2016年1月19日、火曜日。C病院にて。
18日の朝に救急のクリニックを受診して、その後さらに2ヶ所の病院を経由して、夕方暗くなってから、4ヶ所目になるC病院に入院。
すぐに手術を始め、23時過ぎに手術が終わったと報告を受けた(前回の投稿では22時と書いたが違ったみたい)けど、報告を受けたままでどうなっているのかわからないまま、病室には入れないまま、日をまたごうとしていた。
てっちゃんのお父さんから、アメリカ行きのチケットが手配できたとメールをもらったのもこの時だったことが、こうやって振り返ってわかった。
たった1日のうちに起こったことが、本当にたくさんありすぎて、自分でこうやって書いてこうやって振り返って、改めておそろしくなる。
LINEの記録によると、そのあと先生が一回説明に来たのは夜中の2時前だったよう。
手術室からICU内の病室には戻ったが、術中に出血した左大腿部から再出血して、かなり量が多いからまた状態が危ない、と。
肝不全や腎不全も起き始めていて、止血もなかなかうまくいかない、と。
だからまだ面会はできない、と。
「えっ……?」
そうとしか思えなかった。
出血多量と聞いて、その状態を勝手に想像して、想像しただけでパニックになりそうで、
あんなに大変な状況を乗り越えたのに、それでもまだてっちゃんにこんな困難を降りかけてくる現実に、苛立ちと悔しさもあって、
でもてっちゃんのことを思ったら、麻酔はかかっているとはいえ、太ももからホースのような管を入れられて、そこから大量出血なんて、かわいそうで仕方なくて、
せめて近くで手を握って、声をかけてあげたいのに、それもできなくて、
本当に狂いそうだった。
“もしかして、このままてっちゃんと話ができずに……”
そんなことが実際に私の頭によぎるようになっちゃって、
その恐怖と不安がとにかく全身に襲ってきて、
ソファに座りながら、兄姉にLINEをして励ましてもらいながら、一言二言返答するのが精一杯だった。
兄姉から、
「直接顔を見られなくても、とにかく心の中だけでもいいから、てっちゃんに大声で呼びかけて。とにかく信じるしかない!」
と言ってもらって、ただそう言われたままに、心の中でてっちゃんに話しかけ続けた。
一時間ぐらいして、また先生が説明に来たと兄姉に連絡している記録がある。
出血はとりあえず今止まってきた、と報告しに来てくれた。
10人以上の先生や看護師さんが、てっちゃんを救うために中では動いてくれていることを教えてくれた。
ただ、血管を多少損傷してしまったからその処置もこの後しなくてはいけないということと、腎不全に対して、今後透析を開始することを至急考えていかなくちゃいけないということも説明された。
だから、状況が落ちついた時点で呼びに来るので、と。
S先生にも意見を聞きながらだったけど、透析は必要な状態だったんだろうし、もうそもそも、てっちゃんが助かるなら手段を選んでいる余裕はなかった。
心臓も肺も、肝臓も腎臓も、てっちゃんの身体がどんどん蝕まれていっている状況を聞いて、理論的には相当深刻であることもわかっていたつもりだったけど、でもそれでも、てっちゃんはきっとそのすべてを、どんなに時間がかかっても克服する無敵な力を持っているんだと、本当に根拠のない、てっちゃんを信じる思いだけで話を受け止めた。
S先生は次の日から仕事もあったため、たしかこの辺りで一旦帰宅してもらうことにしたんだと思う。
何かがあったり、先生の説明を英語で理解しきれないようなときは連絡をさせてもらうということにして…
というか、朝になるまでの間に、数時間自分一人だった時間があった記憶があるだけなのだけれど。。。
長ソファに少し横になって頭を休めることにした。
薄暗くて、頭が朦朧としていて、涙のせいもあったのか、視野がぼやけていたような記憶がある。
ぼーっとしていたら、数分眠りに落ちたらしかった。
誰かに声を掛けられて目を覚まして、自分が眠っていたことに気付いた。
目の前にいるのが誰なのか、頭のモードを戻すために数秒かかった。
主治医をしてくれた少し年配の男性の先生と、サブの主治医というか、実際にてっちゃんにつきっきりで治療をしてくれていた若い女性の先生とが二人で話しにきてくれていた。
やっと少し状況が落ちついたので、もうすぐ中に会いに行けると思うということ、
今起こっていることの再確認、
そして、これから必要になるかもしれない治療について、
