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2017年2月26日日曜日

あの時のこと。1月19日。夜。宣告。




2016年1月19日、火曜日。夜のこと。




神経内科の先生が来て、

「でもまだ対光反射が若干みられる」

って言ってくれてたのが、このときだったか、異常があったのが左眼だけの時のことだったか、わからなくなってる…。


自分の記憶の中での、そのとき目にしていた映像や、話をした相手、内容、全てがかなり断片的で、でもボーっとしていたというより、頭がフル回転していて整理する余裕がなかったという感覚がある。


他動的にであれ、瞼を持ち上げてあげれば、
ちゃんと真っ直ぐ前を見ているてっちゃんの顔で、

でもそれは私が知ってるいつものてっちゃんの眼ではなくて、

たしかに正常ではなくて、

目の前にてっちゃんはいるのに、目は合わなくて、

話すこともできなくて、

それはてっちゃんなんだけど、てっちゃんじゃないような、

何とも言い切れない感覚で、


でもまた自分から目を覚ましてくれる、その奇跡だけを信じてた。


状態がさらに悪化したと聞いて、もちろんすごくショックだったけど、
その先に何が待ってるのか、それがどういう意味なのかを考える気は全くなかった。

というか、考えられていなかった。


話しかければきっと聞こえてる、呼びかければきっとわかってる…



姉兄からのアドバイスを胸に、とにかくそう思ってひたすら声をかけ続けてた。


でも、そんな想いだけで動いてはいられないんだということを突き付けられた。

いつでも私を温かくサポートしてくれて、親切にしてくれていた看護師さんからもついに、


「少し話しかけるのをやめて、彼から離れててもらえるかしら。血圧があがってしまってて、今これ以上刺激をあげたくないわ。あなたが声をかけることすらも刺激になってしまうかもしれない。」



と言われてしまった。

もちろん看護師さんが私に冷たくしたわけではないことはわかっていたし、
それがてっちゃんのことを一番に考えてのことだということはわかった。


でも、

てっちゃんを目の前にしながら、
手を握っていてあげることも、
声をかけてあげることもできずに、

ただ、そこにいるしかない、

その無力さは、本当に本当に耐えられなかった。

目の前にいるのに、
何もしてあげられなくて、
すごく淋しくて、
てっちゃんも心細いだろうなと思うと、余計に苦しくて、
たった数十cmほどしか離れてないのに、てっちゃんがすごく遠く感じてしまって、
体中がぐーーっと締め付けられる思いがした。


そのときはたしか病室に私は一人だったんだと思う。


ECMOのカテーテルを挿入してる左足の付け根のところから、少し出血が起こっていると看護師さんに聞いたのは、たしかこの頃だったかな。


どれだけ病室を出入りしてたのか覚えていない。
基本的にずっと病室にいて、話しかけることを止められたその時以外、ずっと声をかけ続けていたんだと思う。


「聞こえるはず」

の信念だけで…

何を話していたのかほとんど覚えていない。


「お父さんとお母さんが、日本で飛行機のチケット手配してくれて、明日の夜にはこっちに着けそうだって!一緒にがんばろうね。それまでずっと私がついてるから心配しないでね。」


覚えてるのはそう話したことだけ。




その次に記憶があるのは、

しばらくして、ずっと付き添ってくれていた友達も一緒に病室にいてくれた時に、
今度は脳神経外科の先生がやってきたときのこと。

私たちはてっちゃんの左側に立って、手を握っていた。


いわゆるオペ用のユニフォームと帽子を身につけて、大きなマスクをつけた男性の先生が二人、てっちゃんを挟んで立つように、てっちゃんの右側のスペースに入ってきた。


マスクをしていたから余計に仕方ないのだけれど、
目つきもあんまり温かくなくて、正直良い印象はあまりなかった。

脳外科の先生だということはわかったのだから、そういう自己紹介を受けたんだと思う。

主治医の先生から大体の状況や経過に関しては、もちろん事前に聞いていたんだと思うけど、
心電図のモニターやその他の機器の設定などを簡単に確認して、
てっちゃんの瞳孔の反射を見ていった。


