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2016年7月31日日曜日

単純だけど一番大きな疑問。



なんでだろう。

なんで、てっちゃんに会えないんだろう。

なんで、てっちゃんは逝っちゃったんだろう。

なんで、てっちゃんと喋れないんだろう。

なんで、てっちゃんの手を握れないんだろう。

なんで、私は一人で寝ているんだろう。

なんで、私はこんなにもずっとずっと、てっちゃんの事を考えているのに現実は変わらないんだろう。

なんで、あの時のように幸せな気持ちでいられなくなってしまったんだろう。

なんで、てっちゃんはここにいないんだろう。



写真の中に映っている私たち二人を見て、別世界のものというか、誰か全然違う人なのかな、と思うこともある。

その一枚一枚のその時、その瞬間に感じていた、てっちゃんとの距離や空気、匂いも全部覚えている気がして、それが今この世の中にはないと思うと不思議でたまらなくなって、それが自分たちだとすら思えなくなる。
過去とか今とか、そういう次元の感覚ではない。



てっちゃんが今ここにいてくれれば、一緒にいられれば、今の私の全てが解決する。
そう思う。



一番単純だけど、絶対にかなわないことが、私の全身から離れない。


どんなに一分一秒を過ごしてみても、
少し違う考え方をしてみようとどんなに努力をしてみても、
その想いが私に引っ付いて離れなくて、それを刺激するようなことが起こると一気に苦しくなる。


目に入るもの全てと言っていいほどに、いろんなものをてっちゃんとの何かにリンクさせている自分がいて、一瞬も頭が休まらない……気がする。


てっちゃんと一緒にいられることが、あまりにも当然になっていたから、その当然ができないことがなぜなのかがわからない。
想い合っていて、助け合っていて、必要とし合っていて、ちゃんと2人で前を向いていたのに。


てっちゃんと一緒にいたい。
その単純極まりないことが、なぜそんなに難しいのかがわからない。



誰か、「それはてっちゃんが死んじゃったからだよ」ということ以外の答えをくれないものか。。。





そんなことは考えても仕方ないとか、そんなことを考えている自分が嫌だとも思うけど、
それはもう自分で止めないことにした。
考えてしまうことを止めることは今の自分にはできないから。

止めなくていいんだと思えるようになったドイツ生活は、一つの大きな収穫。

考えていることは変わりないけれど。



2016年7月20日水曜日

あの時のこと。1月18日。3つ目の病院にて。前半。


2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)にて。




こうやって振り返りをしていると、思い出したこと、覚えていることを、
ちょっとでも書き留めておきたくて、だいぶ文が長くなってしまう。

でもそれをするためだから、とにかく書きます。



B病院は、てっちゃんが働いていた大学病院(C病院)から通りを一つ挟んですぐのところにある、市内でおそらく二番目に大きな病院だった。

去年、知り合いのアメリカ人が具合を悪くし、そこに入院していたことがあり、お見舞いにも何度も行っていたので、私も多少馴染みがあった。



S先生と病院に向かう途中、いろいろ話をしたが、先生もさっきまでいた病院で心電図を含め、
てっちゃんの様子を目で見るまでは、そこまでだと思わなかったし、現状を見た今でもまだ驚いていると言っていた。

ただ、今の現状をしっかり見つめるために、私を変に励ますためだけの誤魔化しなどはせず、冷静かつ客観的に、専門的な立場から意見を言ってくれた。


簡単に言うと、心電図を見た限り、てっちゃんの左側の心室がほとんど動いていなさそう、
ということだった。
あの状態で、てっちゃんがあんなにしっかりしているなんて、ビックリするぐらいすごいけど、
でもそれぐらい全然動いていない、と。



私たちの方が、てっちゃんが運ばれてくるはずの救急車より早く着いていたことはたしかだったので、駐車場に車を止めて、先生と救急の入り口でてっちゃんの到着を待った。



5分ぐらい待っただろうか。救急車がやってきた。



正直、内心、


「この搬送中にてっちゃんが心停止しちゃっていて、ドラマみたいに心肺蘇生されながら出てきたらどうしよう…」


そんなことすらも頭をよぎった。

救急車の中に見えたてっちゃんは、上半身を起こした状態でストレッチャーに乗っていた。

私たちが外で立って待っているのを見つけて、“着いたよ。”と言ってくれているかのように、アイコンタクトしてくれた。

当然だけど、寝巻に着ていたヒートテックとスウェットのジャージをそのまま着ていて、
上着に着ていたダウンは私が最初のクリニックから持ってきてしまっていたからなくて、
冷たい外の空気にてっちゃんが触れているのを見て、胸が苦しかった。

