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2017年11月27日月曜日

久しぶり




てっちゃん、どうしてますか。


毎朝、目が覚めて布団から出る前に、

毎晩、布団に入ってから、

毎日、玄関を出て空を見上げると、

毎日、電車を降りて家に向かって坂を登るとき、

毎日何度も、携帯の待受にいるてっちゃんの顔を見ながら、

いつもいつも、

てっちゃんが今どうしているか、

どんな顔してるか、

何を思ってるのか、

そして、なんでこうなっちゃったのか、

考えてます。



「今日もてっちゃんのいない一日だよ」

「でも私また朝を迎えてる」

「時間に追われて動いてる」

「あ、今日も一日終われそうだ」

「やっぱり今日もてっちゃんは現れてくれなかったか」

「そりゃそうだよね、死んじゃったってそういうことだよね」

「生きてかなきゃいけないんだもんな」

「てっちゃんがいないで生きてくってこういうことか」

「寂しいな、会いたいよ、みんなみたいにさ、
なんでだよね、てっちゃん」


……そんなことを毎日思いながら生活してるよ。




いつでもそばにいると、

いつも見守ってくれてると、

そう考えればやっていけると、

心から信じてるけど、


そううまくはいかないんだよね。




少し忙しく過ごせるようになってきて、

でも忙しくなると苦しくなって、

溢れる涙が増えてきて、

てっちゃんのいない人生なんかやっぱり楽しめなくて、

でも時間は過ぎてくことはわかってて、

とはいっても、てっちゃんのことがあってから、「明日」の保証なんてないと思ってて、

でも「明日」がなくても、それがつまりてっちゃんとの再会を意味するなら何も嫌じゃないと思う。



平気な顔だってできるようになってきて、

仕事のことも真剣に考えられる余地だってできてきた。


でも、私がみんなに、てっちゃんに、みててほしいのは、その部分じゃなくて、

変わらず重い、この部分。



やっぱり一人じゃ抱えきれないから。




2017年10月28日土曜日

きつかった。



久々にこたえた…。

これを“久々”と言えるようになってる自分をまず、良いように捉えるべきなんだろうと思うのだけど…。



混み合った電車。

私より先に乗り込んだのが男女の二人組だったことはわかっていたけど、カップルな雰囲気でもなかったから、背中を向けて乗った。


何も考えずに、しばらくいた。


満員電車にはだいぶ慣れてきた。


そんな時、私のすぐ後ろでその女性のほうに話しかけるその男性。


別にてっちゃんの声に似てる訳でも、話し方が似てる訳でもなかったと思うんだけど、


私の全身が反応しだす…


てっちゃんと飲んだ帰りに、一緒に混み合った電車に乗って、楽しく話したあの時が一瞬で蘇る…


どうか黙ってくれと思った。

呼吸が苦しくなった。

涙をこらえるのに必死だった。


てっちゃんに助けを、癒やしを、求めた。



こういう、なんというか、
自分がどうしようもなくなる身体の反応は、
てっちゃんと世界を絶たれてからの特有の感覚。


やっと、てっちゃんとの幸せな過去を求め過ぎずに、
何とか抑えながら過ごせるようになってきたと思ってたんだけど…。

何とか引っ張ってたバネが一気に引き戻される感覚。


てっちゃんを想うことが、想う時間が、
苦しいけど幸せだからこそ、
心がグチャグチャになる。



てっちゃんはなんだか最近、夢のさらにまた奥底にいる感覚で、毎朝複雑な気分です。


2017年10月14日土曜日

身体の芯




なんだか落ち着かない。

ソワソワする。

ソワソワするというか、身体の奥底が掻き乱されてる。

身体の奥底が息苦しい。



配偶者を亡くした人がよく表現する感覚の一つに、

“身体の半分が削ぎ取られた感じ”

というのがあるらしくて、

それは私もずっと感じていたんだけど、



なんか最近の私は、

“身体の芯が抜けた感じ”

がする。



でも同時に、身体の奥底の不安定な部分をぐじゅぐじゅに掻き乱される感じがあって、

何とも言えない、でもものすごく強い不安と心細さを感じる。



てっちゃんが私の支柱だったことを、身体がすごい力で訴えてくる。

その支柱を自分で立て直せる気がしなくて、

でも、それをてっちゃんに相談しようとすると、

うんともすんとも言わない笑顔で写真の中から私を見てる。



長い…。

てっちゃんに会えるまでが、あまりに長い…。



2017年10月11日水曜日

ラスベガスの事件のことから



事件から約10日が経ってしまったけど…


ラスベガスで起こった、あの銃乱射事件。

事件後、毎日何件もの記事をアップデートしていたCNNのニュースを可能な限り読んでいた。


その中で、事件二日後(その後、随時更新)には掲載されていた記事には、事件で亡くなった人たちの名前や写真、職業や性格、知人からのコメント……

情報が集まっている限り、被害者たちのバックグラウンドを、一人ずつ順々にリストアップして綴った記事が公開されていた。

<Portraits of the Las Vegas shooting victims>
By Eric Levenson, Emanuella Grinberg and Jason Hanna, CNN
http://edition.cnn.com/2017/10/02/us/las-vegas-shooting-victims/index.html



最初にその記事を見た時は、正直少し驚いた。

日本では、被害者の名前、年齢、時に顔写真と言う程度で、
こういった形での報道はほとんどないんじゃないかと思ったから。


一般的には、

「死者数〇〇人、負傷者数〇〇人以上……」

と、数字だけが並べられて、それはもちろん大切な情報なんだけど、

でも、この記事を読んで改めて、事故や事件、災害によって亡くなった人がいるというニュースを聞いた時に今まで感じていた、

淋しさと言うか、
空しさと言うか、
あっけなさと言うか、

そういうものを改めて感じた。



人が一人命を落とすということは、

その一つの人生が終わるということで、

大きな大きな、代えようのない、世界で唯一の、その人のストーリーが終わってしまうことで、

そのなくなってしまった命の、何倍もの数の人が悲しみに襲われるということで、

その何倍もの数の人たちのストーリーも180度変わってしまうことで、

その人と今後繋がるかもしれなかった出会いや巡り合わせが絶たれてしまうことで、

その出会いによって何通りにでもなりえた人生ストーリーの可能性を閉ざしてしまうことなんだ。


数だけが伝えられてしまうと、その大小にばっかり目がいってしまって、
その一つ一つがどれだけ深いものなのかがぼやけちゃう。


別に報道の在り方に文句を言いたいわけでも、どうあるべきと言いたいわけでもなくて、
ただ単に、

命っていうものが、
死というものが、
どうやって捉えられてるのか、
私自身、てっちゃんのことも踏まえてどう捉えているのか、

ただただ考えてしまっただけ。

考えれば当然なことを言ってるんだなと思うけど、でも、


命を“大切に想う”とか、その人の死を“悼む”って、
その「死」や「命」の中身にちゃんと目と心を向けることなんだと思う。



この事件のことでCNNのキャスターが言ってた言葉。



「この事件に関して、人々の記憶に残るのが犯人の名前と顔ではなく、被害にあった方々の名前と顔であってほしい。」



本当にそう思う。




てっちゃんがこの世には帰ってこられないことは、やっとわかってきたけど、
それでも毎日思う。

続くはずだったてっちゃんの人生の物語がまだここにあったら…


今日の仕事はどうだったんだろう。

この週末は一緒に何をしてただろう。

今夜は何を食べたいと言ってくれただろう。


私の一日を、私の一週間を、てっちゃんの前で報告はするけれど、
一緒にその一日、一週間、一年を計画することも相談することもできないんだ。




2017年10月4日水曜日

てっちゃんのこと




私の大好きなてっちゃんのこと。

自分のことを話されるのを、あんまり好む人ではない気がするけど。

でも、こうやって書きだしたら、
もしかしたらそれを読んだてっちゃんが、
何か言い足したいこととか、「そんなんじゃない!」とか突っ込みたくなったら、
夢に出てきてくれるかもしれないし…。

これを読んで、てっちゃんの友達や知り合いが、
てっちゃんの新しい一面を知れるかもしれないし、
てっちゃんのことを「そんなこともあったな~」ってまた想ってくれるかもしれないし…。


何より、書きながらてっちゃんのことを考えていられる自分の時間が貴重だから。



たとえば……



てっちゃんは、
自分の気分や、頭の中で巡ること、その時集中すべきこと、
とにかくいろんなことを、
自分の中のON⇔OFFスイッチでコントロールするのが、すごくうまかった。


働く時間と休む時間を明確に分けることとか…。
家にいても、旅行先でも、何か情報を集めようとか、何かについて調べようという時にはスイッチONモードになる。


仕事とプライベートを両立していく上でのてっちゃんのモットーというか決め事は、


家に仕事は持ち帰らない。
休みの日は仕事のことは考えない。


だった。


だから、私がてっちゃんの仕事に興味があって、家で仕事のことを聞こうとしても、

「家にいる間は仕事のこと考えさせないで~」

と何回か言われたし、
まだ一緒に日本にいた頃、週末を一緒に過ごした日曜に、私が、

「あ~明日から仕事だ~」

と言うことがあっても、

「仕事のことは明日になってから考えるの。」

ってよく言ってた。


てっちゃんの割り切りの良さを尊敬すると同時に、
一緒にいる時間をちゃんと大事にしてくれてるその言葉が嬉しかった。

その時期どんなに仕事が大変でも、
実験がうまくいってなくても、
家にいる時間は、頭も身体も休めることに徹していたし、
一緒に話をしてる時に仕事のことを考え始めちゃうなんてことは、
全くと言っていいほどなかった。


その分、ONのときのてっちゃんには余計に声をかけたりしない方がいい。
一緒に何かを調べたりしているときに、例えば私が、

「ねぇねぇこれどう?」

なんて言おうもんなら、

「今話しかけないで。」

ってバシーッ!と跳ね返される。これがまた結構強烈。


でも逆にOFFのときは、何かをお願いしたりねだったりするのにも最適だった。


本当に“スイッチを「OFF」にする”と表現するしかないような感じで、

「あ、今スイッチOFFだね?」

なんて、実際に声かけたりもしてた。



でも、そんな器用な部分を持ってるはずなのに、
それと同時に究極の気分屋さんでもあって、
その気分が傾いた時には、それを引き戻すのに何倍も苦労する、
そんなときがよくあったり……。

さすがに、付き合いが長くなってくると、
そんなときにどうこうしようとしても動く人じゃないから、
私は私のしたいように動くし、私のいたい気分でいるようにすると、
結果的にいつもの空気に戻ってる。


そんな関係だった。


「僕の扱い方がだいぶうまくなってきたね」


って言われたこともあった。

そんなふうに言うんなら、もう少し自分でその気分屋の部分を鍛えてくれ…
と思ったこともあったけど、
でも、それはてっちゃん流の私に対する褒め方と愛情表現だったから、
すごく嬉しかった。


「誰でもそういう部分ってあるんじゃない?」と言われればそうなんだけど、

でも、あのてっちゃんの出す“独特”な空気感、存在感、
そんなてっちゃんとの距離感が恋しい。


大好きだった仕事、向こうでもできてたらいいんだけどな。

やっぱりもう少し、もっともっと長く、
てっちゃんと過ごしたかったな。てっちゃんのこと知りたかったな。


2017年9月29日金曜日




この前読み終わった本。
新聞の本紹介の欄で偶然目に入って、興味が湧いて買ってみた本。

『OPTION B』
http://www.nikkeibook.com/book_detail/32159/
https://optionb.org/book


著者はアメリカ人でユダヤ教徒(本を読む限り)で、
FacebookのCOO(最高執行責任者)。

国籍も、宗教も、職業も、生活環境(彼女には子供がいる)も、

全然違うけど、

夫を突然亡くしたという共通点で、

彼女の選んだ言葉に、この本を通して私の心はたくさん寄り添ってもらった。


この本自体は、

彼女の体験をもとに、死別に限らず、失恋や虐待、差別等、人生の中に起こりうるあらゆる苦難・逆境の中で、“Resilience(レジリエンス)”という力をどのようにつけていくかを語っている。

**Resilience=辞書上では“回復力”。
 彼女はそれを
 「逆境が襲いかかってきたときにどれだけ力強く、
すばやく立ち直れるかを決める力であり、
自分で育むことができる。」
 と言っている。

オプションAという最良の人生の選択肢がなくなり、オプションBを選ばざるを得なくなった時に、それをどう使って生きていくのか、

を書いている本なんだけど、


その力はきっと、今の私が、これからを生きていくにあたって鍛えていくべきであろう力であって、
それが鍛えられるものだと気付き始めた、ちょうどそんなタイミングだったから、彼女の言葉がすごく、癒しにも支えにも、そして刺激にもなったんだと思う。


この本を読むにあたって、まず自分が自分を客観的に見て認めるべきだったのは、

こういう類の本が読めるようになっている自分。


悲しい苦しいの心にひたすら共感してくれるような、
死別ってこんなに苦しいんだってことをひたすら共感して慰めてくれるような、
そんな本だけじゃなくて、

そんな感情を否定することなく、でもそんな人生でもそんな自分でも、
てっちゃんの事を強く強く想い続けながら生きる方法にどんなものがあるのか、
そんなヒントをもらえる本。


少し前の私だったら、
こういう私の手を引いてくれるような、
背中を押してくれるような、
私に何かを諭すような、
そんな要素を持つ本は断固お断りだったから。


でも、
正論を並べるだけじゃない、
理屈だけじゃない、
その時その時の感情を大切にしながら生きる、
生きる訓練をする、

今の私の暗闇も戸惑いも、
両方の面をすくい上げてもらえる感覚がした本。


苦難と闘う当事者だけじゃなくて、
そんな人の周りで支えたいと思っている人や、
それこそ私みたいな友達を近くにもって、なんて声をかけたらいいか、どう接したらいいか分からない人も読んだら面白いと思う。


本の最後の方に書かれていた文章を一部抜粋。
著者が亡くなった旦那さんの名前を入れていたところを、「てっちゃん」に変えてみる。


『逆境から立ち直るだけでなく、
逆境をばねに成長することもできるのだと、
いまならわかる。

てっちゃんを取り戻すためなら、
その成長をあきらめるかって?