そして、ほとんど動きがなかったてっちゃんの右側の胸の前面、腕の付け根のあたりを、ぐぃーっと強くつねった。



それが痛覚に対する反応を見るための、必要な検査であることはわかっていた。

それに反応できるかということが、大きな意味を持っていることもわかっていた。

だから、それなりに強い力でつねることも必要なこともわかっていた。

反応にムラがあれば、何度か繰り返して確認することも必要なのはわかっていた。



でも、何の説明も断りもなく、検査を始めて、
てっちゃんの身体を強い力でつねりあげて、
たしかに正常な反応ではなかったかもしれないけど、
でもてっちゃんは実際に反応を見せていて、
ということはてっちゃんは「痛い」と訴えているのであって、


なのに、無言で何度も何度も…


私が握ってあげていた左手も「痛い!」と訴えていたのに…。
てっちゃんはわかっているし、聞こえているのに…。



必要性はわかるけど、
でもまるで、てっちゃんを「生きてる一人の人間」として扱っていないようなその先生の行動に、ものすごく腹が立って、
その先生の手を払いたくなるほど見ているのが苦しくて、
でも、そんなときにパッと感情を表現する英語も見つからなくて、
でもだからと言って、それが先生であろうと何であろうと許せなくて、

心の中で

「もうやめてよ!もうわかったでしょ!」

って、叫んだ。
怒りを抑えられなくて、目を背けることしかできなかった。


そして、てっちゃんの身体から先生が手を放してくれた瞬間、
つねられて赤くなっちゃったてっちゃんの肌をさすってあげた。

先生が日本語がわからないのをいいことに、


「痛かったよね。ごめんね。嫌だったよね。」


って、てっちゃんに声をかけた。


そして、こう言われた。

一生忘れられない言葉。
これだけはハッキリと英語で覚えている言葉。





“There is a big chance....that he will never wake up.”





直訳すれば、
「大きなチャンスがあります…彼がもうこれ以上目を覚まさないと。」

意識を取り戻す可能性はかなり低いと…。


私の英語力が足りなかったのかもしれないけれど、

「chance」

という言葉から始まったその先生の言葉に、
それまでの先生の印象が全部ひっくり返るほどの期待を一瞬してしまって、
そうしたら、その2秒後の言葉に全部打ちのめされた。


その「chance」という言葉を、
そういう「可能性」と捉えるべきだったというのはわかったけれど、
そういう表現をした先生がなぜか許せなくて、

しかも突然やってきて、
必要な検査だけを勝手に始めて、
てっちゃんの気持ちも、私の気持ちも、考えているとは思えないような態度で、
主治医と意見を交換し合うこともなく、ただいきなりそんな言葉だけを放つ先生が許せなかった。



たしか、言われたことを確認するために自分で何かを聞き直した気がするけれど、
全く態度を変える素振りを見せない先生に絶望して、

そしたらその瞬間、その先生の言葉の意味が現実として自分を押しつぶしてきて、

てっちゃんの手を握りながらその場に座り込んだ。


自分が泣き叫んでることを自分で感じながら、

ボーっとする頭の中で、その怒りと悲しみを泣き声に変えることしかできなかった。



頭が真っ白、
目の前が真っ暗、

ってこういうことなのかなって、その感覚はあった。


その先生はそのまま病室を出て行った。


隣にいてくれた友達が、私を抱き寄せてくれて、


「Shino、少し病室の外に出よう。ここで大きな声で泣いていたら、Tetsuyaがそれを聞いて心配するわ。Tetsuyaは聞こえているんだもん。何かあったら看護師さんたちがすぐに知らせに来てくれるから、Tetsuyaは大丈夫だから、Tetsuyaに心配をかけないように一回外で話そう、ね。」


と言って、私を立たせてくれた。

離れたくなかったけど、その通りだと思った。


友達に支えられながら、ICUの外に出て、夜間用に照明が落とされた談話スペースのソファに座った。

友達に横になるように勧められて、ソファの上に横になった。
友達が背中や腕をずっとさすっていてくれた。

その日もそのスペースの夜の見守り番をしてくれていたスタッフの人が、
心配して友達夫婦に話しかけてくれたりする声を聞いていたら、
意識が遠のいていくのを感じた。


眠りに入るというより、気を失う感覚だった。



どうしてる?