搬送用の人工呼吸器マスクは少しがっちりしたもので、頭から水泳帽のような帽子を被らされて固定されていた。


手だけでも温めてあげたかったし、声をかけてあげたかったけど、ストレッチャーに取り付けられた心電図のモニターを見つめながら、救急隊員があまりに真剣に



「いい調子。そのまましっかり深呼吸続けてね。」



と声をかけ続けていたので、私はしゃべりかけることができなかった。

後から考えると、あのときがもう少し最後にちゃんと私から声をかけてあげられるチャンスだったかもしれなかった。



建物に入り、廊下を進み、エレベーターに乗り…


人工呼吸器の設定がどうなっているのかも、確認はできなかったが、
私の目からは、さっきの病院にいた時より、てっちゃんは幾分か楽そうに見えた。


先生の予言通り、そのままの足でICUに入って行った。

日本のICUのように、入り口が2重にも3重にもなっている感じとは違って、
センサードアを一つ開けると、そこに主治医と思われる先生と、その他のスタッフ、看護師さんが何人も待ち構えていた。

前の病院から、てっちゃんの情報がすでに伝えられていて、すぐに治療が始められるように準備していてくれたようだった。



病室に運び込まれるてっちゃん、それを一気に囲い込む先生たち、取り残される私達…



たしか看護師さんだったと思うが、S先生と私に外の待機スペースにいるように声をかけてくれた。


「えっ?もう追い出されるの?」


と思うのと同時に、


「先生に任せるしかない、私の出番じゃないんだ」


とも思い、でも心の隅っこで、


「これが最後なんてことはないよね…?いや、ないない。」


と言い聞かせながら、言われた待機スペースに向かった。

30mほど離れたその待機スペースに着いた途端、S先生が私に声をかけてくれた。



「こんなことはないと信じたいけど、でもいちおう、とにかくいちおう、もう一回戻っててっちゃんと最後に話ができないか聞いてみよう。この後すぐ挿管されるのは間違いないから、大丈夫だと思うけど、もう一回だけ声聞きに行ったほうがいいでしょ?」



と…。
私はすぐに



「はい、ぜひ。行きましょう!!」



と返事をして、2人で急ぎ足で戻った。

ICUの前には着くも、ドア一枚先の世界とはいえ、インターホンで呼ばないと誰も気づいてくれないし、もうすでに治療が始まっちゃってたら遅いけど…

S先生がインターホン越しに看護師さんに事情を話してくれた。

最初は断られたが、なんとかもう一度、一言だけでいいからてっちゃんに声をかけたいと必死に伝え、入れてもらうことができた。


病室の中にいたてっちゃんは、まだ身体を起こしたままで、機械の準備を慌ただしくしている何人もの先生や看護師さんに囲まれていた。


てっちゃんの横に立ち、左手を握った瞬間、涙が止められなくなってしまった。

泣いたらてっちゃんだって絶対不安になる…

そう思ったけど、ものすごい不安と焦りが、心と頭に襲いかかって、止めることができなかった。




「がんばってよ…」




と声をかけた気がする。

「がんばってる人に“がんばって”はよくない」と良く言うが、それどころじゃなかった。

がんばってもらうしかなかった。



突然泣き出した私を見て、てっちゃんは強く手を握り返して、



「大丈夫だよ。」



と、「そんな何泣いてんだよ」と少し鼻で笑いだしそうな声で言ってくれた。

本当に心からそう思っていたのか、私のために強がってくれたのか、私にはわからなかった。

てっちゃんに声をかけるために、パワーをあげるために戻ってきたはずだったのに、何も言えなかった。

手を握るのが精一杯だった。





その会話が私たちの最後のやりとりになった。





S先生は、てっちゃんの右手をグッとつかみ、


「いいか、てっちゃん。これからたぶん、てっちゃんは麻酔かけて挿管されて、意識もなくなる。でも絶対乗り越えろよ!!いいか、かなり大変かもしれないけど、大丈夫だから、絶対帰ってこいよ!!いいな!」