あたりまえよ。

誰も好き好んでこの方法で成長したいとは思わない。
でも悲劇は否応なしに起こり、
そして私たちは成長するのだ。

あれを「別のかたちの幸運」だなんて、
気色悪い呼び方をしたくない。
幸運でもないし、別のかたちでもない。

だが、失われるものもあれば、得られるものもある。
そしてときには、
得られるものが、やむを得ず失われるものと同じくらいか、
もっと大きいこともあるかもしれない。』


そうなんだろう。
そうなのかもしれない。
そうだと気づき始めているのかも。

この文は、
私の芯にある真っ黒な部分を無理に変えようとすることなく生きていく方法があることを教えてくれる。


2017年9月14日木曜日

二人の写真



ツーショットの写真…


戻りたい。
戻りたい。


片付けたほうがいいのかな…

せめて目につかないところにしまったほうがいいのかな…


片付けられるはずなんかないんだけど、


全然しまいたくもないんだけど、


こんなにあの頃の写真に囲まれた部屋にいると、


やっぱりあの頃を求めちゃう。


「あの頃」と「今」がまだゴチャゴチャだったときとは、
今感覚が違うから…

「あの頃」と「今」が違うのがわかるから…


だから、写真の二人を見ると戻りたくて仕方なくなって、
それが“難しい”んじゃなくて“不可能”だとわかると、苦しくて仕方がない。

涙が…

止まらない……



でも、
あの頃の私達も、
この写真たちも、
この現実も、

全部どかせない。


てっちゃんに会いたい




2017年8月29日火曜日

経験したからこその感情



「死」と言うものの大きさ、意味、影響力、

それと同時に、人間の無力さと、人間として生きていることの不思議と、

さらに一方で、
医療の技術とか運の良し悪しとかそういうものではなく、やっぱり誰にでも絶対にいつか訪れることがいつ来るかの違いなんだ、全く特別なことではないんだ、
という思いと…

そんなようなことを、

たくさんのことを、

「考える」というより、

全身で「感じる」。



てっちゃんのことがあって以来(正確には、いわゆるショック状態を少し抜けてから)、

ニュースになるような他人の死でも、

あるいは、過去に実は家族を失っているという知り合いの話でも、

それが病気でも事故でも、事件でも、自死でも、

てっちゃんとは全く状況が違っても、


今までの自分では感じ切らなかった感情と感覚が起こる。


「悲しみ」はもちろんだけど、
いわゆる「胸が痛む」を実際に感じるというか、

目の前に黒い厚い幕をドーーンと降ろされる感覚になる。


どうしてこんなことがこの人の身に…
そう思いながら、同時に、そう思っても現実は変わらないと思う変な冷静さと、

命が途切れてしまうか、
何とか繋いでいけるかは、
本当に本当に紙一重なんだと痛感したり、

ならなぜ、てっちゃんやその人たちにはその「繋げる命」がもらえなかったんだろうとまた思っちゃったり、


絶対に誰もがいつか、かけがえのない人の「死」を目の前にしなきゃいけないのに、

それがどうしてもどこか特別な、異常なこととして私達は捉えてしまって、

でもやっぱりあの、尽きてしまった命と、
それでもまだそこにある身体と、
それすらも無くなってしまうその苦しみを、
もうこれ以上の人に味わってほしくないと思う気持ちと……


そういうことを、誰かの訃報を見聞きする度に思う。


「だから何だ」なんだけど、

そういう、当然に起こりうるけど知らなかった重みが、

毎日あちこちに転がっていることに、

今の自分は2年前の自分には考えられない感覚で向き合ってる。


まだ、
今でもまだ、

てっちゃんの死は認めたくない。

てっちゃんの「死」と言う表現も間違ってると思いたい。

この現実は何でだろうと毎日思う。

なんでこの人達にはできることが…って一日に何回も思う。

心から楽しめるものはやっぱりまだ何もない。

ずっとずっと目を伏せて、心を伏せて過ごしてる。

それはずっとずっと続くんだと思う。


でも、
てっちゃんが自分の目の前にいない、会えないということの寂しさや悲しさの感情や、
てっちゃんを守ってあげられなかった後悔の思いと、

こんなに早いタイミングで大好きな人と死別しなくてはいけなくなった自分の運命への苦しさとを混ぜこぜにしちゃいけないんだろうなと、

わかってきてる。…んだと思う。

かけ離すことは不可能なんだけど、
その感情を抱えながら、この事実を経験として生かさなきゃいけない、生かせるはずなんだと、

何を言われても首を振ってた自分が、
嫌がる心は心の奥底だけにしなきゃいけないんだって、
そうできることが増えてきてる。



本音が吐き出しにくくなってくる。


現実を理解してきてるからこそ。



2017年8月22日火曜日

8月22日



8月22日。

結婚式を挙げた日。

私達の中で「結婚記念日」は入籍した日だから、
この日は「記念日」というより、
「◯年前に結婚式を挙げた日」
なんだけども…。


でもきっと、いや絶対、
てっちゃんが今日ここにいたら、
今日は一緒にワインを買って飲んでただろうから、
そうしてみた。

てっちゃんがウキウキしながらワインを待っているのを想像しながら、

でも涙がこみ上げてくる。


こうやって、今の状況でもできることを、
何かの折に毎回してみてる。

過去も今もこの先も、変わらずやれることを、
てっちゃんと会えようが会えなかろうが、
続けたい、とそう思ってやっているけれど、

グラスを合わせて「乾杯!」と言い合うことも、

今日のワインは良いとか悪いとか好き勝手言い合うことも、

「もう一杯飲んじゃうか!」って気分に任せて一緒に酔っ払っちゃうことも、


できない。


誕生日とか記念日とか、
楽しく祝ったり過ごしたりしてたほうが、
てっちゃんも喜ぶと普通だったら思うだろうことが、そう単純じゃないこの感覚も、

本当に言葉にしきれない。



もう、好きも嫌いも言ってくれなくなっちゃったてっちゃんから、

それでも嫌われないように、
嫌がられないように、
少しでも喜んでもらえるように、

全てのことを拒絶したがる自分の心は
良い子ぶってるだけなんだろうか…。


あー、書きたかったことはこういうことじゃなかったのに…


2017年8月20日日曜日

帰って行ったのかな…。




昨日の夢は、
あとから考えると、お盆の終わりを告げるような、
そんな結末だった気がする。


お盆という時間を、
良くも悪くもあまり重く深く捉えないように過ごしたつもりだったけれど。

日本の考えに従えば、
てっちゃん(の魂)はお盆にこっちへ帰ってきていたんだろうけれど、
お盆だろうが何だろうが近くにいると思ってるから。



ちょっと忙しくしていた最近。

お盆が終わったタイミングに合わせて、生活も少し一段落したからか、

久しぶりにてっちゃんとの夢を見た。



どういう流れだったかまた覚えていないけれど、とにかく二人でだったか、地方の列車だったかに乗っていて…


右側に立っててくれて、手を繋いでた。

仲良く会話をしてた感覚の記憶がある。


そうしたら、下りるべき駅には止まらない急行か何かに乗ってしまったらしく、折り返すことになった。


そこで私が、てっちゃんよりも素早く携帯で乗換案内を調べて、一番いい戻り方を画面で見せたら、


「志野えらいね。こうやってパッパッと効率よく行動できる女の人っていいと思うよ。」


って褒めてくれた。

生きていた間もたくさん褒め言葉はかけてくれたけど、
でも基本、てっちゃんのほうが行動は素早いし効率はいいし、
だから、そんな褒められ方をしてすごく嬉しく感じた…感覚がある。


そして、折り返しの駅に着くと、
乗るべき電車が反対側のホームに止まっていたので、
屋外の連絡通路を渡って二人で走って…
階段を下りて…

その辺りから繋いでた手は離れてたな…。


てっちゃんは私よりも少し速くて…


発車ギリギリで走り込む人の中で、
私は最後になっちゃって、
てっちゃんは無事に列車に乗り込んでて、

乗り込む直前でドアが閉まっちゃったから、


“これではぐれたら困る!!!”


と思って、左足だけ列車の中に突っ込んだ。

完全に挟まってるのに、ドアがなかなか開かなくて慌ててたら目が覚めた。



一緒にいた頃のてっちゃんは、
そんな状況だったら、絶対に私が乗り込むのを守ってドアの所に立って待っててくれたけど、

夢の中では違った……。



電車の中でこっちを見てたのを覚えてる。



あっちの世界に帰る電車だったのかな。

だから、私だけ置いて行っちゃったのかな…。



こういうタイミングでこういう夢を見ちゃう自分。

起こるべきときに起きる、とか、
訪れるべきときに訪れる、とか、

ご縁とか必然とか、

あれ以来、結構ある。


2017年8月15日火曜日

それぞれの関係



この世にいなくても、

“その人の中に生きる”

って、こういうことなんだな…

って、感じられた日。



この世とかあの世とか、
そういうことじゃなくて、

この人とあの人の、その関係なんだなって、
そう感じられた日。


生とか死とか、
そうじゃなくて…というか、それがどうであろうと、

その人とてっちゃんはつながってるって。



それでいいんだ、それがいいんだ、
と思う一方で、

私はやっぱり、

まだまだこの世とあの世を意識してて、

一緒にこの世にいられないことが苦しいし嫌なんだと、再認識する。


私なりに、この関係とかこの距離感とか、

今の現実を理解しているつもりな一方で、

それぞれの関係性や想いがあると気づくと、

私とてっちゃんの関係性や想いを求めたくなる。




でも、

てっちゃんのことを想う形は、

一つの死に対しても本当にいろいろなんだと、

それがいいんだと、

そういうバリエーションがないとてっちゃんは苦しいだろうなと、


そう気づかせてもらった一日。


今日は、いたね。

同じ空間に。


笑い声や、

突っ込む声や、

私に構ってくれてるてっちゃんを、

ずっと感じてたよ。



2017年8月9日水曜日

最近のてっちゃん



最近のてっちゃん。


私が感じるてっちゃん。


やっぱり会話はそんなにうまくできない。
ことばのキャッチボールはできない。

でも呼ぶとちゃんと隣に来てくれる。

腕を組ませてくれたり、

手を強く繋いでくれたり、

後ろにそっと立っててくれたり、

とにかく身体の気配を寄せてくれる。


その感覚が強い日と弱い日はあるけれど、

でも、私が呼ぶと、
さっきからいたのに気付かなかったの?と言うかのようにいる感覚がする時もあれば、

オッと呼ばれた!という感じでピュンと飛んでくるときもある。


夢にはあまり出てこない。


でも、何となく体型の似た人とか、
昔のてっちゃんのファッションに近い人とか、
そんな人を見かける頻度がなんだか多かったり、

家族と会ったり話したりして、てっちゃんが丸々蘇ってくるようなてっちゃんにそっくりな言動に触れる機会があったりする。


どうしてもてっちゃんと同じ世界に行ってしまいたくなってしまうときもやっぱりあって、
しかも、何故かそういうときのてっちゃんは、
「本当は困るけど…」と言いながら受け入れてくれる気がして、心がそっちに持ってかれる。


でも、有り難いのか残念なのか、今の私には自分を言い聞かせる力が前よりある。





お盆がくる。

てっちゃん、忙しくなるね。

お父さんやお母さんや、お姉さんやお兄さん達とたくさん過ごしてね。

私ももちろんずっと待ってるし、同時に会いに来るミラクルパワーだってあるんだろうと勝手に思ってるけど、

私は、家族の前でリラックスしたてっちゃんの姿を見るのもすごく好きだから。



年に一度、そっちの人がこっちに戻ってこられるように、こっちの人もそっちに挨拶に行けたらいいのにな……。


2017年7月12日水曜日

「いま」の変わらないもの





“「いま」の変わらないものは考えない”


“「いま」の変わらないものは置いていく”




ずっと私を支えてくれている人が、私にくれた言葉。


この言葉を毎日毎日自分に言い聞かせて、


過去に引き戻されそうな感情や、


もう絶対に叶わない願望を追い求める心を、


抑え込む。




あの時のことを考えること、

てっちゃんがいなくなっちゃった理由を考えること、

世の中の理不尽さに苦しむこと、

運命の不平等さに嘆くこと、

あの頃に戻りたいと心の底から本気で願うこと、



それを繰り返し続けて、
打ち砕かれ続けて、

でも、結局、

絶対に誰も、
神様でさえも、

何も答えをくれないから、


だから、何とかして、


自分が「これなら抑え込めるかも」と思う方法や言葉を、
毎日、
その時その時、
見つけ出して、言い聞かせて、やり過ごす。



まだ、前は向けない。



でも、
耳をふさぎながら、
ずっこけないようにだけ足元を確認しながら、
生き過ごす。


それだけ。


生き方を変えるしかない。




2017年7月7日金曜日

昨日の夢




毎朝、目が覚めた時にまず自分がすること。


夢にてっちゃんが出てきたか、必死に自分の眠りの世界を振り返ること。

てっちゃんの顔、声、触れた感覚……

具体的な映像は思い出せなくても、
なんとなく、てっちゃんがそこにいたような、
そんな気がすることもあって…

そんなことを、起きてまず、ぼーっとする頭で必死に振り返る。




そんな中、昨日、ものすごく強烈な夢を見た。




てっちゃんが生き返る夢。



目の前で生き返る夢。



その映像と感覚が、自分にとって強烈過ぎて、
その前後関係も、他の登場人物も、
全部吹っ飛んじゃって、
なんでそんなシーンだったのかは、
全然覚えてない。



でもとにかく、

なんだか、狭い台にのせられて、目を閉じて動かなくなっちゃったてっちゃんが、

がんばって戻ってこようとしてて、

そうしたら、少しずつ、身体のいろんなところが動くようになっていった。


手、
腕、

そこから必死に頭を起こそうとして首に力を入れてて、

目が開いて、

口を大きく開けて声を出そうと必死にしてるのに、声が出なくて苦しそうにしてて…

身体を必死に起こそうとしてて…



今までに見たことない表情で、
でもとにかく、何かを必死に訴えようとしてるというか、
とにかく何とかして身体を動かしたいと思ってる切迫感があって、


だから、声を聞こうと顔の近くにグッと寄って、身体を起こすのを手伝ってあげようと思ったら、
てっちゃん涙流してて……


悔しそうにしてて……


だから


“もうそれ以上話さなくていいよ”


って必死に思いながら、とにかくてっちゃんを強く抱きしめて、


そしたら、私の耳元で、


「ごめんね…ごめんね…」


って。


その言葉を聞いた瞬間、

やっぱり完全に元気になることはないんだって、
みるみるうちに回復するように見えたのは、最初だけだったんだって、

ものすごく悲しくなったけど、



私はてっちゃんを抱きしめて、

背中をポンポン叩いてあげながら、

涙を流して謝るてっちゃんを落ち着かせるように、


「大丈夫だよ、大丈夫。いいんだよ、てっちゃん。大丈夫だよ。」


って答えてた。





それだけ。
覚えてる夢はそれだけ。


その後どうなったのかもわからない。


ただ、
そのほんのわずかな時間のやりとりと、
てっちゃんを抱きしめた感覚と、
右耳のところですすり泣きながら謝るてっちゃんの感覚だけが、

今も残ってる。







目が覚めて、少し心を落ち着けて、
その夢を振り返って思った。



もしこれが、あっちに逝っちゃったてっちゃんからのメッセージだったとしたら……


てっちゃん、私に謝ってるんだろうか…。

私、てっちゃんに謝らせちゃってるんだろうか…。


てっちゃん、
私に会えない寂しさで泣いてるんじゃなくて、
私に申し訳なくて泣いてるんだろうか…。



もし、あれがてっちゃんからのメッセージなんだとしたら、


私は、てっちゃんが謝らなきゃと思ってしまうような姿を見せてるのかな。


今の私を見て、
てっちゃんは泣いているのかな。


こんな距離になっちゃったけど、それでも感じるてっちゃんからの愛を、私ちゃんと伝えられてないのかな…。


ごめんね、てっちゃん。


私、がんばるよ。


一つずつ、やってるから。


てっちゃんがいてくれた頃の私とは、
全然違うペースだけど、
全然違う道の上を歩いてるけど、
同じ道にはもう戻れないけど、


新しい道を作るために何からすればいいのかも、まだよくわからないでいるけど、

でも、

私にできるやり方で、


晴れの日も雨の日も、


生きてるよ。




2017年6月29日木曜日

そんなもんなのかな…




ついこの前、偶然ある番組を見たときのこと。


これは、愚痴でも批判でも文句でもない。
賛否両論あって当然のことだと思う。


でも、なんとなく、書き留めておきたい。
少なくとも私は……淋しかったから。


一昨日だったかな…。
小林麻央ちゃんのことを取り上げていたある番組で、
海老蔵さんのブログのことや、お姉さんの麻耶さんのブログのことも出ていて…


それに対してコメントをする出演者たち。



「このことはもちろん悲しいし、辛いですけどね、
 でもこうやって、海老蔵さんも舞台をやりきったり、麻耶さんも文章にしたり、
 御家族の皆さんが次に進んでいるんだから、
 私たちがいつまでもこうしててもね…。」