てっちゃん、今どうしてるかな。


何してるかな。




会いに行きたいな…。

2017年2月16日木曜日

三周年



三度目の結婚記念日。


てっちゃんと一緒に祝えたのはたったの一度。

去年はまだ四十九日も終わってなくて、
今思うと、頭の中もものすごいボーっとしてた。
てっちゃんに手紙だけ書いた。



入籍した年は、東京は2月15日が大雪だった。

てっちゃんには、15日にチャールストンから帰ってきてもらって、翌日の昼にお互いの両親と顔合わせをして、その足で役所に行く予定だった。

2月16日は、その一年前にプロポーズしてもらった日で、私にとっては特別だったから、その日を結婚記念日にすることにした。

てっちゃんは、結婚記念日がいつだろうと構わないから、222で覚えやすいように22日にしようかとか、そんな感じだったけれど…


でも、その年はチャールストンも異例の大雪で、てっちゃんが帰ってくる便が飛ばなくなっちゃって、出発がまる一日遅れて、日本に着くのが顔合わせ当日に…。

昼には間に合わないからと、顔合わせを急遽夜に変更して、私が空港まで迎えに行って、そこからお店に直行することにした。


アメリカでの散髪は失敗経験があるから、と伸ばしっぱなしだった髪の毛もそのまま(本当は帰ってきてすぐ切りに行く予定だった)で、
飛行機にはジャージで乗ってきてたから、最低限の着替えだけさせて、顔合わせに向かった。


てっちゃんらしいマイペースっぷりだったけど、長時間フライトの疲れもあっただろうに、不満を言うこともなく、私が希望した日に全てがとり行えるように動いてくれた。


そうして、お互いの両親も一緒に、六人で楽しい時間を過ごして、
久しぶりに会えた喜びと共に、
私達は正式に夫婦になった。


好きで結婚したんだから当然だけど、
幸せだった。
ものすごく。


こんなに辛い、寂しい運命になっちゃったけど、

私はてっちゃんを旦那さんに選んで何も後悔してない。

あの時間が、私の人生の宝物であることは間違いない。


今は苦しくて苦しくて仕方がないし、
こんなこと二度と経験したくないけど、
でも、私は生まれ変わってもまたてっちゃんの奥さんになりたい。

生まれ変われるなら、できれば今度はこんな結末はやめてほしいけど、
でももし同じ運命でも、
私はてっちゃんの一番大切な人でいたいし、
あの一緒にいられた時間を、もっともっと大切に幸せに過ごしたい。