てっちゃんの目をしっかりと見て、力強く言ってくれた。

その勢いに、てっちゃんもしっかり先生の目を見て、


「はい、大丈夫です。」


と答えた。



あの時に、ちゃんとしっかり抱きしめてあげたらよかった。

絶対大丈夫だから、ずっと外で待ってるからね、って、てっちゃんが少しでも安心できるような言葉をかけてあげるべきだった。

もっとしっかり目を見て、言いたいこと言ってあげるべきだった。

せめて、先生に追い出されるギリギリまで、隣にいて手を握り続けてあげるべきだった。



でも、できなかった。

その場にいることすらも、もう限界だった。

早くてっちゃんの治療を始めてあげて、と無意識に思った気もするけれど、これ以上てっちゃんの前で泣いて、不安を増やさせちゃいけないとも思った気がする。

S先生に、


「もういい?大丈夫?」


と聞かれ、涙を止めることもできず、


「はい…。」


とだけ答えて、私たちは病室を出た。そんな状況になっても、それでもまだ現実感はなかった。

待機スペースに向かいながら、


「大丈夫。てっちゃん若いもん!」


と、S先生が励ましてくれた。
S先生がいてくれなかったら、私は本当にどうにかなっていたと思う。

この瞬間、私よりもっともっとどうにかなりそうだったのは、てっちゃんだったはずなのに…。


酸素マスクをつけながら二回も救急車に乗って、病院を3か所も回され、
急に大勢のドクターたちに囲まれ、
私は泣いているし、
S先生にはこれから挿管されると言われるし、
周りは英語でいろいろ言ってるし、
苦しいし…


訳わからなくて、怖くて仕方なかったのはてっちゃんだったはずなのに…。



ごめんね、てっちゃん。。。



待機スペースに戻って、深呼吸をして、少し心を落ち着かせた私に、S先生は、


「てっちゃんのご両親や、ボスにももう一度、電話をして状況を伝えた方がいいかもね」


と声をかけてくれた。



頭も心も、状況に追いついていなかった私は、
そこで改めて、事の重大さと、私がすべき役割と、
そして、てっちゃんの家族が感じるであろう不安の大きさに気づいて、また一気に動揺した…

そんな記憶がある。



2016年7月18日月曜日

ドイツに着きました。


体調を崩した。

微熱とか咳とか頭痛とか、そんな程度だけど、
この半年で数回。

やっぱり免疫力も体力も落ちていることを感じる。


昔から、風邪をひくことも一年に一回あるかないかぐらいだったし、
チャールストンにいる間なんて、ほとんどなかったから、心も滅入る。

そして、てっちゃんのことをまた想う。



てっちゃんもあの時はこれぐらいの感覚だったんだよな…

でも実は、何かそれまでの風邪とは違う感じがあったのかな…

だからと言って、どうこう騒ぎ立てるタイプでもなかったしな…

よく考えたら、チャールストンにいた2年半、高熱を出したのはあの時ぐらいだったかな…



そして、そのまま、またどんどんと淋しさが襲って来たり、会いたくて仕方がなくなったり、
何とかその苦しさから逃れようと、てっちゃんがケラケラ笑っていた顔を思い出してみたり…

ひたすらそれの繰り返し。



てっちゃんは今どこにいるのか。。。


あの世だ、と言われればそれまでだけど、

てっちゃんの存在というか、私を包み込む空気みたいなものを強く感じる時もあれば、

欲しても欲しても感じれない時もある。

空を見上げると、身体のまわりにある黒い分厚い壁がふーっと一枚剥がれていくように感じる時もあれば、
雲が動いているのを見ることすら、自分は何かに置いていかれているような気がして苦しくなる時もある。