「本来は『ご冥福をお祈りします』というべきなんでしょうが、
 昨日はまだ実感がなくて…
 でもね!やっぱり僕たちがいつまでもこうやってシンミリしててもね!」

「もちろん辛いですけど、でももうご家族の皆さんは、
 もうはるかに辛いのも乗り越えて次に進もうとしてるんですからね。」

「逆にこっちが悲しんでたら足引っ張っちゃいますね」




………



この出演者の人たちだって、今回のことで言葉にしきれない思いや、麻央ちゃん本人・家族との関係性があるんだと思う。

それを私なりに想像はしてるし、
テレビでの発言なんて、言えること言えないことが山のようにあるんだろうから、
聞いて流す方がいいんだろうとも思う。


でもさ。。。


亡くなって一週間も経ってないのに…。


「いつまでもしんみりしてても」って。


まだ”しんみり”にも入ってないよ、たぶん家族は。

まだ、まだ、パニックなんだと思うよ。

パニックだから、体もある程度は動かせたり、
文章も、みんなに心配かけないように、ある程度冷静なことも書けるし、
そうであるべきと“一般的に”言われる言葉を選べているんだと思うよ。


「次に進んで」なんかいないよ。




もちろん、人はみんな違うし、


同じ家族だって捉え方も進み方も違う。


亡くなってしまうまでにどんな言葉を交わしてきたか、
どんな思いを引き継いできたかでも、きっと違う。


だから、これを麻央ちゃんの家族が聞いて何を思うかはわからない。
もしかしたら、そう言ってもらうほうが自分を奮い立たせられるかもしれない。


でも、
少なくとも私は、

淋しかった。



大切な大切な最愛の人を失って、

時間の進み方も、

自分の頭の中も、

身体の調子も、

何もかもがわからなくて、コントロール不可能な状態に陥って、

それでも進んでいく世の中が違和感でしかなくて、

寄り添ってくれてる人がどんなに近くにいたって、

それでも周りが進んでいく感じがしちゃって、

時が進んでいってしまう感じが、

淋しくて苦しくて……



周りの人があらゆる術を使って、

心はそばにあることを伝えてくれても、ずっと想っていると言ってくれても、

それに対しての自分なりの200%の感謝の心より、

勝手に襲ってくる孤独感の方が強かった。




”『ご冥福をお祈りします』と言うには実感がわかない”
”もちろん悲しいし辛い”

それだけじゃダメなのかな。。。


こんなにショックな死があって、数日悲しんだら、
そのあとは「いつまでも」悲しむべきじゃないのかな。


悲しみ続けるも、次に進むも、
それはその人次第。

だから批判する気も、文句を言う気もない。


でも、


なんというか、


死を惜しむ、っていうことが、しにくい雰囲気がある気がするんだ。



きっと世の中には、
仕事柄とか、家庭環境とか、いろんなことが理由で、
本当は出したい悲しみを無理やり押し殺して、
そうするしかなくて、
気丈に振る舞ってる、そういう振りをして、毎日を必死に生きてる人がたくさんたくさんいるだろうことはわかっているのだけど。


うまく言えない。。。




2017年6月27日火曜日

助けてあげて。



てっちゃん……


海老蔵さんが苦しんでる。

舞台終わって、
麻央ちゃんと最後のお別れをして、
もう会えなくなっちゃって、
抱きしめてあげることができなくなっちゃって、

なんとか踏ん張ってた心が、苦しみの真っ暗闇に突き落とされてる。


麻央ちゃんもきっと泣いてる。



てっちゃんにはよく伝えてることだからわかってるかもしれないけど、

海老蔵さんと麻央ちゃんだけじゃなくて、

私の近くには、私達と同じ苦しみを抱えて、何とか日々を乗り越えてる人が他にもいるんだ。

その人が愛する人はてっちゃんのいるそっち側にいっちゃった。



こんなことをてっちゃんに頼むのなんておかしいんだけどさ、

そっちの世界のこと、私はわかってないんだけどさ、

でも、もし麻央ちゃんたちに会えるなら、どうか、どうか助けてあげて。


こんなことを考えるのはおかしいかもしれないんだけどさ、

私、てっちゃんはそっちにいっちゃって、でもいってしまったことで、ミラクルパワーを持ったと思ってるんだ。


私が出かける日は天気を良くしたり、
雲になって現れてくれたり、
蝶々になって飛んできたり、
気配だけで私を抱きしめてくれたり、
写真で機嫌を教えてくれたり、



もう一度こっちに戻ってくるっていうことだけは除かれた、

そんなパワー。


だから、芸能人だろうとそうじゃなかろうと、私達と同じ思いをしてる人のところにいって、助けてあげて。


もしそれができるなら、
私のところに数日来られなくても、
それなら私、我慢できるから。


私もこっちでできることをする。


大したことはできないけど、

自分のためにはまだ踏ん張れないけど、

その人たちのためなら動ける。



2017年6月25日日曜日

久しぶりに書いてみよう。



日々、いろんなことを考えて、
一つ一つ書き留めておこうかとか、
このブログを使おうかとか思うけど、

自分の頭の中をここに書き出すことが、結果的に、自分自身を鏡に映し出してることのような気がして、

そうしたら、
苦しんでる自分も、
進もうとしている自分も、
どっちも見たくなくなって、どっちも見てほしくなくなって、あんまり書けなかった。


そんな中で、出会った本や人からの言葉を通して、改めて思った。


もっともっとてっちゃんの事を書き留めたい。


だから、また書きだすことにした。




先日、亡くなられた小林麻央ちゃん…。

彼女のことに関しては、あまりにたくさんの想いがあって、今ここには書ききれないけれど、
彼女が亡くなって改めて読んだ、彼女の文章が、てっちゃんのことを想う自分にとってすごく大きなものになったので、ちょっとここにも書き写しておきたい。

麻央ちゃんが、イギリスのBBCに寄せたという手記の一部。
テレビでもよく取り上げられている文章。


*****************************************************************

人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。 
例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。 
『まだ34歳の若さで、可哀想に』
『小さな子供を残して、可哀想に』 
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。 
なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。 
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。 
だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました。 
なりたい自分になる。 
人生をより色どり豊かなものにするために。 
だって、人生は一度きりだから。

ー英・BBCよりー
****************************************************************



てっちゃんもこう思っていてほしい、って心から思った。


「32歳にして突然この世を去ることになったことは、僕の人生を代表する出来事なんかじゃない」


って。

てっちゃんは絶対はそう思ってる。

てっちゃんは、実はこんなことを言ってたことがあったんだって。
もちろん元気で健康だったとき。


「僕、もし今死んでも、別にいいと思ってるんですよね~」


って。
それに対して、聞いてくれてた人が


「それじゃ志野さんどうするのよー!そんなこと言っちゃダメでしょ!」


と言ってくれたらしく、
そしたら、


「そりゃ志野には申し訳ないし、ものすごい辛い想いさせちゃうと思うけど」


って。
そんな、あとから考えたら何かを予感させるようなことを唐突に言ってたことがあったらしく…。


でも、それはきっと、
それだけてっちゃんがその時までの自分の人生に満足していて、
“色どり豊かな”人生を送れている自信があったからなんだよね。きっと。


そのてっちゃんの言葉とそれに対する思いを、
今まで私が口にできずにいて、
心の中で、この悲しみを励ます要素にできずにいたのは、


もしかしたら、

私こそが、てっちゃんの急死という事実を、

てっちゃんの人生で代表する出来事にしちゃってたからなのかもしれない。


てっちゃんが残していたそんな言葉を、私自身がしまい込んじゃっててゴメンね。。。


でもやっぱり…

最期に何も言葉を交わせなかったことで、
それまでの言葉や想いがなぜか全部、純粋に自分の中に残せなくなっちゃってて…。

やっぱり、最期に一言、
一言でいいからてっちゃんからの言葉が聞きたかったって、
その悔しさと寂しさが強すぎて、
それまで何度も何度も口にしててくれたことを、ちゃんと心に残せなくなってた……。


自分の人生に一つ一つ着々と色を付けてきて、
それと真剣に向き合って、
私の人生にまで色をつけてくれて、
それは私だけじゃなくて、
たくさんの愛をみせてくれた、

そんな魅力的なてっちゃんとは、どうしてももっともっと長く一緒に生きたかったから、

そんな力を持ったてっちゃんには、どうしてももっともっとこの世での経験をしてほしかったから、

その短さにどうしても理由がつけられなくて……



でも、少しずつかもしれないけど、

海老蔵さんも言っているように、

長いとか短いとかじゃなくて、

その軸で考えるんじゃなくて、

てっちゃんとの人生を、人生という一つのものとして、たくさんたくさん振り返っていくね。


今すぐ会いたいけど、
会えるまで、お互いもう少し、我慢だね。


2017年5月30日火曜日

電車でのちょっとしたこと



電車に乗った。

七人がけの椅子のほぼ真ん中に座った。

なんだか珍しく強い眠気に襲われて、少しウトウトした。

ある駅に着く前後の、ほんの数十秒のことだった。

目の前の椅子には、何人かの人が座っていたけど、目を閉じている間に、そのうちの三人ぐらいの人が入れ替わっていた。

不思議でも何でもない普通のことなんだけど……


こんなふうに目を閉じている間に、
一瞬にしていなくなる人と現れる人。


てっちゃんも、こんなふうにまた、スッと現れてくれないものだろうか。
ほんの少しでいいからさ。


てっちゃん、こんなことばっかり考えてるよ、私は。


2017年5月29日月曜日

機嫌がわかる。




いつものように夕飯をてっちゃんに出して、
てっちゃんの顔を見たときだった。



なんだかてっちゃんがいじけてる感じ。

ちょっとふくれっ面というか、
ちょっと気に食わないことがあったときの顔してる。



…ん?なんでだ?

なんかてっちゃんが嫌に思うことなんかあったかな…。


数秒考えた。



あ、私、髪切ったからだ。

肩につかないぐらい短くしちゃったからだ。




ロングだった髪をバッサリ切ったのは、
もう一年ぐらい前の話だけど、
最近ちょっとまた伸びてきてて、
それを今日また、美容師の義姉にお願いして切ってもらった。


てっちゃんは、私が髪を長くしてるのが好きだったみたいで、
昔ドラマに出てた女優さんのボブスタイルを見て、私が、

「ねぇ、今度これぐらいバッサリいってみるのどう思う?やっぱり長いほうが好き?」


そう聞いたら、


「長いほうが絶対いいけど、これぐらいならギリギリじゃない?でも肩より上は嫌だ!……まぁでも志野がしたいんなら…いいよ、別に。」


って言ってた。


それで今日、なんかその瞬間に感じた(見えた)てっちゃんの変化が、
自分の中でスッと自然のやり取りに感じて、
心の中で会話した。


「ごめんごめん!髪切ったからか!でもこれもいいでしょ?やっぱりだめ?涼しくなってきたらまた長くするからさ。今日のところはこれ(夕飯)食べて許しておくれ」



そんなやり取りをしてる間に、てっちゃんの表情は当然なんだけど、いつものあの顔。


動くわけもなく…



なんでこんなやり取りしかできない関係になっちゃったんだろう…
妄想じゃなくてちゃんと話したいよ…。


そう思う自分にグッと蓋をして、

なぜかいつも以上にものすごく自然と、スッと、
てっちゃんの表情の違いとか、
私の心に聞こえてきた声と会話できたことを、今日の良かったこととして捉えようとしてみる。


勘違いかもしれないし、
思い込みかもしれない。

でも、

いいんだ、それで。



2017年5月25日木曜日

二人目の自分




あれ以来、見失ってしまった自分。

二人目の自分の中で生きてるような感覚。





てっちゃんの奥さんとして、日々を楽しんでいた自分。

あんなに常に、何かの夢を持ち続けていた自分。

エネルギーを湧き起こす力があった自分。

皆と一緒に、それぞれの幸せなことや、楽しい瞬間を共有し合って、笑い合って、それが自然だった自分。

ちょっとしたことでも、大きなことでも、「やりたい」と思うことを叶えるために日々動いていた自分。



てっちゃんがいなくなっちゃったことが、自分にとってあまりに大きかったことは言うまでもないけれど、
その存在の喪失だけじゃなくて、
自分自身の喪失は日を追うごとに、自分にどんどんのしかかってくる。




「志野が笑ってればそれでいい」

そう、何度も言葉に残してくれたてっちゃん。


「自分のやりたいことを持って、それに向かって行動してる人って魅力的。志野はそんな人。」

そんなこともてっちゃんは言ってくれてたらしい。


今の私に会ったらガッカリするかな。

てっちゃんが残してくれた言葉すらも、
自分の原動力にできなかったら、
私にはどんな術があるんだろう。


その言葉を何とか何とか自分の力にしてることは間違いないけれど、二人目の自分がなかなか言うことを聞かない。


二人目の自分が願うことは、

てっちゃんともう一度会うことだけ。

ただひたすらそれだけ。


でもこの世で生きていくためには、

「それでも頑張ってます!」の自分にならなきゃいけないんだよね……。


この世は、この社会は、そうじゃないとだめなんだよね……。


そりゃ、今の私じゃ、勝手に疎外感感じて当然なんだよね…。



2017年5月15日月曜日

たぶんこれだ。





このことを書くことが、
自分にとって、逆にプレッシャーにならないか不安だった。



でも、
たぶんこの感覚だ。


頭の中に少しスペースがある。


あのパンパンだった、グルグルだった頭の中が少し変わったんだと思う。

どんどん回る感情のスピードが少しずつ落ち着いてきて、そうしたら他の考えが入り込む余地ができてきた。…んだと思う。

今まで思っていたもの、感じていたもの、そういうものがなくなったわけじゃない。

でも、どうしたって追いつけなかった頭の中のグルグルに、少し余裕ができてきたんだと思う。



答えを出そうとはしない。

答えがないものに答えを見つけ出そうとして焦らない。

考えることにも焦らない。

考えようとしなくていい。

でも考えたいなら考えればいい。

時間が癒やしてくれるなんてウソ。

この変化は自分が向き合った感情が向き合った分だけ変化したもの。

でも時間が過ぎると、季節の変化があって、見るものも変わって、たくさんの節目があって、それが心の変化の一つの要素になることもある。

この感情は乗り越えるものでもない。

でも変わっていくものは確実にある。

その変化は否定しない。

私や周りが変わっていくように、てっちゃんも向こうで変わっていってる。

今でも私達の関係はまだ存在するし、これからも深くなりうるし、変化もしていく。

それを信じる。

ただそれを信じて、素直な心でてっちゃんと会話する。

てっちゃんと私の唯一無二の関係をこれからも作っていく。



それが最近の自分自身の気づき。心得。

それを気づかせてくれたのは私自身じゃなく、周りの人たちの力。

その人たちとの繋がりもてっちゃんが作ってくれたもの。


この変化を、事実として自分に示すために、
ここに書き残そうと何度も試みて、
そしてまた押し潰された。


きっとまた、絶対にまた、

波は来る。


悲しみも寂しさも、

後悔も罪悪感も、

不安も恐怖も、

悔しさも怒りも、


全部全部たぶんずっと消えない。

でも、
そういう感情に自分で膜を張って、覆い込んで、
それをしょうがないと、自分になんとか言い聞かせられることができるようになってきた。


だからと言って、「よし!いくぞ!」っていうわけではないこの自分は、なかなか厄介だけど、

てっちゃんはきっと、ゆったりドッシリ、構えてくれてる。


それだけはハッキリわかる。



2017年5月6日土曜日

メール



私が中国にいた間や、

てっちゃんが先にアメリカに行ってた間、

遠距離生活をしていた間にほぼ毎日のようにやり取りしていたメールを読み返してみた。


てっちゃんがどんな言葉を私にかけてくれていたのかを振り返るために。


そこで改めて気づく。

てっちゃんは、すごく冷静な人。
嫌なことや苦しいことも、あがいたりジタバタしたりするというより、
現実的に何が必要なのか、どこは改善の余地があって、どこは無理なのか、すごく冷静に考えてる。

その、いっつも冷静で、客観的で、感情に振り回されない感じが、そうじゃない自分にとっては、いくらバットを振っても空振りする気分にさせられるような感覚があって、たくさんケンカもしてきたけど、
でもそのときには気付かなかった、てっちゃんのすごく大人な部分。


それにふと気づいて、今に立ち返って考えてみて、
そうしたら、
てっちゃんは今の状況にもジタバタなんてしてないんじゃないかと思った。

今までとは全く違う繋がり方になっちゃったけど、でも、その中でどうすることが私のためになるのか、冷静に、でもしっかりと考えてくれてる気がした。



2017年4月29日土曜日

納得いかない




誰かからの言葉に対してとかでも何でもなく、
自分の心をただ吐き出します。





てっちゃんの存在をふとしたときに感じる
とか、

てっちゃんは心の中で生き続けてる
とか、

てっちゃんはいつでも近くで見守ってる
とか、


私だってそう思うことも実際ある。
そんな風に実際に感じることだってある。

そう思って生きていくことが、てっちゃんのためなんだって、

そう思って生きていかないと、てっちゃんもかわいそうだって、


そう思う人がいても当然だと思う。
私だってそう思ってないわけじゃない。




だけど、やっぱりどうしても納得がいかない。

てっちゃんがそんな存在になっちゃったことが、どうしても納得がいかない。


私にとって(当然みんなにとっても同じだと思うけど)、てっちゃんは、

ふとしたときに存在を「感じる」相手じゃなくて、

「心の中」で生きる人じゃなくて、

近くで「見守ってる」人じゃなくて、



「実際に」「一緒に」生活をして、
「お互いに」言葉を交わし合って、
「直接」手を取り合って、
「同じ世界」で生きていく人


なんだよ。


てっちゃんは、やっぱり、てっちゃんっていう「人間」でしかない。


てっちゃんの「声」が「直接」聞けないのに、てっちゃんが考えてることなんて、勝手に考えられないよ。


だって、てっちゃんの考えが聞きたかったら、「直接」会話して、返事をもらってたから。


てっちゃんはもうこの世にいないからって、てっちゃんがこんなふうに言う“だろう”なんて、
それを自分の支えにしていくことなんて、

そんなに簡単にできないよ。


それができたら少しは気持ちも変わるかもって、


前向きに過ごしてみたら、てっちゃんも喜ぶかもしれないって、


そう思って少し自分なりに試してみたけど、


そんなに簡単にできないし、


てっちゃんからは返事がない……



みんなはどうやって、心を抑えてるんですか。
みんなはどうやって、その悲しみと向き合ってるんですか。


てっちゃん、どうやって生きていけばいい?