幸せでおめでたいはずの一日だけど、
てっちゃんがいないこの日は、
やっぱりおめでたくはない。


でも、

今日はささやかだけど、ケーキを買ってお祝いをする。


てっちゃんの奥さんでいられる幸せを祝って…

この一年、私を守ってくれたてっちゃんに感謝して…

今日が悲しい日じゃなくて、ステキな日であるはずだってことを、自分に言い聞かせるために…


てっちゃん、おめでとう。ありがとう。


2017年2月15日水曜日

小さな雲



昨日の朝、うちの裏の高台に出た時に出会った、小さな雲。

真っ青な、他に雲一つない空に、
ちょこっと浮かんでた小さな雲。

こんな雲みたことない。

奇跡だとすら思った。


見えるかな。
写真で見るより、実際はもっとはっきり大きく見えたんだけど…






小さな小さな雲だけど、私にはその日の大きな大きな力になる。


夜、駅からの帰り道で見える月、
駐車場から見える一等星、

てっちゃん自身なわけはないけど、
てっちゃんからの贈り物、
てっちゃんからの力だと思って、


「ありがとう。ちゃんと見ててよね。」


って言葉をかける。

昨日の雲は、駅に向かう私にずっとついてきてるようで、そりゃ雲だからそんなふうに見えて当然なのに、


「いいよ、そんなについてこなくても。今日もがんばるからね。」


って、ちょっと嬉しくなりながら言ってた。



チャールストンのいちょうの木を見に行ったときに、空に見えた一つの雲に出会ってから、それまで以上に空に話しかけることが増えた。


中国に行った頃から、空の力、特に青空の力には、たくさん助けられたり、力をもらってきた。

今はその自然の力に、てっちゃんからの力が加わって感じるから、そのパワーはすごい。



絶対にいなくならない空。

いつもいるわけじゃないけど、いると心が和む雲。

毎日形を変えて、一日一日を生きていることを教えてくれる月。

疲れた日も、きつい日も、その小さな強い光で私の心を癒やしてくれる星。


その全部にてっちゃんの力を勝手に感じる。
そんなのあり得なくても、それぐらい勝手でいようと思う。




2017年2月11日土曜日

あの時のこと。1月19日。日中のこと。



2016年1月19日、火曜日。日中のこと。



てっちゃんの左眼の瞳孔が開き、対光反射がなくなっていた。。。

そのとき私は、なんだか怖くててっちゃんの眼球を覗き込めなかったけど、先生がそう説明してくれた。
脳梗塞か脳出血かが起こっているだろうと。


「え…次は脳…?」


心臓に、肺に、腎臓に、肝臓に…
そこに脳まで…。

理論的にあり得ることはわかったけど、
二次的に次々起こってくる問題に、怒りというか理不尽さというか、てっちゃんの生活習慣とかそういうことじゃないのに、なんでこんなにてっちゃんの身体が次々ボロボロにされちゃうのか、苛立ちを感じて、何もしてあげられない自分にも、先生たちも追いついていけない変化の速さにも、無力感と絶望感でいっぱいだった。


ただ、CTを取りに行くことができなかった。

心臓も肺も、自分の力では機能しなくなっていたてっちゃんの身体を、病室から動かすわけにはいかなかった。


それまでも、主治医の先生以外に、呼吸器科専門の先生や腎臓内科の先生、それ以外にもいろいろなスタッフの方たちがてっちゃんの治療に関わってくれていたが、そこに神経内科の先生も加わった。


CTをとりにいけない状況では、それ以外の情報から、てっちゃんの頭の中の状態を探るしかなかった。
瞳孔の反応を、何度も慎重に確認してくれて、でもやはり脳内の状態をもう少し把握したいから、一時的に鎮静剤を止めてみようということになった。
鎮静剤を止めれば、身体の動きや反応を見られるかもしれないからと。

その他にも脳波の検査もやった。


看護師さんが鎮静剤を止めてくれて、


「話しかけてあげて。反応はないかもしれないけど、彼は今あなたの声が聞こえてるはずよ。彼は今自分がどんな状態かわからなくて、何が起こってるか知らないだろうから、あなたからいろいろ話してあげるといいわ。」


と言ってくれた。

状況は深刻になっていたんだろうし、全く良い方向ではなかったのかもしれないけれど、正直私は、


「またてっちゃんと話せるかもしれない。私の声かけにてっちゃんがリアクションしてくれるかもしれない!」


と、鎮静剤を切らなきゃいけない理由が前向きなものではないことは、頭の中ですっ飛ばしていて、それでも話せるかもしれないというほうの喜びというか、期待のほうが大きかった感覚を覚えている。

自分がてっちゃんのためにしてあげられることが、やっとできた気がした。


ここがどこで、今が何日の何時で、あれから何があったのか、
てっちゃんに簡単に説明した。

きっと意識のハッキリしない中で、いつもの調子でいろいろ喋られると、てっちゃんは嫌がるだろうなと思って、高まる気持ちを抑えながら、できるだけ簡単に、ゆっくり話した。