姉のいるドイツで3週間ほど過ごす。

空気も、景色も、人も、言葉も、全部違う場所で過ごしてみる。


溢れ出る涙も、

素直に笑える瞬間も、

美しいと思う景色も、

寂しいと思う心も、

眠れなくて苦しい夜も、

おなかがすく自分も、

その全てを肯定も否定もせずに、その時の自分にできる形で受け止めていくしかない。


そして、そのすべてを受け止めてくれる姉家族たちに思いっきり甘えよう。



てっちゃんがいてくれたら…と思う気持ちも、止まらないから止めない。



2016年7月9日土曜日

本当にもう会えないのかな。



答えはわかっている。

誰に結論を求めても、同じなのもわかってる。


でも、ふと…ふとだけど、本気で思う。





本当に私は、この先ずっと、てっちゃんに会えないんだろうか。。。。





あの時を全部目にしていたけど、

自分の身をもって心臓の音がしなくなったのを確認したのだけれど、

目の前にはてっちゃんの遺骨が入った骨壺があるけれど、

その遺骨を収めたのだって私なのだけど、



それでも、まだ、あまりにすべての感覚が鮮明過ぎて、本当の淋しさすら味わっていないんじゃないかとも思う。


「そりゃ当然だよ。」


と言われれば当然だし、私がこんなんだったら、周りのみんなが「信じられない」のはもっと当然なんだろうなとは思うのだけれど…


これも一つのグルグル。


てっちゃんの声も、
寝顔も、
勢いよくご飯食べる姿も、
肌の感触も、
髪の質感も、
腕の太さも、
肩幅も、
体温も、
匂いも、
何もかも…


まだ全部全部覚えているのに。


てっちゃんも、まだ全部覚えてくれてるよね。私の全部。



アメリカから戻って以来、てっちゃんには私の家に一緒にいてもらった。
来週から、お姉ちゃんのところに私がしばらく行くため、てっちゃんには実家に帰っていてもらう。


行ったり来たり、振り回してゴメンね、てっちゃん。

お父さんとお母さんとゆっくり過ごしてね。


でも、ちゃんと毎日私にも連絡してよね。




2016年7月5日火曜日

あの時のこと。1月18日。2つ目の病院にて。



2016年1月18日、月曜日。2つ目の病院にて。





受付で、「今運ばれてきた患者の家族だから中に入れてほしい」と伝えたのに、

少し待つように言われた。

10分ぐらい待たされただけだったと思うが、ものすごく長く感じた。



てっちゃんがいる病室に案内された時には、

てっちゃんはベッドの上で上半身を起こした形で寝ていて、

酸素マスクをつけ、点滴が一本始まっていて、心電図が取り付けられていた。



モニターに出ていたバイタルは、

血圧も90台、酸素飽和度も相変わらず80台だった。

心電図の波形を、私はパッと読み取れなかった。




「遅くなってゴメンね。すぐ入れてくれなかった。どう?少し違う?」




てっちゃんの手を握りながら聞いた。

“う~ん、別に。”というかんじで首を横に倒して、楽になった様子はやっぱりなかったけど、

てっちゃんもしっかり私の手を握ってくれていた。



担当の看護師さんは、酸素飽和度があがってこないことに首をかしげていたが、

そこまで慌てているような雰囲気ではなかった。

てっちゃんはそんな看護師さんの様子を見て、

さっさと治療を進めてくれない状況に少しイライラしているようだった。



てっちゃんが少し寒そうにしているので、

廊下に出て看護師さんを呼び、毛布か何か借りれないか聞いてみた。




病室を出たり入ったりの看護師さんに、状況を聞いてみても、



「今Drの指示を待っているんだけど…。なんで(酸素)あがってこないのかしらね。」



とだけ言われた。


不整脈が出ていたからだと思うが、胸が痛いなど他に症状がないか、

看護師さんは何度もてっちゃんに聞いていたが、

てっちゃんの自覚症状は呼吸困難だけだった。



しばらくすると、呼吸器専門の技師さんが来てくれて、

BIPAP(非侵襲的陽圧人工呼吸器)での治療を始めると言ってきた。




てっちゃんにとっての地獄は、むしろそこからだった。




それまで、自分なりのリズムで


「ふぅーふぅー」


と息を吐きながら、呼吸を整えて保ってきたのに、

人工呼吸器での治療になると、マスクから強制的に圧をかけて酸素が送り込まれるため、

自分のリズムで呼吸ができず、それがとにかく苦しいと、必死に私に訴えてきた。



断続的に酸素が送り込まれるため、自分から話を出来る状況ではなかったが、

あまりに苦しそうなので、



「苦しい?大丈夫?でも酸素あがってくるまで耐えないと。」



と腕をさすりながら励ましたが、それでも首を横に振るので、

さすがに見かねて、少しマスクを浮かせてあげた。

そうすると、



「マスクする前の方がよっぽど楽なんだけど、1分だけでも休憩できない?口も乾くし最悪。」