2017年4月27日木曜日

止まったまま。変わらないもの。





“遺族は、大切な人を亡くした瞬間で時間が止まってしまったように感じている。

実際には、止まったのは亡くなったその人の時間だが、

遺族にとっても「その人とともに生きる時間」が死とともに止まったのだ。

それは、もう二度と動き出さない。

だからせめて、生きている時から連続している何かが1つでも続いていてほしい。

消えてほしくない。

心のどこかで、無意識にでもそう願っている。”





私と同じように旦那さんを亡くした方の言葉。




また少し停滞気味の自分の心。

昔のグルグルとは違う。

でもやっぱりそこにある変わらない闇。

吐きだし方も、よくわからなくなってしまった。

だから、「そうそう、わかるわかる、それです。」と思える言葉を借りてみる。


2017年4月20日木曜日

再訪




一周忌を終えて、しばらくしたタイミングで、
この一年、ずっと心の中にあったものを確認する旅に行ってみた。



チャールストンに……。


あの場所、あの空気、あの景色…

向こうで出会った友達、

向こうで築き上げた自分たちの生活、

向こうで作ったてっちゃんとのたくさんの思い出、

何とも言えない居心地の良さ…



いろいろなものが、一年経っても自分の中にあまりに強く残っていて、

でも、ちょっと前までは、その想いの強さだけを理由に戻ったら、
寂しさや現実にまた打ちのめされてしまいそうで、

自分を無理やり「もう少し待て」って言い聞かせてた。


どこかで、てっちゃんはまだあっちにいるって思ってた。

二人で幸せに過ごしたあの場所の、あの感覚は、
あっちに戻ればまた得られるんじゃないかって、どこかで思ってた。

最後の望みのような部分もあった。

でも、それはあり得ないこともわかってた。



たぶん(というか絶対なんだけど)、

もう一度あそこに戻って、てっちゃんがやっぱりいなかったら、

てっちゃんがこの世を去ったことはやっぱり事実なんだと、

どんなにもがいても、どこに行っても、誰に聞いても、

それがやっぱり覆らないんだってことを、

理解せざるを得なくなるだろうと思った。



だから、向こうに行って、
その現実を身をもって改めて感じたとしても、
またどん底に突き落とされずに、耐えられるだけの覚悟ができてから行こうって決めた。

あんなことがあってもまだ、
自分の中に強烈な魅力を残すあの場所を、
ただただ悲しみに満ちた場所に変えてしまわないように、
自分の心の踏ん張りが、少し効くようになったと思ったら行こうって決めてた。



逆に、もし、そんな現実の中でも、

てっちゃんがいない空間でも、

てっちゃんとの思い出がいっぱい詰まった場所でも、

それを自分の胸にしまいながら、一緒に抱きかかえながら、

やっぱりそこで生きていきたいと思ったとしたら、

そこが私の居場所なんだと、そういうことなんじゃないかと思った。



まぁ、実際は、
そんなに難しく考えずに、感じたものを色付けせずに、できるだけそのまま自分に取り込んでくればいい、
その後のことは、その後考えようと、
そう思って旅をスタートした。




てっちゃんのために植えてもらった記念樹を訪ねたり、

親しい友人やお世話になった人たちに会いに行ったり、

てっちゃんと行っていた場所を回ってみたり、

泊めてもらった友達の家の庭で、ただただ自然に包まれて本を読んでみたり、

サイクリングに行ってみたり、ボートに乗せてもらったり、

てっちゃんが好きだったものを料理して、月命日やてっちゃんの誕生日を過ごしてみたり、

友達と毎晩のように語り合ったり、

てっちゃんが亡くなったのとほぼ同時期に、ご主人を亡くしたという女性と話をさせてもらったり、

アメリカ(ほとんどの友達はクリスチャン)の人たちの「死」に対する考え方を、いろんな人に質問してみたり、

友達の行ってる教会の礼拝に参加させてもらったり……



できるだけシンプルでいようと思ったけど、
景色一つをとっても、友達との話を通しても、何をやっても、
感じるものがものすごくあって、
自分に取り入れて整理するなんて、その場では全然できなかった。


てっちゃんがいないことを感じる度に、
自分の身体の周りにある、分厚い、目に見えない圧力が、グーーッと自分を押しつぶしてくる感覚があって、
身体が薄っぺらくなったような感覚になって、
視界がというより、身体の中がモノクロになったように感じた。


でも、そんなとき、
ボーッとしている自分の頬を叩くかのように、
目の前にある自然の大きさや明るさを思いっきり感じて、
大きく大きく深呼吸をして、チャールストンの空気をたくさん吸い込んで、
空を見つめてみると、

そのガチガチに張ってた圧力の壁が、少し緩まるような、
心の奥底に落ちかけた、“絶望”の塊が、ひゅーってまた外に出てくるような、

そんな力を感じた。


また違うタイミングでは、
なんというか、心の中の真っ暗闇が、真っ黒というより灰色に近くなって、
それぐらいならそのままでも、自分の中に抱えていけるんじゃないかと思ったりもした。





結果、


てっちゃんはやっぱり見つけられなかった。


大好きだった風景も、

研究室のてっちゃんのデスクも、

あの時のまま、そこに残っていたのに、

やっぱりてっちゃんだけはいなかった。

手を繋ぐその手がなかった。




でも、辛いだけじゃなかった。


悲しかったし淋しかったし、

自分が情けなくなったり、

やっぱりたくさん泣いたけど、

癒やされたり、パワーをもらったり、

これからのヒントをもらったり、

少し勇気が持てたり。



旅を終えて帰ってきて、
そしたら今度はそれが現実として襲いかかってきて、
ちょっとパニックになった。

向こうに行く前に不安に思っていたものが、
行ったときじゃなくて帰ってきたときに起こって、
冷静になるのに少し時間がかかった。



今後どうしていくかは、もう少し考える。


チャールストンが好きで、
あの場所が自分にとっては特別で、
向こうにも大切な友達がたくさんいる。

それは、てっちゃんがいなくなっちゃった今でも変わらなかった。


それがわかった今、改めて、自分自身の人生をもう一回考えていく。


2017年4月16日日曜日

変化、なんだと思う。




前回の投稿から一ヶ月ちょっと。


少し心の休息と整理が必要だった。


あの時のことを思い出したり、
話したり、
書き出したりすることは、
私にとっては決して嫌なことじゃなくて、避けたいことでもなくて、

ただ、やっぱり、あの数日間を振り返って、
出来る限りの記憶を、
しかも辛い記憶をつなぎ合わせて、
文章にするのは、思ったよりも大変だった。


でも、「書いてくれてありがとう」と言ってくれる人もいて、

ブログを始めた最初の目的を一つやり遂げて、それは良かったって思ってる。




毎日毎日、休むことなく頭の中を掻き乱すいろいろな感情と、
毎日毎日、私なりに必死に向き合って、闘って、
そうしたら、少しずつ、そういう瞬間の乗り切り方を身体が覚えてきて、


頭で冷静に受け流せそうなときはそうしてみたり、

それでもやっぱり涙がこみ上げて来たときは、無理に止めたりなんかしないで、泣きたいなら泣けばいいって思うようになったり、

涙が出るのとは違う感情なら、
いつの間にか違うことを考え始めるまで、とことん頭の中でその思いと向き合ってみたり、

てっちゃんを、心の中で思いっきり抱きしめてみたり……



いろんなことをしてみたら、

やっと少し、
たぶんこれでも、まだまだ少しの変化なんだろうけど、
でも少し、自分のことやてっちゃんのことを客観的に見られるようになってきて、

コントロールできるということとは全く別なんだけど、

楽になってきた、というより、



慣れてきたんだ、と思う。


こうしていること、こんな現実にいることが、自分の“ノーマル”になってきたんだ、と思う。



決して望んだことではないっていう、怒りと恨みの大前提は変わらないけど、

でも、



日本の実家で一人で眠ることにも、

朝起きて、てっちゃんのお骨に挨拶して、コーヒーを供えてあげることにも、

てっちゃんのためにお花を買って、手入れしてあげることにも、

あの頃よりずっとずっと少ない量のご飯を、てっちゃんが喜んでいる姿だけをただ想像して供えてあげることにも、

街中で探しても探しても、やっぱりてっちゃんは見つからないことにも、

仲良さそうなカップルを見て、目をつぶりたくなってる自分にも、

そして、何より、

この世で、てっちゃんのいない世界で、生活していかなきゃいけないってことに……


少しだけ、慣れてきて、
それがどうしようもないってことを、頭だけじゃなくて、身体が少しずつわかってきてるような、そんな感じ…なのかな、と思ってる。




自分でも嫌になるほど、
惨めに感じるほど、
てっちゃんにも申し訳なくなるほど、

聞きたくて聞きたくてしょうがないはずのてっちゃんからの声に、
うまく耳、というか心を向けられなくて、
てっちゃんが、今の私にどんなふうにいてほしいと思ってるのかが全然感じられなくて、


それが何でなのかが全然わからなくて、


それが苦しくて仕方なくて、


でも、どうしたって、もうてっちゃんと話すことはできないんだから、


私が私の思う形で動くしかなくて、
大好きなてっちゃんが、私のために言ってくれそうな心強い言葉を思い浮かべて、それを糧にするしかなくて、
いいように考えることを意識的にしていくしかないんだろうな…


っていう、そこまでは何とか考えられるようになってきた。






ただ、やっぱり、“あの世に逝っちゃったてっちゃん”との関係の作り方がうまくできない…。


てっちゃんはてっちゃんだから…。



人間としてこの世で生きていたてっちゃんと、
肉体を失って、今までとは違った形になっちゃったてっちゃんと、


その違いを自分の中で理解して向き合うこと、

逆に、形はどうであれ、てっちゃんはてっちゃんじゃん、ってシンプルに考えてみること、

そういうことがやっぱりわからなくて、

その狭間にいるのかな…。




何が書きたかったわけじゃないけれど……。

でも、てっちゃんと会えなくなって二回目の春を迎えて、
満開の桜や、道端に咲く花や、暖かくなってきた日の光を、美しいものとして素直に感じることが出来るようになっている自分もいるんだと思う。


その変化を、純粋に喜べない自分に戸惑いながら。


二年間、遠距離をしていたときも、
寂しかったけど、その距離に慣れていって、
でもその「慣れ」をいいものとして捉えられたのは、

やっぱり、その先また会えるって思ってたからなのかな。
一生の話じゃないって、わかってたからなのかな。



2017年3月5日日曜日

あの時のこと。1月19日~20日。最後の時間。




2016年1月19日~20日。



そこからどれだけ時間が経ったかわからなかった。


誰かに身体をゆすられて、ぼやける視界に少し馴染みのある顔がうつって、
それがなぜかてっちゃんだと思って、その腕をぐっとつかんで、頭を勢いよく起こして話しかけようとしたら、

「しのさん!」

と名前を呼ばれ、それがS先生だということに、ゆっくり気づいた。


病室を出てきてから、友達がS先生に連絡をしてくれていたらしかった。


「今、病室に行っててっちゃんに会ってきたよ。正直、あの状況はもうかなり厳しいかもしれないね…」


主治医の先生とも話をしたと言ってくれた。
言われていることは、少し前に脳外科の先生から言われたことと同じようなことなのに、
自分自身の受け止め方は全然違った。
…と今思う。

すでにそう聞いているという前提があったから、ということではなく、
やはりその話をしてくれている相手が、てっちゃんや私たちの心境や状況を理解して、こちらがその人のことを信頼したいと思える相手かどうかが大きいんだと思う。


私の頭が少しハッキリしてきたのを見て、


「今からまた一緒に病室に戻ろうか。大丈夫?」


と聞いてくれた。

21時頃だったと思う。
てっちゃんの両親が到着するのが、次の日の夜ということがわかっていて、


「あと24時間でお父さん達が来られるから、どうかてっちゃんを支えてください…」


そう神様にお願いをしたのを覚えているから。


左眼の瞳孔も開いているとわかってからは特に、
てっちゃんの身体は見る見るうちに浮腫みがひどくなっていった。


状態を少しでも安定させたいから、また鎮静剤を始めると言われたのがどの段階でだったか……

その時の私にとっては、鎮静剤を切っていても使っていても、
命ある限りてっちゃんは私たちの声をちゃんと聞いている、と、
とにかくそう信じて話しかけ続けていたから、あんまり関係なかった。


てっちゃんの左眼から涙がこぼれることが何度もあった。

それが生理的な現象なのか、本当に泣いているのか、わからなかった。でも右眼からは出なくて、だからてっちゃんの感情がそうさせているわけではないんだろうと思った。

でも、それでもその涙が、私に「てっちゃんはまだがんばってる」ってことを教えてくれていた。


自分で身体を動かせないし、
話せないし、
呼吸のリズムも機械が作ってるし、

だから余計なのか、
てっちゃんの身体がつくり出す、体温の温かみとか、涙とか、そういうものが愛おしかった。



「悔しいよね。」
「話したいね。」
「大丈夫だよ、ずっと隣にいるよ。」
「何も考えないでいいからね。とにかく耐え抜くんだよ。」
「あっちに行きそうになっても、絶対行っちゃダメだからね、許さないからね!」



そんなようなことを言ってたんだっけな。

こうやって書いていると、
あの時にどんなことを先生たちに言われていたのか、
それをどう解釈していたのか、
かなり曖昧な部分が多くて、

じゃあそれを自分はどう受け止めていたんだろうとか、
何を考えていたんだろうとか、
どんな気持ちだったんだろうとか、


自分のことなのに全然わからない。


てっちゃんの意識が戻ってくることだけを心から信じていたことは確実なんだけど、

でも先生たちの言葉や説明に対して、ただただ受け入れたくないという感情しかなかったとも思えない。

でもその先に待っているのが「死」だということは、全く考えていなかった感覚もあって、

でもじゃぁその状況がその先ずっと続くとも思っていなかったような……


こうやって書いてみたり、書くためにその時の感情や状況をできるだけ思いだそうとしてみたりすると、
あの時の自分は、紛れもなく自分なんだけど、自分じゃない気がしてくる。