とにかく、てっちゃんの年齢の若さと生命力を信じて、一緒にがんばっていくしかないということ、
そんなことを話してくれた。
英語のサポートをしてくれていたS先生がいなかったため、
私がちゃんと理解をしているか、聞きたいことはないか、たどたどしい私の英語にペースを合わせて、私の話にも耳を傾けてくれた。
そのあと、自分の両親と少し電話で話をしたらしい。
何をどんなふうに話したか覚えていないけど、私が一人で待っている状況を知った母親がとにかく心配してくれていた。
結局、私がてっちゃんに会いに行けたのは、朝になってからだった。
朝7時半に、兄姉に、顔を見に行けたことを報告している。
CICU内は全ての患者さんが個室に入っていて、病室の廊下側の部分がガラス張りになっていた。
何人もの先生が関わってくれていると聞いてはいたが、本当だった。
ICUの入り口ドアが開いた瞬間に、その先に長く続く病室の列のどこがてっちゃんの部屋なのかが一目瞭然だった。
看護師さんが出たり入ったりしていて、仕切りの窓ガラスの外には何人かの先生が話をしていた。
病室の中を見ると、てっちゃんは病室の中央に置かれたベッドにこっちを向く形で寝ていて、ベッドの右側には点滴が10本以上ぶらさがっていた。
足元にはECMOの機械が置かれていて、頭の奥には人工呼吸器の機械が置かれていた。
壮絶…
壮絶な時間がここで流れていたことを一瞬で感じた。
手を握ってあげていいか看護師さんに聞くと、
「Sure!!」
と、答えてくれ、点滴のルートがどこをどう通っているとか、これだけは気をつけてほしいとか、丁寧に説明してくれた。
本当に有難いことに、私はそれ以降、基本的に(何か緊急の治療がまた必要になることがない限り)てっちゃんの病室内に、いつでもどれだけでも居ていいと言ってもらえた。
日本ではありえなかった。
「お見舞いの人には、一回に2人だけしか入ってもらえないけど、あなたはいつでもいていいのよ。近くにいてあげて。ただ、あなたが具合悪くなってもいけないんだからね。」
と看護師さんが説明してくれた。
点滴の交換や、カルテの入力、傷口の確認など、やるべきことを淡々と進めながら、
私には絶対に心配にさせるような発言をせずにいてくれて、
私がこれは何か、あれはどういう意味か、あれこれ聞くことにもしっかりと答えてくれて、
てっちゃんの名前がローマ字読みだとどう発音していいのかわからないからと、
てっちゃんに呼びかける時にどんな風に呼ぶのがいいか教えてほしいとか、
てっちゃんの髪型がおしゃれだとか、
てっちゃんはどんな研究をしているのかとか、
そんな話もしてきてくれた。
一番印象に残っているのは、
「彼は今こうやって機械につなげられて、その力を借りて命を保っている状態だけど、でもこの機械たちをしっかり管理して動かしている限り、彼は大丈夫よ。これで彼の状態を保って、ウィルスを身体から排除できれば、彼はまた自分の力を取り戻すわ。」
そう言ってくれたことだった。
てっちゃんの近くにいられるようになったことは何よりも大きな力だったし、てっちゃんにとってもそうだったと信じているけれど、
それに加えて、看護師さんからの精神的な支えは本当に大きくて、てっちゃんだけじゃなくて私のことも支えていこうと思ってくれている気持ちがハッキリ伝わってきて、かなり楽になったことを覚えている。
看護師さんの勧めもあって、少してっちゃんとの時間を過ごした後、そこからの長期戦に備えて、一旦体を休めるなり、家に帰ってシャワーを浴びたり着替えをしに行ったり、そんなことを考えようと思った。
てっちゃんのために家から持ってきてあげられるものは…と考えたけど、洋服を着られる状況でも、何かを食べられる状況でもなくて、てっちゃんのためにしてあげられることが、本当に手を握っててあげることしかない現実が悔しくて仕方がなかった。
S先生が私たちの車に乗って帰宅していたので、朝また戻ってきてくれるまで少し休むことにした。
30分ぐらいだけ仮眠をとったらしい。
院内も電気がついて、朝の光も入ってきて、昼間の雰囲気に変わり、待合のスペースにも人が増えていった。
たしか朝の8時半ぐらいだったと思う。
またてっちゃんに会いに行った。
たしかS先生がまた戻ってきてくれた時だと思う。
たしかS先生がまた戻ってきてくれた時だと思う。
基本的な状況は変わらなかったけど、少しすると先生が少しソワソワしているのを感じた。