目を閉じたままのてっちゃんに…
パッと目を開けてくれるわけもなく…


このあたりはもう、兄姉とのLINEの記録も途切れ途切れになっていて(電話でのやり取りが増えていて)、記憶が混在しているせいで、時間の流れや出来事の起こった順番がはっきりしなくなっているのだけど、
朝になって何時頃だか、てっちゃんの研究室のボスや、私たち二人がプライベートですごく親しくしていた友達夫婦にも連絡して、すぐに病院まで駆けつけてくれて、S先生の奥さんも歯ブラシや手作りのおにぎりなどを持って、また戻ってきてくれて、交代で面会もしてもらっていた。


何度か話しかけているうちに、てっちゃんは左の肘を曲げたり、手を握ろうとしてくれたり、首を動かそうと少し左右に動かしてくれたり、時には瞼が動きそうになったりもした。

話しかけた声にすぐに返事してくれてるように反応することもあれば、
もう疲れたよ、というようにリアクションが薄かったり遅かったりするときもあれば、
わかったわかった、と言ってるかのように、数回腕を動かしてピタリと止まることもあった。

でも確実に反応してくれていた。


右腕の反応はほとんどなかった。
一回だけ、私が手を握りながら何度も声をかけた時に、わずかに握ってくれたように感じたこともあったけど、それっきりだった。


反応がみえていることは良い兆候だからと、神経内科の先生はしばらくこのまま様子を見ましょうと、それ以降30分~1時間に一度は病室に来てくださって、てっちゃんのちょっとした変化も見逃さないように関わってくださった。


本当に驚いたのは、その親しくしていたアメリカ人でクリスチャンの友達夫婦が、てっちゃんのためにお祈りをしたいと言ってくれたときのことだった。

面会は一度に2人ずつだったから、私ともう一人誰かという形で、その夫婦にもそれぞれ分かれて病室に入ってもらって、お祈りもそれぞれがしてくれた。


てっちゃんの左手を握りしめて、反対の手をてっちゃんの肩にのせて…


そうすると、お祈りをしてくれている間のてっちゃんの反応が、それまでに見たことのない頻度と大きさとで見られた。

左の肘を大きく何度も曲げて見せて、そのまま腕が上がってしまいそうなほどだった。

しかも、旦那さんと奥さんとそれぞれの時どっちも。
私が話しかけた時より、二回とも明らかだった。


てっちゃんの、その友達への想いがそうさせたのか、もしかしてイエスがてっちゃんに力をくれたのか……


あの瞬間は本当に不思議だった。
そして、それだけの力をてっちゃんがまだ持っていることを目にして、本当に嬉しくて感動して涙が止まらなかった。



友達や研究室のボスも来てくれたおかげで、私の気持ちもだいぶ楽になっていた。

てっちゃんがもし何とか回復して、意識を取り戻してくれたとしても、かなり重い麻痺が身体に残るだろうし、それはてっちゃんにとって余計に苦しいことなんじゃないかとか、それで仕事ができなくなっちゃったら、てっちゃんは……
とか、
一応でもリハビリに関わっていた私が隣で見ている中で、リハビリをしなきゃいけない状況なんて、てっちゃんすごく嫌がるだろうから、その時は絶対ただ黙って支え続けよう…とか、
変に先のことまで考えちゃって、それはそれでもちろん怖かったけど、

てっちゃんの隣に居続けられるなら、どんなことも全力で立ち向かう覚悟がすでにできていた。


そう思いながら病室から外の景色を見ていたことを、すごく覚えている。


透析を開始するために少し準備が必要だからと、しばらく病室を出るように指示を受けた。
すでに昼近かったので、病院の一階にあったカフェテリアで、一緒にいてくれた友達と食事に行ってみることにした。

友達が持ってきてくれたサラダやスープを食べてみたけれど、やっぱり大して食欲もなく、食べてもすぐ気持ち悪くなっちゃって、少ししか食べられなかった。
友達はすごく心配してくれたけど、でも体調が悪い感覚はなくて、私自身の気力も、夜中に比べたらだいぶ戻っていた。