「自分」だけじゃなくて、あのときのこと全てが…。



少し話が逸れてしまったけど、
とにかくS先生と病室に戻ってから、夜中の間ずっと、私はてっちゃんの隣で、それまで以上にひたすら話しかけ続けた。


てっちゃんは、浮腫みがどんどんひどくなっていって、
手も足もムチムチになっちゃって、
顔つきも少し変わってきちゃって、
苦しそうに見えた。

左眼だったと思うけど、目も腫れ上がってきちゃって、瞼が閉じきれなくなってた。


腕や顔をさすってあげて、とにかく私が隣にいることを知らせ続けてあげることしか、
できなかった。

ずっと病室にいて、ただただ体をさすって、
返答のないてっちゃんにひたすら話しかけていただけなんだけど、
なぜか時間が流れるのがすごく早く感じた。


足の付け根の出血していた箇所は、看護師さんがこまめに確認して処置も続けてくれていたが、たしか夜中2時頃になって、また出血が多くなってきたと説明を受けた。


その頃だったと思うけど、S先生が、


「てっちゃんのボスにもう一回連絡しておこうか」


と、この先何があるかわからないから、今のうちに連絡しておこうと言ってくれたんだったと思う。

ボスは、夜中にもかかわらずすぐ病院に駆けつけてくれた。
てっちゃんに改めて会って、話をして、S先生から状況を聞いてくれて、
他の親しい同僚にも今から連絡をしようということになった。


そこからどれだけ経ってからのことだったかわからないけど、

主治医の先生が、最後の提案を私たちにしてきた。

私の記憶にあるのは、その説明をS先生が訳してくれた言葉だけ。



「てっちゃんの血圧が不安定で、心電図の状態もかなりよくない。傷口の出血ももう止められない状況になってるし、脳ヘルニアも起こってて、もうこれ以上負荷をかけるのは、てっちゃんを苦しませるだけになるだろうって。」




“てっちゃんをこれ以上苦しませる”




一番避けたいことだった。
一番耐えらえないことだった。

その先の決断を下すということがどういうことなのか、わかっていたんだとは思うけど、
でもそのことへの恐怖とか躊躇よりも、ただとにかく、てっちゃんをこれ以上苦しませることだけが嫌だった。


「鎮静剤を切って、他の機械も止めていく形になるよ。」


そういうようなことを言われた。

どれぐらいの時間をかけて何を考えたのか全く覚えていない。

今考えると、私は何とあっさりその決断を下したんだろうと、自分に問いたくなって、
その場でのその判断が本当に良かったのか、わからなくなってしまう。


「はい」と答えることで、
てっちゃんの命を絶つことになるということを、自分はどこまで考えていたのだろうって、自分を責めたくなるし、

でも、

「いいえ、それは嫌です」と答えたら、
命としては延ばせるのかもしれないけど、てっちゃんの身体がてっちゃんの身体じゃなくなっちゃうような勝手な感覚があって、それが耐えられなかった。

脳内圧がかなり高くなっている状態を私なりに想像して、

その状況を、てっちゃんのパンパンになった全身の浮腫みが表している気がして、

これ以上その状況を放っておくこと、続けることを選んだら、てっちゃんの身体がどうにかなっちゃう気がして、

そんなことはありえないのかもしれないけど、

でも、先生の提案を受け入れることが、てっちゃんを助けてあげる唯一の方法のようにも感じてしまった。



医学的には、たしかにあの時はもう限界だったのかもしれないし、私が拒否する余地はなかったのかもしれない。


でも、今でも、
あの時に「わかりました」と言ってしまったことが良かったのか、
ずっと考えている。

一生背負っていくことになるその決断を、
私はどこまでちゃんと考えられていたんだろうって、
きっとずっと問い続ける。




これ以上の治療の継続はしない、という決断を主治医の先生に伝えると、


「あまり時間はかけられないけれど、今いる友人の皆さんに最後の挨拶をしてもらいますか?」


と言われた。
もう完全に頭が回らなくなっていた私は、

「そうか、そうだよね」

と、最後の時ってそういうこか、って改めて気づいて、
友達夫婦や、てっちゃんのボス、その後駆けつけてくれていた同僚の一人に、順番に病室に入ってもらった。


私にも、てっちゃんと2人きりの時間を与えてもらった。


「時間は気にせず、ゆっくりでいいからね。」


と、看護師さんに言ってもらったことは覚えているけれど、
残念ながら、何をどう話したのかちゃんと覚えていない……



よく頑張ったね。
大好きだよ。
アメリカに連れてきてくれてありがとね。
でも、これから一人じゃどうしていいかわかんないよ。
てっちゃんいないと私無理だよ。
でも、てっちゃんだってなりたくてこうなったわけじゃないもんね…
ごめんね。
よく頑張ったね。
ありがとね。
大好きだよ。

………


そんなことを繰り返していた気がする。


最後って言われたって、何の準備もしてなかったから、
大したことも話せなかったんだと思う。


髪をたくさん撫でてあげたことと、頬をたくさんさすってあげたことしかちゃんと覚えていない。
逆に、その髪と肌の感覚は、今でもものすごくハッキリと覚えている。





その場にいた皆でてっちゃんのベッドを囲んであげて、最後の声かけをした。

そして、ついにか…と思ったら、
鎮静剤や他の機器を切っていく作業をする間は全員外に出るように言われてしまった。



「え、てっちゃんが最後の瞬間に隣についててあげられないの!?」



信じられなかった…。

でも、そんな最後を突き付けられて、そんなの無理ですと言い返すほどの力ももう残ってなくて、言いなりになるしかなかった。


友達に支えてもらいながら、病室の外に出て、廊下に並んで待った。


ガラス張りの壁もカーテンで遮られちゃって、中の状況も全くわからなかった。
私がてっちゃんだったら…と考えたら、寂しくて耐えられなくて、申し訳なくて、かわいそうで……。


「この後、てっちゃんの顔を見た時には、もうてっちゃんは私の声聞こえないのかな…」


「ごめんね、てっちゃん。」


そう思ったのは覚えている。



その時、看護師さんが病室から勢いよく出てきて、突然こう言ってくれた。


「Shino!中に入る?もう鎮静剤は切ったけど、彼はまだ自分の力で生きてるわ!」



「Yes!!!」


そう言って、病室に飛び込んだ。



てっちゃんの手を握って、


「いるよ!隣にいるからね!ごめんね、近くにいてあげられなくて。」


そんなようなことを伝えた。

いくつもつなげていた点滴のポンプは、すでに電源が切られていて、
呼吸器の機械の「シューボッ」っていう音も無くなってて、
でも心電図だったかなんだったかの音だけが「ピッピッ」とまだ鳴っていた。



「ありがとう、てっちゃん。」

「お父さんとお母さんきたら、てっちゃんがどんなに頑張ったか、ちゃんと全部伝えるからね。」

「本当によく頑張ったね。幸せだったよ。」

「ありがとう。ごめんね。ありがとう。」



主治医の先生が聴診器をてっちゃんの胸に当てた。



「He has just passed away.」



すぐに時計を確認した。


1月20日の、朝6時30分ちょうどだった。


外がうっすら明るくなっていた。





てっちゃんの胸に耳を当てた。



一緒に寝ていた時によく聞いていた、てっちゃんの心臓の音。



もう、聞こえない。



呼吸で胸が膨らむことも、ない。



まだ温かいのに。






逝っちゃった。。。






呼吸器のチューブが口に入ったままで、まだ苦しそうな姿ではあったけど、
でも無理やりに動かされてた臓器が全部止まって、
ほんの少しだけ、
少しだけだけど、
穏やかな顔になったように見えた。




先生や看護師さんが部屋を出て、また2人の時間を作ってくれた。

それからどうやってその時間に区切りをつけたのか、
どうやって部屋を出たのか、
誰かが出してくれたのか、

全く記憶がない。


看護師さんに強く強く抱きしめてもらったことは覚えているけれど。




ICUを出てすぐのところに、私たち専用の控室を特別に用意してくれて、
朝になって駆けつけてくるであろう友達が来ても困らないように、
私たちが少しでも落ち着いて過ごせるように、
そこに残ることを許可してもらった。


全ての機器をてっちゃんの身体から取り外したりする必要もあったし、
とにかくそこにいるように言われたんだと思う。




2017年2月26日日曜日

あの時のこと。1月19日。夜。宣告。




2016年1月19日、火曜日。夜のこと。




神経内科の先生が来て、

「でもまだ対光反射が若干みられる」

って言ってくれてたのが、このときだったか、異常があったのが左眼だけの時のことだったか、わからなくなってる…。


自分の記憶の中での、そのとき目にしていた映像や、話をした相手、内容、全てがかなり断片的で、でもボーっとしていたというより、頭がフル回転していて整理する余裕がなかったという感覚がある。


他動的にであれ、瞼を持ち上げてあげれば、
ちゃんと真っ直ぐ前を見ているてっちゃんの顔で、

でもそれは私が知ってるいつものてっちゃんの眼ではなくて、

たしかに正常ではなくて、

目の前にてっちゃんはいるのに、目は合わなくて、

話すこともできなくて、

それはてっちゃんなんだけど、てっちゃんじゃないような、

何とも言い切れない感覚で、


でもまた自分から目を覚ましてくれる、その奇跡だけを信じてた。


状態がさらに悪化したと聞いて、もちろんすごくショックだったけど、
その先に何が待ってるのか、それがどういう意味なのかを考える気は全くなかった。

というか、考えられていなかった。


話しかければきっと聞こえてる、呼びかければきっとわかってる…



姉兄からのアドバイスを胸に、とにかくそう思ってひたすら声をかけ続けてた。


でも、そんな想いだけで動いてはいられないんだということを突き付けられた。

いつでも私を温かくサポートしてくれて、親切にしてくれていた看護師さんからもついに、


「少し話しかけるのをやめて、彼から離れててもらえるかしら。血圧があがってしまってて、今これ以上刺激をあげたくないわ。あなたが声をかけることすらも刺激になってしまうかもしれない。」



と言われてしまった。

もちろん看護師さんが私に冷たくしたわけではないことはわかっていたし、
それがてっちゃんのことを一番に考えてのことだということはわかった。


でも、

てっちゃんを目の前にしながら、
手を握っていてあげることも、
声をかけてあげることもできずに、

ただ、そこにいるしかない、

その無力さは、本当に本当に耐えられなかった。

目の前にいるのに、
何もしてあげられなくて、
すごく淋しくて、
てっちゃんも心細いだろうなと思うと、余計に苦しくて、
たった数十cmほどしか離れてないのに、てっちゃんがすごく遠く感じてしまって、
体中がぐーーっと締め付けられる思いがした。


そのときはたしか病室に私は一人だったんだと思う。


ECMOのカテーテルを挿入してる左足の付け根のところから、少し出血が起こっていると看護師さんに聞いたのは、たしかこの頃だったかな。


どれだけ病室を出入りしてたのか覚えていない。
基本的にずっと病室にいて、話しかけることを止められたその時以外、ずっと声をかけ続けていたんだと思う。


「聞こえるはず」

の信念だけで…

何を話していたのかほとんど覚えていない。


「お父さんとお母さんが、日本で飛行機のチケット手配してくれて、明日の夜にはこっちに着けそうだって!一緒にがんばろうね。それまでずっと私がついてるから心配しないでね。」


覚えてるのはそう話したことだけ。




その次に記憶があるのは、

しばらくして、ずっと付き添ってくれていた友達も一緒に病室にいてくれた時に、
今度は脳神経外科の先生がやってきたときのこと。

私たちはてっちゃんの左側に立って、手を握っていた。


いわゆるオペ用のユニフォームと帽子を身につけて、大きなマスクをつけた男性の先生が二人、てっちゃんを挟んで立つように、てっちゃんの右側のスペースに入ってきた。


マスクをしていたから余計に仕方ないのだけれど、
目つきもあんまり温かくなくて、正直良い印象はあまりなかった。

脳外科の先生だということはわかったのだから、そういう自己紹介を受けたんだと思う。

主治医の先生から大体の状況や経過に関しては、もちろん事前に聞いていたんだと思うけど、
心電図のモニターやその他の機器の設定などを簡単に確認して、
てっちゃんの瞳孔の反射を見ていった。


そして、ほとんど動きがなかったてっちゃんの右側の胸の前面、腕の付け根のあたりを、ぐぃーっと強くつねった。



それが痛覚に対する反応を見るための、必要な検査であることはわかっていた。

それに反応できるかということが、大きな意味を持っていることもわかっていた。

だから、それなりに強い力でつねることも必要なこともわかっていた。

反応にムラがあれば、何度か繰り返して確認することも必要なのはわかっていた。



でも、何の説明も断りもなく、検査を始めて、
てっちゃんの身体を強い力でつねりあげて、
たしかに正常な反応ではなかったかもしれないけど、
でもてっちゃんは実際に反応を見せていて、
ということはてっちゃんは「痛い」と訴えているのであって、


なのに、無言で何度も何度も…


私が握ってあげていた左手も「痛い!」と訴えていたのに…。
てっちゃんはわかっているし、聞こえているのに…。



必要性はわかるけど、
でもまるで、てっちゃんを「生きてる一人の人間」として扱っていないようなその先生の行動に、ものすごく腹が立って、
その先生の手を払いたくなるほど見ているのが苦しくて、
でも、そんなときにパッと感情を表現する英語も見つからなくて、
でもだからと言って、それが先生であろうと何であろうと許せなくて、

心の中で

「もうやめてよ!もうわかったでしょ!」

って、叫んだ。
怒りを抑えられなくて、目を背けることしかできなかった。


そして、てっちゃんの身体から先生が手を放してくれた瞬間、
つねられて赤くなっちゃったてっちゃんの肌をさすってあげた。

先生が日本語がわからないのをいいことに、


「痛かったよね。ごめんね。嫌だったよね。」


って、てっちゃんに声をかけた。


そして、こう言われた。

一生忘れられない言葉。
これだけはハッキリと英語で覚えている言葉。





“There is a big chance....that he will never wake up.”





直訳すれば、
「大きなチャンスがあります…彼がもうこれ以上目を覚まさないと。」

意識を取り戻す可能性はかなり低いと…。


私の英語力が足りなかったのかもしれないけれど、

「chance」

という言葉から始まったその先生の言葉に、
それまでの先生の印象が全部ひっくり返るほどの期待を一瞬してしまって、
そうしたら、その2秒後の言葉に全部打ちのめされた。


その「chance」という言葉を、
そういう「可能性」と捉えるべきだったというのはわかったけれど、
そういう表現をした先生がなぜか許せなくて、

しかも突然やってきて、
必要な検査だけを勝手に始めて、
てっちゃんの気持ちも、私の気持ちも、考えているとは思えないような態度で、
主治医と意見を交換し合うこともなく、ただいきなりそんな言葉だけを放つ先生が許せなかった。



たしか、言われたことを確認するために自分で何かを聞き直した気がするけれど、
全く態度を変える素振りを見せない先生に絶望して、

そしたらその瞬間、その先生の言葉の意味が現実として自分を押しつぶしてきて、

てっちゃんの手を握りながらその場に座り込んだ。


自分が泣き叫んでることを自分で感じながら、

ボーっとする頭の中で、その怒りと悲しみを泣き声に変えることしかできなかった。



頭が真っ白、
目の前が真っ暗、

ってこういうことなのかなって、その感覚はあった。


その先生はそのまま病室を出て行った。


隣にいてくれた友達が、私を抱き寄せてくれて、


「Shino、少し病室の外に出よう。ここで大きな声で泣いていたら、Tetsuyaがそれを聞いて心配するわ。Tetsuyaは聞こえているんだもん。何かあったら看護師さんたちがすぐに知らせに来てくれるから、Tetsuyaは大丈夫だから、Tetsuyaに心配をかけないように一回外で話そう、ね。」


と言って、私を立たせてくれた。

離れたくなかったけど、その通りだと思った。


友達に支えられながら、ICUの外に出て、夜間用に照明が落とされた談話スペースのソファに座った。

友達に横になるように勧められて、ソファの上に横になった。
友達が背中や腕をずっとさすっていてくれた。

その日もそのスペースの夜の見守り番をしてくれていたスタッフの人が、
心配して友達夫婦に話しかけてくれたりする声を聞いていたら、
意識が遠のいていくのを感じた。


眠りに入るというより、気を失う感覚だった。



どうしてる?



