状況によっても、またすぐ変わったりするし、実際てっちゃんはどこまで穏やかに逝けたのかって、現実的なことを考えたら、こんなことを考えること自体馬鹿馬鹿しいと思ったのだけど。。。
そんなことを考えてお湯に浸かっていたら、そのまま意識を持っていかれそうになって、すぐ目を開けて自分を現実に戻した。
てっちゃんも、こんなふうに「ダメだ!」と思って目をぱっと開けられる力があったらよかったのに…って、結局悲しい気持ちになってた。
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