「早く針さして空気抜いてくれればいいのに」



と訴えてきた。


てっちゃんはこのときもも気胸を疑っていたようだった。

酸素だけがどんどん口と鼻に送り込まれていたため、

唇も渇ききって、口の中もカラカラになっているようだった。






看護師さんや技師さんは、外で忙しそうにしていたが、

てっちゃんが苦しそうにしているのは見ていられず、直接呼びに行って、

せめて口の中を少し潤してあげられないか聞いた。



口腔ケアに使うスポンジ付のスティックと水を少量くれたので、マスクを少し上げて、

口の中を濡らしてあげた。

マスクをあげてあげた時に、少しでも自分で能動的に息を吸えるようにと、

口をマスクの脇にずらして、必死に呼吸していた。

何度も首を横に振って、人工呼吸器での治療を中断したいと訴えてきた。


あまりに苦しそうで、何とか必要性をてっちゃんに伝えながら、

でも、てっちゃんの苦しさが紛れるならという想いも正直あって、私も耐えきれなかった。




ただ、なんとか耐えたおかげで、酸素飽和度は改善してきていて、

98~99%とほぼ正常まであがってきていた。

でも血圧は相変わらず低かった。


自覚症状を本人に聞く看護師さんに、

てっちゃんはマスクのせいで話しにくい中、英語で答えようとしているので、



「日本語でいいよ。私が伝えてあげるから。」



と伝え、少しでもてっちゃんの負担を軽くするために必死だった。

てっちゃんは、


「少し(良くなった)。」


と、酸素飽和度があがってきて、少し楽になった気もすると教えてくれた。






そんなこんなをしているうちに、救急車で運ばれてから1時間以上経っていただろうか。

S先生が病院に駆け付けてくれ、病室に入ってきてくれた。





モニターを見た瞬間、先生の表情が固まった。



簡単にてっちゃんと言葉を交わし、

すぐにナースステーションに行って、自分がA病院のドクターであることも伝え、

現状や治療方針について、担当の看護師さんに確認しに行ってくれた。



そんなことが許され、かつそれに病院側のスタッフが対応してくれていたのに驚いた。

日本ではありえない光景だった。



そのまま何となく私を病室の外に呼び出し、こう教えてくれた。




「はっきり言うよ。状況はかなり良くない。正直言って、この先いつ心停止してもおかしくないよ。」





驚いた。ショックだった。


でも、まだ現実感がなかったのか、それなりに冷静だったと思う。




「たぶんB病院に移って、挿管もして治療を急がなきゃいけない。

今その手配をしているみたいだけど。」




そのとき入っていたC病院も、ちゃんと設備も揃っているし、

それなりの規模がある病院だと思っていたから、



「えっ?また転院?」



とは思ったが、事の重大さに気づいたような気持ちの一方で、

自分がしっかり状況を把握しなければ…という想いに駆られて、涙は出なかったと思う。

そんな心の隙間もなかった気がする。




S先生に


「てっちゃんの上司に連絡した?」


と聞かれ、初めてそういったこともしなくてはいけない状況なことに気付いた。

てっちゃんの上司とは、家族ぐるみでお世話になっていたので、すぐに私から連絡した。

ただ、動揺していたのは事実だったので、状況を正確に伝えてもらうために、

英語の流暢なS先生に説明をお願いした。




てっちゃんが心配ですぐ病室に戻り、また口を濡らしてあげたり…を繰り返した。

またすぐ転院しなきゃいけないらしいことを伝えたが、

てっちゃんは特に動揺した様子もなく、ただうなずいていたと思う。



少しすると、また救急隊員が来てくれて、搬送の準備が始まった。

私たちはやっぱり救急車に乗れないらしく、私とS先生はうちの車でB病院に向かうことになった。



S先生は奥さんと車できてくれていたようで、奥さんが車の中で待っていてくれた。



「朝から何も食べてないでしょう?これ、時間あるとき食べて。」



とおにぎりやお茶をもたせてくれた。

そのとき初めて、すでに昼を過ぎていることに気付いたが、空腹を感じる余裕などなかった。



B病院には、前に知り合いが入院していたことがあり、

救急の入り口や病棟への向かい方など、なんとなく知っていた。




こんな状況なのに、てっちゃんと一緒に救急車に乗ってあげられないのが、

嫌で仕方なかったけど、でも、とにかく何より、


“今ここで何もしてあげられないなら、次の病院に早く行って先に着いて待っててあげなきゃ”


と思って先を急いだ。


車の中で、S先生にこの先予想されることを教えてもらいながら、

前日、前々日のことを詳しく説明したりした。


「B病院に着いたら、おそらくICUにすぐ入って、すぐ挿管になると思うから。」


ともう一度教えてもらい、急に心臓がどきどきした。