てっちゃん、今どうしてるかな。


何してるかな。




会いに行きたいな…。

2017年2月16日木曜日

三周年



三度目の結婚記念日。


てっちゃんと一緒に祝えたのはたったの一度。

去年はまだ四十九日も終わってなくて、
今思うと、頭の中もものすごいボーっとしてた。
てっちゃんに手紙だけ書いた。



入籍した年は、東京は2月15日が大雪だった。

てっちゃんには、15日にチャールストンから帰ってきてもらって、翌日の昼にお互いの両親と顔合わせをして、その足で役所に行く予定だった。

2月16日は、その一年前にプロポーズしてもらった日で、私にとっては特別だったから、その日を結婚記念日にすることにした。

てっちゃんは、結婚記念日がいつだろうと構わないから、222で覚えやすいように22日にしようかとか、そんな感じだったけれど…


でも、その年はチャールストンも異例の大雪で、てっちゃんが帰ってくる便が飛ばなくなっちゃって、出発がまる一日遅れて、日本に着くのが顔合わせ当日に…。

昼には間に合わないからと、顔合わせを急遽夜に変更して、私が空港まで迎えに行って、そこからお店に直行することにした。


アメリカでの散髪は失敗経験があるから、と伸ばしっぱなしだった髪の毛もそのまま(本当は帰ってきてすぐ切りに行く予定だった)で、
飛行機にはジャージで乗ってきてたから、最低限の着替えだけさせて、顔合わせに向かった。


てっちゃんらしいマイペースっぷりだったけど、長時間フライトの疲れもあっただろうに、不満を言うこともなく、私が希望した日に全てがとり行えるように動いてくれた。


そうして、お互いの両親も一緒に、六人で楽しい時間を過ごして、
久しぶりに会えた喜びと共に、
私達は正式に夫婦になった。


好きで結婚したんだから当然だけど、
幸せだった。
ものすごく。


こんなに辛い、寂しい運命になっちゃったけど、

私はてっちゃんを旦那さんに選んで何も後悔してない。

あの時間が、私の人生の宝物であることは間違いない。


今は苦しくて苦しくて仕方がないし、
こんなこと二度と経験したくないけど、
でも、私は生まれ変わってもまたてっちゃんの奥さんになりたい。

生まれ変われるなら、できれば今度はこんな結末はやめてほしいけど、
でももし同じ運命でも、
私はてっちゃんの一番大切な人でいたいし、
あの一緒にいられた時間を、もっともっと大切に幸せに過ごしたい。


幸せでおめでたいはずの一日だけど、
てっちゃんがいないこの日は、
やっぱりおめでたくはない。


でも、

今日はささやかだけど、ケーキを買ってお祝いをする。


てっちゃんの奥さんでいられる幸せを祝って…

この一年、私を守ってくれたてっちゃんに感謝して…

今日が悲しい日じゃなくて、ステキな日であるはずだってことを、自分に言い聞かせるために…


てっちゃん、おめでとう。ありがとう。


2017年2月15日水曜日

小さな雲



昨日の朝、うちの裏の高台に出た時に出会った、小さな雲。

真っ青な、他に雲一つない空に、
ちょこっと浮かんでた小さな雲。

こんな雲みたことない。

奇跡だとすら思った。


見えるかな。
写真で見るより、実際はもっとはっきり大きく見えたんだけど…






小さな小さな雲だけど、私にはその日の大きな大きな力になる。


夜、駅からの帰り道で見える月、
駐車場から見える一等星、

てっちゃん自身なわけはないけど、
てっちゃんからの贈り物、
てっちゃんからの力だと思って、


「ありがとう。ちゃんと見ててよね。」


って言葉をかける。

昨日の雲は、駅に向かう私にずっとついてきてるようで、そりゃ雲だからそんなふうに見えて当然なのに、


「いいよ、そんなについてこなくても。今日もがんばるからね。」


って、ちょっと嬉しくなりながら言ってた。



チャールストンのいちょうの木を見に行ったときに、空に見えた一つの雲に出会ってから、それまで以上に空に話しかけることが増えた。


中国に行った頃から、空の力、特に青空の力には、たくさん助けられたり、力をもらってきた。

今はその自然の力に、てっちゃんからの力が加わって感じるから、そのパワーはすごい。



絶対にいなくならない空。

いつもいるわけじゃないけど、いると心が和む雲。

毎日形を変えて、一日一日を生きていることを教えてくれる月。

疲れた日も、きつい日も、その小さな強い光で私の心を癒やしてくれる星。


その全部にてっちゃんの力を勝手に感じる。
そんなのあり得なくても、それぐらい勝手でいようと思う。




2017年2月11日土曜日

あの時のこと。1月19日。日中のこと。



2016年1月19日、火曜日。日中のこと。



てっちゃんの左眼の瞳孔が開き、対光反射がなくなっていた。。。

そのとき私は、なんだか怖くててっちゃんの眼球を覗き込めなかったけど、先生がそう説明してくれた。
脳梗塞か脳出血かが起こっているだろうと。


「え…次は脳…?」


心臓に、肺に、腎臓に、肝臓に…
そこに脳まで…。

理論的にあり得ることはわかったけど、
二次的に次々起こってくる問題に、怒りというか理不尽さというか、てっちゃんの生活習慣とかそういうことじゃないのに、なんでこんなにてっちゃんの身体が次々ボロボロにされちゃうのか、苛立ちを感じて、何もしてあげられない自分にも、先生たちも追いついていけない変化の速さにも、無力感と絶望感でいっぱいだった。


ただ、CTを取りに行くことができなかった。

心臓も肺も、自分の力では機能しなくなっていたてっちゃんの身体を、病室から動かすわけにはいかなかった。


それまでも、主治医の先生以外に、呼吸器科専門の先生や腎臓内科の先生、それ以外にもいろいろなスタッフの方たちがてっちゃんの治療に関わってくれていたが、そこに神経内科の先生も加わった。


CTをとりにいけない状況では、それ以外の情報から、てっちゃんの頭の中の状態を探るしかなかった。
瞳孔の反応を、何度も慎重に確認してくれて、でもやはり脳内の状態をもう少し把握したいから、一時的に鎮静剤を止めてみようということになった。
鎮静剤を止めれば、身体の動きや反応を見られるかもしれないからと。

その他にも脳波の検査もやった。


看護師さんが鎮静剤を止めてくれて、


「話しかけてあげて。反応はないかもしれないけど、彼は今あなたの声が聞こえてるはずよ。彼は今自分がどんな状態かわからなくて、何が起こってるか知らないだろうから、あなたからいろいろ話してあげるといいわ。」


と言ってくれた。

状況は深刻になっていたんだろうし、全く良い方向ではなかったのかもしれないけれど、正直私は、


「またてっちゃんと話せるかもしれない。私の声かけにてっちゃんがリアクションしてくれるかもしれない!」


と、鎮静剤を切らなきゃいけない理由が前向きなものではないことは、頭の中ですっ飛ばしていて、それでも話せるかもしれないというほうの喜びというか、期待のほうが大きかった感覚を覚えている。

自分がてっちゃんのためにしてあげられることが、やっとできた気がした。


ここがどこで、今が何日の何時で、あれから何があったのか、
てっちゃんに簡単に説明した。

きっと意識のハッキリしない中で、いつもの調子でいろいろ喋られると、てっちゃんは嫌がるだろうなと思って、高まる気持ちを抑えながら、できるだけ簡単に、ゆっくり話した。

目を閉じたままのてっちゃんに…
パッと目を開けてくれるわけもなく…


このあたりはもう、兄姉とのLINEの記録も途切れ途切れになっていて(電話でのやり取りが増えていて)、記憶が混在しているせいで、時間の流れや出来事の起こった順番がはっきりしなくなっているのだけど、
朝になって何時頃だか、てっちゃんの研究室のボスや、私たち二人がプライベートですごく親しくしていた友達夫婦にも連絡して、すぐに病院まで駆けつけてくれて、S先生の奥さんも歯ブラシや手作りのおにぎりなどを持って、また戻ってきてくれて、交代で面会もしてもらっていた。


何度か話しかけているうちに、てっちゃんは左の肘を曲げたり、手を握ろうとしてくれたり、首を動かそうと少し左右に動かしてくれたり、時には瞼が動きそうになったりもした。

話しかけた声にすぐに返事してくれてるように反応することもあれば、
もう疲れたよ、というようにリアクションが薄かったり遅かったりするときもあれば、
わかったわかった、と言ってるかのように、数回腕を動かしてピタリと止まることもあった。

でも確実に反応してくれていた。


右腕の反応はほとんどなかった。
一回だけ、私が手を握りながら何度も声をかけた時に、わずかに握ってくれたように感じたこともあったけど、それっきりだった。


反応がみえていることは良い兆候だからと、神経内科の先生はしばらくこのまま様子を見ましょうと、それ以降30分~1時間に一度は病室に来てくださって、てっちゃんのちょっとした変化も見逃さないように関わってくださった。


本当に驚いたのは、その親しくしていたアメリカ人でクリスチャンの友達夫婦が、てっちゃんのためにお祈りをしたいと言ってくれたときのことだった。

面会は一度に2人ずつだったから、私ともう一人誰かという形で、その夫婦にもそれぞれ分かれて病室に入ってもらって、お祈りもそれぞれがしてくれた。


てっちゃんの左手を握りしめて、反対の手をてっちゃんの肩にのせて…


そうすると、お祈りをしてくれている間のてっちゃんの反応が、それまでに見たことのない頻度と大きさとで見られた。

左の肘を大きく何度も曲げて見せて、そのまま腕が上がってしまいそうなほどだった。

しかも、旦那さんと奥さんとそれぞれの時どっちも。
私が話しかけた時より、二回とも明らかだった。


てっちゃんの、その友達への想いがそうさせたのか、もしかしてイエスがてっちゃんに力をくれたのか……


あの瞬間は本当に不思議だった。
そして、それだけの力をてっちゃんがまだ持っていることを目にして、本当に嬉しくて感動して涙が止まらなかった。



友達や研究室のボスも来てくれたおかげで、私の気持ちもだいぶ楽になっていた。

てっちゃんがもし何とか回復して、意識を取り戻してくれたとしても、かなり重い麻痺が身体に残るだろうし、それはてっちゃんにとって余計に苦しいことなんじゃないかとか、それで仕事ができなくなっちゃったら、てっちゃんは……
とか、
一応でもリハビリに関わっていた私が隣で見ている中で、リハビリをしなきゃいけない状況なんて、てっちゃんすごく嫌がるだろうから、その時は絶対ただ黙って支え続けよう…とか、
変に先のことまで考えちゃって、それはそれでもちろん怖かったけど、

てっちゃんの隣に居続けられるなら、どんなことも全力で立ち向かう覚悟がすでにできていた。


そう思いながら病室から外の景色を見ていたことを、すごく覚えている。


透析を開始するために少し準備が必要だからと、しばらく病室を出るように指示を受けた。
すでに昼近かったので、病院の一階にあったカフェテリアで、一緒にいてくれた友達と食事に行ってみることにした。

友達が持ってきてくれたサラダやスープを食べてみたけれど、やっぱり大して食欲もなく、食べてもすぐ気持ち悪くなっちゃって、少ししか食べられなかった。
友達はすごく心配してくれたけど、でも体調が悪い感覚はなくて、私自身の気力も、夜中に比べたらだいぶ戻っていた。

話を聞きつけた他の友達や、私が通っていた英語学校の先生まで、駆けつけてきてくれてたくさん励ましてもらった。
とにかくみんな、てっちゃんはあんなに若いんだから大丈夫と、みんなが前向きな言葉をかけてくれた。


そうして少し私も気分転換をして、たしか、透析が始まったと報告を受けてからまた病室に戻らせてもらった。
2時だか3時だか、それぐらいだったと思う。

その日はS先生は仕事があったため、そのアメリカ人夫婦が付きっきりで私とてっちゃんに付き添ってくれていた。
その二人は、私がわかりやすい言葉とスピードで話をするのが本当に上手で、先生の話で理解が曖昧なことがあったら、遠慮なく聞くことができた。


看護師さんは24時間、完全二人体制でてっちゃんの看護にあたってくれて、主治医の先生も休みなしで病院にいてくれているようだった。

脳浮腫の増悪予防と軽減のために点滴を追加していたので、とにかく心臓の働きが戻せるまで、脳内の状態を維持することを目標に治療を続けた。



でも、いつまで経っても、その原因になるウィルスが何だったのかが、検査結果に出てきてくれず不明のままだった。
主治医をはじめ、先生たちがみんな、その謎に頭を抱えていた。

(あとから知ったのだけれど、その時に調べてくれていたウィルスの種類は相当の数で、日本の病院だったら絶対にこれ程の検査はやってもらえない、ということだった。)



そんなこんなで、もう数時間経っていたんだろうか。
病室を10分だか20分だか、離れた時があった。

病室に戻ると、看護師さんが


「さっきちょっとむせ込んだんだけど、今は落ち着いたわ。」


と報告してくれた。
少しすると主治医の先生も、てっちゃんの様子を見に来てくださった。


先生がてっちゃんの瞳孔の反射を改めて確認すると、右眼の瞳孔もさっきまで見ていたより開いていた……


この時は、私もハッキリと見た。
見せてもらった。

前回検査してくれた時に見ていたてっちゃんの眼じゃなかった。。。



2017年2月8日水曜日

泣くこと



やっぱり泣いた方がいい。
泣ける方がいい。


会いたくて仕方なくて、寂しくて止まらない涙でも、

てっちゃんがいなくなっちゃった現実がとにかくこわくて不安で、勝手に襲ってくる涙でも、

こんな運命になってしまったことに悔しくて、なんでだよ、てっちゃんのこと奪ったの誰だよ、って出ない答えに行き詰まって流れてくる涙でも、

てっちゃんは近くにいてくれると信じて、実際そう思えて少しほっとした気がして、でもそんなふうに思うしかないそのことが嫌でこみ上げてくる涙でも、

周りの人の思いやりや、こんなにも守ってもらっていることへの感謝で、心がいっぱいになる涙でも、

よくわかんないけど気づいたら出てる涙でも…。


泣くことは楽じゃないし苦しいけど、

涙は私の心を守ってくれる。

涙が流れると、心がてっちゃんで満たされる。

てっちゃんが私を守ってくれてるように感じるのか、
てっちゃんの事を心から想ってる自分に改めて気づいてどこかホッとするのか、
無理しそうな自分に無理しないでいいって言い聞かせられるからなのか、


理由なんて全然わからないけど、
泣かずにいられる日が少しずつ増えてくると、ただただ想って泣いて…を繰り返せることの大きさがわかる。


こうやって書くと、またてっちゃんを想って涙が出る。
それでいい。
それがいい。


2017年2月1日水曜日

別れの日




去年の今日、私はてっちゃんと大きな大きなお別れをした。

てっちゃんに触れることを絶たれた日。
てっちゃんの「姿」を目にすることが永遠にできなくなった日。
頭からこびりついて離れない日。
人生で一番悲しくて、寂しくて、悔しかった日、と言ってもおかしくない日。