話を聞きつけた他の友達や、私が通っていた英語学校の先生まで、駆けつけてきてくれてたくさん励ましてもらった。
とにかくみんな、てっちゃんはあんなに若いんだから大丈夫と、みんなが前向きな言葉をかけてくれた。


そうして少し私も気分転換をして、たしか、透析が始まったと報告を受けてからまた病室に戻らせてもらった。
2時だか3時だか、それぐらいだったと思う。

その日はS先生は仕事があったため、そのアメリカ人夫婦が付きっきりで私とてっちゃんに付き添ってくれていた。
その二人は、私がわかりやすい言葉とスピードで話をするのが本当に上手で、先生の話で理解が曖昧なことがあったら、遠慮なく聞くことができた。


看護師さんは24時間、完全二人体制でてっちゃんの看護にあたってくれて、主治医の先生も休みなしで病院にいてくれているようだった。

脳浮腫の増悪予防と軽減のために点滴を追加していたので、とにかく心臓の働きが戻せるまで、脳内の状態を維持することを目標に治療を続けた。



でも、いつまで経っても、その原因になるウィルスが何だったのかが、検査結果に出てきてくれず不明のままだった。
主治医をはじめ、先生たちがみんな、その謎に頭を抱えていた。

(あとから知ったのだけれど、その時に調べてくれていたウィルスの種類は相当の数で、日本の病院だったら絶対にこれ程の検査はやってもらえない、ということだった。)



そんなこんなで、もう数時間経っていたんだろうか。
病室を10分だか20分だか、離れた時があった。

病室に戻ると、看護師さんが


「さっきちょっとむせ込んだんだけど、今は落ち着いたわ。」


と報告してくれた。
少しすると主治医の先生も、てっちゃんの様子を見に来てくださった。


先生がてっちゃんの瞳孔の反射を改めて確認すると、右眼の瞳孔もさっきまで見ていたより開いていた……


この時は、私もハッキリと見た。
見せてもらった。

前回検査してくれた時に見ていたてっちゃんの眼じゃなかった。。。



2017年2月8日水曜日

泣くこと



やっぱり泣いた方がいい。
泣ける方がいい。


会いたくて仕方なくて、寂しくて止まらない涙でも、

てっちゃんがいなくなっちゃった現実がとにかくこわくて不安で、勝手に襲ってくる涙でも、

こんな運命になってしまったことに悔しくて、なんでだよ、てっちゃんのこと奪ったの誰だよ、って出ない答えに行き詰まって流れてくる涙でも、

てっちゃんは近くにいてくれると信じて、実際そう思えて少しほっとした気がして、でもそんなふうに思うしかないそのことが嫌でこみ上げてくる涙でも、

周りの人の思いやりや、こんなにも守ってもらっていることへの感謝で、心がいっぱいになる涙でも、

よくわかんないけど気づいたら出てる涙でも…。


泣くことは楽じゃないし苦しいけど、

涙は私の心を守ってくれる。

涙が流れると、心がてっちゃんで満たされる。

てっちゃんが私を守ってくれてるように感じるのか、
てっちゃんの事を心から想ってる自分に改めて気づいてどこかホッとするのか、
無理しそうな自分に無理しないでいいって言い聞かせられるからなのか、


理由なんて全然わからないけど、
泣かずにいられる日が少しずつ増えてくると、ただただ想って泣いて…を繰り返せることの大きさがわかる。


こうやって書くと、またてっちゃんを想って涙が出る。
それでいい。
それがいい。


2017年2月1日水曜日

別れの日




去年の今日、私はてっちゃんと大きな大きなお別れをした。

てっちゃんに触れることを絶たれた日。
てっちゃんの「姿」を目にすることが永遠にできなくなった日。
頭からこびりついて離れない日。
人生で一番悲しくて、寂しくて、悔しかった日、と言ってもおかしくない日。



そうやって、また一つ、悲しい節目の日を自分の中に作り上げて、自分から悲しみに入る。


何が言いたいか、何が書きたいかわからない。

ちょっといろんな意味で準備中。



こうやって、私は一日一日を生きていく。