そうやって、また一つ、悲しい節目の日を自分の中に作り上げて、自分から悲しみに入る。


何が言いたいか、何が書きたいかわからない。

ちょっといろんな意味で準備中。



こうやって、私は一日一日を生きていく。


2017年1月29日日曜日

あの時のこと。1月19日。



2016年1月19日、火曜日。C病院にて。



18日の朝に救急のクリニックを受診して、その後さらに2ヶ所の病院を経由して、夕方暗くなってから、4ヶ所目になるC病院に入院。

すぐに手術を始め、23時過ぎに手術が終わったと報告を受けた(前回の投稿では22時と書いたが違ったみたい)けど、報告を受けたままでどうなっているのかわからないまま、病室には入れないまま、日をまたごうとしていた。


てっちゃんのお父さんから、アメリカ行きのチケットが手配できたとメールをもらったのもこの時だったことが、こうやって振り返ってわかった。

たった1日のうちに起こったことが、本当にたくさんありすぎて、自分でこうやって書いてこうやって振り返って、改めておそろしくなる。



LINEの記録によると、そのあと先生が一回説明に来たのは夜中の2時前だったよう。


手術室からICU内の病室には戻ったが、術中に出血した左大腿部から再出血して、かなり量が多いからまた状態が危ない、と。
肝不全や腎不全も起き始めていて、止血もなかなかうまくいかない、と。
だからまだ面会はできない、と。


「えっ……?」



そうとしか思えなかった。

出血多量と聞いて、その状態を勝手に想像して、想像しただけでパニックになりそうで、
あんなに大変な状況を乗り越えたのに、それでもまだてっちゃんにこんな困難を降りかけてくる現実に、苛立ちと悔しさもあって、
でもてっちゃんのことを思ったら、麻酔はかかっているとはいえ、太ももからホースのような管を入れられて、そこから大量出血なんて、かわいそうで仕方なくて、
せめて近くで手を握って、声をかけてあげたいのに、それもできなくて、
本当に狂いそうだった。


“もしかして、このままてっちゃんと話ができずに……”


そんなことが実際に私の頭によぎるようになっちゃって、
その恐怖と不安がとにかく全身に襲ってきて、
ソファに座りながら、兄姉にLINEをして励ましてもらいながら、一言二言返答するのが精一杯だった。

兄姉から、

「直接顔を見られなくても、とにかく心の中だけでもいいから、てっちゃんに大声で呼びかけて。とにかく信じるしかない!」

と言ってもらって、ただそう言われたままに、心の中でてっちゃんに話しかけ続けた。



一時間ぐらいして、また先生が説明に来たと兄姉に連絡している記録がある。

出血はとりあえず今止まってきた、と報告しに来てくれた。
10人以上の先生や看護師さんが、てっちゃんを救うために中では動いてくれていることを教えてくれた。

ただ、血管を多少損傷してしまったからその処置もこの後しなくてはいけないということと、腎不全に対して、今後透析を開始することを至急考えていかなくちゃいけないということも説明された。
だから、状況が落ちついた時点で呼びに来るので、と。


S先生にも意見を聞きながらだったけど、透析は必要な状態だったんだろうし、もうそもそも、てっちゃんが助かるなら手段を選んでいる余裕はなかった。

心臓も肺も、肝臓も腎臓も、てっちゃんの身体がどんどん蝕まれていっている状況を聞いて、理論的には相当深刻であることもわかっていたつもりだったけど、でもそれでも、てっちゃんはきっとそのすべてを、どんなに時間がかかっても克服する無敵な力を持っているんだと、本当に根拠のない、てっちゃんを信じる思いだけで話を受け止めた。



S先生は次の日から仕事もあったため、たしかこの辺りで一旦帰宅してもらうことにしたんだと思う。
何かがあったり、先生の説明を英語で理解しきれないようなときは連絡をさせてもらうということにして…

というか、朝になるまでの間に、数時間自分一人だった時間があった記憶があるだけなのだけれど。。。


長ソファに少し横になって頭を休めることにした。
薄暗くて、頭が朦朧としていて、涙のせいもあったのか、視野がぼやけていたような記憶がある。


ぼーっとしていたら、数分眠りに落ちたらしかった。
誰かに声を掛けられて目を覚まして、自分が眠っていたことに気付いた。
目の前にいるのが誰なのか、頭のモードを戻すために数秒かかった。

主治医をしてくれた少し年配の男性の先生と、サブの主治医というか、実際にてっちゃんにつきっきりで治療をしてくれていた若い女性の先生とが二人で話しにきてくれていた。


やっと少し状況が落ちついたので、もうすぐ中に会いに行けると思うということ、
今起こっていることの再確認、
そして、これから必要になるかもしれない治療について、
とにかく、てっちゃんの年齢の若さと生命力を信じて、一緒にがんばっていくしかないということ、

そんなことを話してくれた。


英語のサポートをしてくれていたS先生がいなかったため、
私がちゃんと理解をしているか、聞きたいことはないか、たどたどしい私の英語にペースを合わせて、私の話にも耳を傾けてくれた。


そのあと、自分の両親と少し電話で話をしたらしい。
何をどんなふうに話したか覚えていないけど、私が一人で待っている状況を知った母親がとにかく心配してくれていた。



結局、私がてっちゃんに会いに行けたのは、朝になってからだった。
朝7時半に、兄姉に、顔を見に行けたことを報告している。


CICU内は全ての患者さんが個室に入っていて、病室の廊下側の部分がガラス張りになっていた。

何人もの先生が関わってくれていると聞いてはいたが、本当だった。
ICUの入り口ドアが開いた瞬間に、その先に長く続く病室の列のどこがてっちゃんの部屋なのかが一目瞭然だった。
看護師さんが出たり入ったりしていて、仕切りの窓ガラスの外には何人かの先生が話をしていた。


病室の中を見ると、てっちゃんは病室の中央に置かれたベッドにこっちを向く形で寝ていて、ベッドの右側には点滴が10本以上ぶらさがっていた。
足元にはECMOの機械が置かれていて、頭の奥には人工呼吸器の機械が置かれていた。


壮絶…


壮絶な時間がここで流れていたことを一瞬で感じた。


手を握ってあげていいか看護師さんに聞くと、

「Sure!!」

と、答えてくれ、点滴のルートがどこをどう通っているとか、これだけは気をつけてほしいとか、丁寧に説明してくれた。

本当に有難いことに、私はそれ以降、基本的に(何か緊急の治療がまた必要になることがない限り)てっちゃんの病室内に、いつでもどれだけでも居ていいと言ってもらえた。
日本ではありえなかった。

「お見舞いの人には、一回に2人だけしか入ってもらえないけど、あなたはいつでもいていいのよ。近くにいてあげて。ただ、あなたが具合悪くなってもいけないんだからね。」

と看護師さんが説明してくれた。


点滴の交換や、カルテの入力、傷口の確認など、やるべきことを淡々と進めながら、
私には絶対に心配にさせるような発言をせずにいてくれて、
私がこれは何か、あれはどういう意味か、あれこれ聞くことにもしっかりと答えてくれて、

てっちゃんの名前がローマ字読みだとどう発音していいのかわからないからと、
てっちゃんに呼びかける時にどんな風に呼ぶのがいいか教えてほしいとか、
てっちゃんの髪型がおしゃれだとか、
てっちゃんはどんな研究をしているのかとか、

そんな話もしてきてくれた。


一番印象に残っているのは、


「彼は今こうやって機械につなげられて、その力を借りて命を保っている状態だけど、でもこの機械たちをしっかり管理して動かしている限り、彼は大丈夫よ。これで彼の状態を保って、ウィルスを身体から排除できれば、彼はまた自分の力を取り戻すわ。」


そう言ってくれたことだった。

てっちゃんの近くにいられるようになったことは何よりも大きな力だったし、てっちゃんにとってもそうだったと信じているけれど、
それに加えて、看護師さんからの精神的な支えは本当に大きくて、てっちゃんだけじゃなくて私のことも支えていこうと思ってくれている気持ちがハッキリ伝わってきて、かなり楽になったことを覚えている。


看護師さんの勧めもあって、少してっちゃんとの時間を過ごした後、そこからの長期戦に備えて、一旦体を休めるなり、家に帰ってシャワーを浴びたり着替えをしに行ったり、そんなことを考えようと思った。
てっちゃんのために家から持ってきてあげられるものは…と考えたけど、洋服を着られる状況でも、何かを食べられる状況でもなくて、てっちゃんのためにしてあげられることが、本当に手を握っててあげることしかない現実が悔しくて仕方がなかった。




S先生が私たちの車に乗って帰宅していたので、朝また戻ってきてくれるまで少し休むことにした。

30分ぐらいだけ仮眠をとったらしい。
院内も電気がついて、朝の光も入ってきて、昼間の雰囲気に変わり、待合のスペースにも人が増えていった。


たしか朝の8時半ぐらいだったと思う。
またてっちゃんに会いに行った。
たしかS先生がまた戻ってきてくれた時だと思う。


基本的な状況は変わらなかったけど、少しすると先生が少しソワソワしているのを感じた。




2017年1月21日土曜日

命日



一年後のこの日をどんなふうに過ごすのがいいのか、全然わからなかった。
どう過ごそうと、何を思おうと、現実は変わらないし、てっちゃんはいない。


たしかなことは、あの日から365回も、私はてっちゃんが隣にいない夜を過ごしてきて、それを乗り越えてきた。
一年という時間を、結局は生きてきたってこと。


そうやって迎えた朝は、本当に虚しくなるほど静かな朝だった。
暖房の音もテレビの音もしなかったから、というのは大きいけど、心のざわつきも、自分の心の中でガタガタといろいろなものが崩れ落ちるようなあの感覚も、あの時とはやっぱり全然違う静けさだった。

これが現実か……

わかっちゃいたけどさ……


てっちゃんのお骨を抱きしめて、てっちゃんがアメリカに行く前にみんなに開いてもらった壮行会で、てっちゃんが喋った挨拶の動画を久しぶりに見た。

ずっと、なんでだか怖くてずっと、見られなかった。


久しぶりにてっちゃんの声を聞いた。
笑ってる、泣いてる、考えてる、喋ってる、てっちゃんを見た。

懐かしいと思ったのは一瞬で、やっぱりまだ私の中では普通の声、表情、動きだった。


泣いたし笑った。

愛おしかった。


この命日を、過剰に意識しているのは私達だけで、てっちゃんはもしかして、もちろん忘れちゃいないけど、もっと気楽に過ごしていてくれているのかも…ともちょっと思った。



てっちゃん…

私は、この一年、てっちゃんの家族のみんなともたくさん会って話をしてきました。
てっちゃんがいたからこそ出来上がった関係だけど、今も良い関係を続けさせてもらってるよ。てっちゃんが大好きなみんなのことが、私も大好きです。

自分の家族にも、何度もやってくる波を一緒に乗り越えてもらった。
今までは話す機会がなかったようなてっちゃんの話もたくさんしてきたよ。

数え切れないほどのメッセージや連絡を、友達や知り合いの人からもらいました。
みんなだって、てっちゃんとの別れが苦しくて、この現実に衝撃を受けているのに、それでもそんな中で、自分にできることを…って私のことを考えてくれて、たくさん話を聞いてもらったり、どうしようもない想いを受け止めてもらったり、行き過ぎる思いを止めてもらったり、生活を支えてもらったり、ただただ辛抱強く私が動き出すのを待ってもらったり、本当にいろんな形で守ってもらいました。


現実がどういうことなのかはわかってるけど、でも今でもずっと、毎日何度も、てっちゃんを求めて、てっちゃんを探して、いつかふとてっちゃんが現れてくれると信じて、それが無理でも、いつか私がてっちゃんのもとに会いに行けると信じ続けて、生きてます。


てっちゃんはどうしてる?

いつでも、どんな形でも、てっちゃんからの声が聞こえるのを待ってます。

志野

2017年1月19日木曜日

あの時のこと。1月18日。3度目の転院。



書くのに時間がかかる。
命日をどうしても過剰に意識してしまって、命日までにあの時のことを書き上げたいのに、やっぱりすごく時間がかかる。
胸のドキドキが止まらなくなって休み休みしか書けない。

ダメだ、やっぱり。
焦って書くより、時間かけてでも、しっかり向き合おう。

てっちゃんならたぶん、「別にそんな日付とか変に意識しないで、できるときにやればいいじゃん。」って、またちょっと鼻で笑うようにして言うのかなって思う。
考えすぎたり、勘ぐりすぎたり、気にしすぎたり、そんな私の性格でケンカしたこともたくさんあったな。。。



ということで、またこの後のことは、書けそうな時に書いていきます。





2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)から4つ目の病院(C病院)へ。



とにかく長く感じた時間のあと、先生だったか看護師さんだったかが声をかけに来てくれて、中に来てもらえる状態になったから、てっちゃんと会ってもいいと言ってくれた。
廊下を歩きながら、深呼吸をして、てっちゃんの顔をまた見られる嬉しさと、現実を目にしなきゃいけない緊張とを消化しながらICUまで急いだ。


そのあたりから、私の意識は、視野が狭くなったような感覚というか、周りの人の様子とか音声とかそういうものがほとんど入らなくなっていたんだと思う。



先生や看護師さんと何を話したかとか細かいことは覚えてないけど、とにかく衝撃だった光景…

想像だってしてたのに、覚悟だってしてたのに、ショックだったてっちゃんの姿…


私の腰の高さぐらいまで上げられたベッドの上で、仰向けにされてるてっちゃんは、
目を閉じて、挿管されていて、家から着て来ていた服を脱がされていて、
腰から下には薄い掛物がしてあったけど、
胸の上には、電気ショックの大きな赤い四角い跡が2ヶ所くっきり残っていた。


入っていいと言われた病室には、床を掃除してくれるおばちゃんや、点滴の管理とかをしてくれてる看護師さんがいて、先生たちはガラス越しの廊下でまだいろいろ話していた、と思う。


ベッドの横に立って、てっちゃんの手を握った。

血が巡り直したような、自然な温かみを感じた。

正直、本当にホッとした。

でも、もう握り返してくれる手ではなかった。


私の思い込みかもしれないけど、ものすごい山を乗り越えたてっちゃんは、疲れ切って眠っているような、苦しそうというより、「やっと眠れるわ」と肩の力を抜ききったような顔をしているように見えた。


「てっちゃん……。偉かったね。本当よく乗り切ったね。苦しかったでしょう。本当頑張ったね。偉かったね。」


そんなふうに声をかけた。


先生からは、今転院の準備をしているから、もう少し待ってて下さいと言われた。
低体温状態を維持した方がいいと思うので…という話をされたり、なんだかいくつか説明を受けた気がするけど、正直、とにかく転院までもうちょっとだけ待ってという事実しか耳に入ってなかった。

低体温療法をすると言われて、医学的に必要なんだろうとは思ったけど、
服も着ずにシーツのような薄い掛物しかしていなかったてっちゃんを目の前にしていた私は、

「てっちゃん寒くて仕方ないだろうに…かわいそう。」

と、それが治療だということを素直に受け止められない感覚もあった。



でもとにかく、処置や手続きに関しては、必要と言われるものを進めてもらうしかなくて、
それが進んでいくのを私はただ待って受け入れていくしかなかった。

若い看護師さんが何人か、話しかけてきてくれて、
てっちゃんは本当によく乗り切ってくれたと言ってくれた。

アメリカに他の家族は住んでいるのかとか、いつ頃アメリカに来たのかとか、
患者の情報収集をするためというより、
外国から来ているらしい若い夫婦にこんなことが起こって、本当に心配とか心が痛むとか、そんな想いをもって話をしてきてくれているのを感じて、すごく楽になったし親近感を感じた。

私の肩を抱き寄せて、何も言わずに想いを共有しようとしてくれる、その力に本当に救われた。


なんだかんだと、少なくともそこから30分ぐらいはかかったと思う。もっと長かったんだろうか。
転院に必要な手続きのために、書類にサインしたり、診療記録に必要な情報を話したり、そんなようなことをしていたと思う。



搬送をしてくれる救急隊員の人たちが来てくれて、準備が進んだ。
まだあまりにも状態が不安定だったてっちゃんを、万全の態勢で搬送できるように、先生たちと綿密なやりとりをしてくれていた。


先生や看護師さんにお礼をして、落ちついたらその後の経過を必ず報告しにまた来ますと、その看護師さんに伝えてその場を後にした。
てっちゃんは搬送専用の経路でC病院に向かうから、とやっぱり付き添い続けることはできず、S先生とB病院を出て、道路を挟んで一ブロック隣にあるC病院に歩いて向かった。


外はすっかり暗くなっていて、とにかく寒かった。

その暗さと寒さは今でもはっきり覚えている。

てっちゃんはもちろん、私たちも大きな壁を一つ乗り越えた後の小休憩というか、
でもこの先にまだまだ更に大きい壁があると覚悟をしなおすための時間のような、
とにかく身が引き締まる思いだった。



てっちゃんが入る予定のCICU(心臓疾患の集中治療室)の外に、談話スペースというか、ソファやテーブルが並べてある広いスペースに私たちは到着して、たしか、その談話スペースの見守り番をしていたスタッフの人に、てっちゃんがすでに運ばれてきているか問い合わせをしてもらったんだと思う。
B病院に運び込まれた時のように、搬送が済んだら一旦病室に案内されるのだと思って、S先生とそこで待っていた。


まただいぶ待った。


まだ着いていないわけがない、と思い、もうすでに手術が始まっているのか、それともまた何かが起こってしまっているのか、搬送の間に急変したとか…!?
…そんなことをまた引っ切り無しに考えてしまって、何度もCICUの入り口の前まで行っては戻り…を繰り返した。



しばらくして、先生がやってきて、搬送後そのまま手術室に直行して、ECMOでの補助を開始するためにカテーテルを挿入する手術を開始していることを教えてくれた。
その後のてっちゃんの治療には、主に2人の先生が主治医として関わってくださって、それ以外にも2人ほど、逐一報告に来てくれる先生がいた。


ECMOというのは、膜型人工肺と訳されるようで、単純に言うと、患者さんの肺に変わって血液に酸素を供給する役目を機械が担うというもの。
本当にホースの太さぐらいあるカテーテルを足の付け根から入れて、静脈血を一旦取り出してECMO内に送り、そこで酸素を送り込んだ血液をまた体内に戻す、それを治療中ひたすらてっちゃんの肺の代わりにやってくれる装置。

つまり、心臓はインペラで、肺はECMOで、人間の身体で最も重要とも言える部分を、てっちゃんは機械に頼らないと命を保てない状態にあったということ。
(私の認識が間違っていなければだけれど…)


手術にはどれぐらいの時間がかかるのかと、その先生に聞くと、特に何も問題なくうまく挿入できれば45分ぐらいだと思いますと言われた。
そのとき、たしか夜の20時ぐらいだったと思う。

もうすでに20時であることに驚きながら、でも1時間ぐらいで終わると思えば、今夜中には少し落ち着いててっちゃんのそばにいてあげられるかな……
そんなことを今思えば本当に安易にだけど、心の中で思っていた。



ここからの記憶は、その時リアルタイムで自分の姉兄とやりとりをしていたLINEの記録が少しあるから、時間の流れとかはそこを頼りに書こうと思う。

それによると、手術中に私は、てっちゃんの実家に少なくとも一回連絡を入れていたらしい。


S先生も結局朝からずっと付き添ってくれていた。
手術が終わって状況を主治医から聞くまでは一緒にいると言ってくれたので、お言葉に甘えた。


順調にいけば終わると言われた45分を過ぎても連絡は来ず、
1時間を過ぎても、
1時間半を過ぎても、
終わったともまだ終わってないとも、何も連絡が来なくて、でも何かあれば必ず話に来てくれるだろうし…と思って、とにかく我慢した。祈った。


結局手術が終わったと、報告を受けたのは22時を過ぎてからだった。
カテーテルを挿入した部分からの出血が少しあって、それの処置で少し時間がかかっていたとの説明だった。
落ちついたら病室に案内できるだろうと言われ、また一つ、てっちゃんの命の糸がつながったことに本当に心から安心した。

これで全身状態は保ちやすくなるはずだから、今夜とあと二晩ぐらいを通して、状態が落ちついてくればだいぶ安心できるというような話を受けて、なんとなく先が見えた気がして、まだまだこれからが大変なのはわかっていたけど、でも、


「どうかもうこれ以上の苦難がてっちゃんに降りかかりませんように。」


ただただ、そう祈った。

その日は病院を離れられる状況ではなさそうだったし、その談話スペースで見守り番をしている夜勤のスタッフの人がすごく親切にしてくれて、毛布や枕も貸してくれたので、そこに残ることにした。手術が終わったと聞いて、多少の安心はしたものの、それまでの状況がトラウマになっていたのか、もう心のコントロールはほとんどつかなくなっていた。
(というようなことがLINEのやりとりに書いてあった)


でも、結局そこから日付をまたぐ時間になっても、病室に案内してくれる気配はなく、てっちゃんが病室に戻っているのかも、結局どうなっているのかもわからない時間がさらに数時間続いた。



2017年1月14日土曜日

あの時のこと。1月18日。3つ目の病院で。その後。



てっちゃん、ずっと書けないでいてゴメンね。
ここから先の話は、私が書かなければ、てっちゃんも自分自身の身体に何が起きてたのかわからないもんね。

あれから1年が経とうとしていて、もしかしたら、本当に細かい部分はすでに私の記憶からも薄くなっているかもしれない。
でも、やっぱり忘れたくないことばっかりだから、できる限り書くね。自分でも驚くけど、私すごくいろんなことたくさん覚えてるから。

ここまでの話。
1月14~15日
1月16日
1月17日
1月18日①
1月18日②
1月18日③



2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)にて。




“とにかくてっちゃんの家に電話をしなきゃ。。。”


時差を計算して、日本が朝の5時だったか6時頃だったと思う。

早朝にこんな電話をしてしまって、ただでさえアメリカからの国際電話で驚くだろうに、こんな知らせをしなくちゃいけないなんて…。

本当に申し訳ない気持ちと、
こんな状況になる前にもっと早く現状を知らせる電話をするべきだったのではないかと後悔する気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、
でも、私が冷静に話をしてあげないともっともっと動揺させちゃう…。

そう思って深呼吸したのは覚えている。



どんな風に説明したかは覚えていないけど、
電話をとったお義父さんは私を責めたてることも、問いただすこともなく、

「すぐにそっちに向かう手配をするから」

と言ってくれて、

「志野ちゃん一人で不安だと思うけど、できるだけすぐ行くからよろしくね。すまないね。」

と、私の心配までしてくれた。



実家にも電話をした。

とにかく、また状況が変わったり何かわかればこちらから連絡する、

ということを両方の親に伝えて、一度電話を切った…んだと思う。



そのとき、その状況に対して、かなり不安だったことも、緊張していたことも、動揺していたこともたしかだったけど、でもそれでもまだ、どこまで大げさにとらえるべきことなのかがわかっていなくて、

「大丈夫だよね?大丈夫だよね?このままなんてありえないよね?」

と、自分の頭の中で何度も自分を説得したのを覚えている。
待合室で、勝手に溢れ出てくる涙を抑えながら、そう声を出していたのを覚えている。


病院の事務の人がやってきて、入院の手続きをしなければいけないから、時間があるときに1階まで来てほしいと言われた。
S先生の判断で、ここから少し治療に時間がかかるだろうということで、すぐに向かった。

院内を歩きながら、とにかく現状を頭の中で整理しようと、てっちゃんの身体に何が起こっているのかを理解しようと、わからないことを一つ一つS先生に質問した。



手続きにくるように声をかけに来てくれたスタッフの人も、事務のスタッフの人も、やらなきゃいけないことは形式的な処理のことだったけど、表情も言葉がけも、すごく私を思いやってくれて、励ましの言葉をかけてくれた。
相当に敏感になっていた私には、その温かさすらも支えになった。



必要な手続きを終えて、また待合室に戻った。

S先生の経験と知識で、その時病室内ではどんなことが行われている可能性があるのか、この先どんなふうになる可能性があるのかを、客観的に、でも希望も含めながら教えてもらった。


心電図の状態から判断して、挿管の処置をする時に心停止が起きてしまう可能性は高いということ、
でもインペラという装置を使えば回復の余地があること、
それはまだ日本ではほとんどだか全くだか使われていない技術だということ、
何よりてっちゃんは若いし、それまでの心肺機能は健康そのものだったんだから、回復力は絶対に高いということ……

いろんなことを話してくれた。

主治医にあたる先生のことをすぐにスマホで調べてくれて、この先生は優秀な人のようだし、あの人は信頼して大丈夫だ、と、
最悪の時でも、心移植という方法がなんとかあるはずだから、と、
日本でできなくてもこっちだったらできる治療もあるから、大丈夫、とにかく信じよう、と

たくさんのことを教えてもらった。



どれぐらい待ったか覚えていない。
短い時間ではなかった。長かった。


しばらく待っていたら、さっき会った主治医の先生とは違う先生が待合室まで来てくれて、少し話をしたいと言ってきた。

前置きとして何を話したかは覚えてない。
どんな英語を使っていたかも覚えてない。
全部聞き取れていたかもわからない。

ただ、

「今、中で必死に治療をしていますが、すでに心停止を何回か繰り返していて、心肺蘇生を続けています。ただ、心室のリアクションがあまりにも悪く、すごく厳しい状態です。最悪のことも考えてください。So sorry for that...so sorry...」


そんなふうに自分の頭の中で和訳したことはハッキリと覚えている。
そんな訳のわからないことを言う先生の顔がぼやけて感じて、
そもそもよくわからない英語だらけだけど、一言でも聞き逃しちゃいけないと思って働かない頭を必死に動かそうとして、でもやっぱり右から左に流れて行ってる感じがした。

「なんてことをこの先生は私に向かって話しているんだろう。てっちゃんがさっきまで喋ってたの見てないんじゃないの。え、この先生、もうあきらめてるわけ…?」


文句とか、怒りとか、何とかして助けてよ!と泣きつきたい気持ちとか、何でもいいから湧き出てくる気持ちをぶつけたかった。
でもできなかった。

でも、うなずくことも嫌だった。
その告知を受け入れる気はなかった。


S先生が、考えられる治療の方向性、手段について、率直に全部聞いてくれた。
ちょっと会話のやりとりをして、その先生はまたICUに戻った。
私の頭は完全にシャットダウンしていた、と思う。

突然訪れた、今までの人生で感じたことのない、ものすごい不安と緊張というか…身体の芯がガッチガチだった。
何を考えていたか覚えてない。


しばらくすると、今度は主治医の先生が来てくれた。
きっとICUの中はものすごい状況だろうに、先生は穏やかな表情をしているように感じた。


S先生と私は、簡単にてっちゃんとの関係性を説明して、先生の話を聞いた。

「今、彼は中で本当に必死にがんばっています。心停止と蘇生を何回か繰り返して、ただ心室がほとんど動いてくれず、かなり大変でした。そこで先ほどから、心室のポンプ機能をサポートできるようにインペラを使い始めました。それもなかなか反応がなくて困ったんですが、やっとついさっきから少しリアクションしてくれるようになりました。ただ、まだあまりにも不安定で、安心はできません。」

そう言われた。
少し反応がみえたと聞いて、ホッとしたのは一瞬で、その一言あとにはまたどん底に突き落とされた。

その先生はそこから改めて、ここ数日での彼の症状の変化や、今まで病気などしていなかったかなど、私を通しての問診をした。
ウィルスが原因で起きたことだとは思うが、まだ原因が特定できていないと聞いたのも、この時だった気がする。

(書き忘れてたけど、たしか「心筋炎」という言葉は2ヶ所目の病院でS先生が私に話してくれたんだと思う…ちょっと混乱。)


その上でこういった。


「今まで心肺機能に全く問題がなくて、且つ彼ぐらい若い年齢で、ここまで急激に増悪するのは、雷が人間に直接落ちるぐらいの確率でしか起こらないことです。とにかく不運としか言いようがないです。ただ、彼のように年齢が若ければ、当然高齢の患者さんに比べて回復力は大きいですし、今回のように症状の増悪がすごく速い場合は、その分回復するときにはその回復も速いという情報もあります。」


この言葉があったかなかったかで、私のその先少なくとも数時間の気持ちは全然違ったと思う。
その瞬間は少なくとも、てっちゃんがすごいスピードで回復して、また笑ってくれる姿しか想像しなかった。

てっちゃんはそんなに簡単に負けない。

本気でそう思った。


てっちゃんの両親が今アメリカに向かう手配をしているということを伝えたのと、今はまだてっちゃんに会えないのかを聞いた。
今はまだ無理、ときっぱり言われてしまった。
また随時報告にきますと、そう言ってまた中に戻ってしまった。

一緒に連れて行ってほしいという思いと、私のことはどうでもいいから早くてっちゃんの元に戻って全力で治療してください!という思いと、もうメチャクチャだった。


それ以降、何回か経過報告のために日本に連絡を入れたと思うけど、どのタイミングだったか覚えていない。


そこからまた、頭を整理するためにS先生にとにかく質問をぶつけて、何度も同じことを確認したりして、とにかく頭の中を冷静でいさせる努力をした。

先生が新たに教えてくれたのは、たぶんこの先、状態が最低限安定したら、ECMO(エクモ)という機器を使って、血液の酸素化をしないといけないと思うということ。
それがこの病院でできるか知らないけど、少なくともうちのC病院(てっちゃんが働いていた場所)ならあるから、きっと連携をとってくれるということだった。


S先生の奥さんが改めて駆けつけてくれて、私のことを気遣ってくれた。



またしばらくして、また違うチームメンバーらしき先生が来てくれた。

「インペラを使って、やっと少しバイタルが安定してきました。ただ、これからECMOでの治療を開始するためにC病院に移って手術が必要です。今まだ病室の中はかなりいろいろなものが置いてあって、必要の無いものを少し片づけているので、もう少ししたら中に入ってもらってご主人に会えますよ。」


そう教えてくれて、もうとにかく早くてっちゃんのところに行って

「本当によく頑張ったね、てっちゃん!!!!本当によく頑張った。近くにいるから大丈夫だからね!!!!!」

そう伝えたかった。

待っている間、さっきとは違う緊張を感じて、そこからが長かった。
「もう少し」という言葉を、そのままに受け取りすぎて、待っても待っても呼びに来ない気がして、

「また急変とかしてたらどうしよう…私に知らせに来るとかそれどころじゃなく、また中で大変なことが起こってたらどうしよう…」

一旦温まった心に、また一気にそんな想いが押し寄せてきた。





2017年1月6日金曜日

みんなの中でのてっちゃん



これを読んでくれている皆さんへ。



「てっちゃん昔こんなこと言ってたよ」

とか、

「あなたのことこんなふうに話してたよ」

とか、

「僕/私にとって、てっちゃんはこんな存在だったよ」

とか、

「あの時実はこんなだったらしいよ」

とか、

「てっちゃんってこんなところがあったよね」

とか…



皆さんの中に生きているてっちゃんの姿を教えてほしいんです。

もちろん、私が割り込むべきでない、皆さんとてっちゃんとの間で起こったことではなくていいので。


てっちゃんがこの世からいなくなっちゃって、
自分一人の人生を考えなきゃいけないっていう変えようのない現実があって、
だけどそれが嫌でもがいてもがいて、
こねられるだけの駄々をこねて一年間過ごしてきて、

でも、その中で、「てっちゃんは自分の中に生きている」ということを自分が心から思えるようになるように、今必死でその形を探しています。


皆さんからそんな言葉やエピソードを聞くことがどんなふうに働くかは、私自身もわからないけれど、やっぱり私は、もっともっとてっちゃんの事が知りたいし、そうすることで、自分の中にいるてっちゃんと対話ができる気がするんです。