Translate

2017年1月29日日曜日

あの時のこと。1月19日。



2016年1月19日、火曜日。C病院にて。



18日の朝に救急のクリニックを受診して、その後さらに2ヶ所の病院を経由して、夕方暗くなってから、4ヶ所目になるC病院に入院。

すぐに手術を始め、23時過ぎに手術が終わったと報告を受けた(前回の投稿では22時と書いたが違ったみたい)けど、報告を受けたままでどうなっているのかわからないまま、病室には入れないまま、日をまたごうとしていた。


てっちゃんのお父さんから、アメリカ行きのチケットが手配できたとメールをもらったのもこの時だったことが、こうやって振り返ってわかった。

たった1日のうちに起こったことが、本当にたくさんありすぎて、自分でこうやって書いてこうやって振り返って、改めておそろしくなる。



LINEの記録によると、そのあと先生が一回説明に来たのは夜中の2時前だったよう。


手術室からICU内の病室には戻ったが、術中に出血した左大腿部から再出血して、かなり量が多いからまた状態が危ない、と。
肝不全や腎不全も起き始めていて、止血もなかなかうまくいかない、と。
だからまだ面会はできない、と。


「えっ……?」



そうとしか思えなかった。

出血多量と聞いて、その状態を勝手に想像して、想像しただけでパニックになりそうで、
あんなに大変な状況を乗り越えたのに、それでもまだてっちゃんにこんな困難を降りかけてくる現実に、苛立ちと悔しさもあって、
でもてっちゃんのことを思ったら、麻酔はかかっているとはいえ、太ももからホースのような管を入れられて、そこから大量出血なんて、かわいそうで仕方なくて、
せめて近くで手を握って、声をかけてあげたいのに、それもできなくて、
本当に狂いそうだった。


“もしかして、このままてっちゃんと話ができずに……”


そんなことが実際に私の頭によぎるようになっちゃって、
その恐怖と不安がとにかく全身に襲ってきて、
ソファに座りながら、兄姉にLINEをして励ましてもらいながら、一言二言返答するのが精一杯だった。

兄姉から、

「直接顔を見られなくても、とにかく心の中だけでもいいから、てっちゃんに大声で呼びかけて。とにかく信じるしかない!」

と言ってもらって、ただそう言われたままに、心の中でてっちゃんに話しかけ続けた。



一時間ぐらいして、また先生が説明に来たと兄姉に連絡している記録がある。

出血はとりあえず今止まってきた、と報告しに来てくれた。
10人以上の先生や看護師さんが、てっちゃんを救うために中では動いてくれていることを教えてくれた。

ただ、血管を多少損傷してしまったからその処置もこの後しなくてはいけないということと、腎不全に対して、今後透析を開始することを至急考えていかなくちゃいけないということも説明された。
だから、状況が落ちついた時点で呼びに来るので、と。


S先生にも意見を聞きながらだったけど、透析は必要な状態だったんだろうし、もうそもそも、てっちゃんが助かるなら手段を選んでいる余裕はなかった。

心臓も肺も、肝臓も腎臓も、てっちゃんの身体がどんどん蝕まれていっている状況を聞いて、理論的には相当深刻であることもわかっていたつもりだったけど、でもそれでも、てっちゃんはきっとそのすべてを、どんなに時間がかかっても克服する無敵な力を持っているんだと、本当に根拠のない、てっちゃんを信じる思いだけで話を受け止めた。



S先生は次の日から仕事もあったため、たしかこの辺りで一旦帰宅してもらうことにしたんだと思う。
何かがあったり、先生の説明を英語で理解しきれないようなときは連絡をさせてもらうということにして…

というか、朝になるまでの間に、数時間自分一人だった時間があった記憶があるだけなのだけれど。。。


長ソファに少し横になって頭を休めることにした。
薄暗くて、頭が朦朧としていて、涙のせいもあったのか、視野がぼやけていたような記憶がある。


ぼーっとしていたら、数分眠りに落ちたらしかった。
誰かに声を掛けられて目を覚まして、自分が眠っていたことに気付いた。
目の前にいるのが誰なのか、頭のモードを戻すために数秒かかった。

主治医をしてくれた少し年配の男性の先生と、サブの主治医というか、実際にてっちゃんにつきっきりで治療をしてくれていた若い女性の先生とが二人で話しにきてくれていた。


やっと少し状況が落ちついたので、もうすぐ中に会いに行けると思うということ、
今起こっていることの再確認、
そして、これから必要になるかもしれない治療について、
とにかく、てっちゃんの年齢の若さと生命力を信じて、一緒にがんばっていくしかないということ、

そんなことを話してくれた。


英語のサポートをしてくれていたS先生がいなかったため、
私がちゃんと理解をしているか、聞きたいことはないか、たどたどしい私の英語にペースを合わせて、私の話にも耳を傾けてくれた。


そのあと、自分の両親と少し電話で話をしたらしい。
何をどんなふうに話したか覚えていないけど、私が一人で待っている状況を知った母親がとにかく心配してくれていた。



結局、私がてっちゃんに会いに行けたのは、朝になってからだった。
朝7時半に、兄姉に、顔を見に行けたことを報告している。


CICU内は全ての患者さんが個室に入っていて、病室の廊下側の部分がガラス張りになっていた。

何人もの先生が関わってくれていると聞いてはいたが、本当だった。
ICUの入り口ドアが開いた瞬間に、その先に長く続く病室の列のどこがてっちゃんの部屋なのかが一目瞭然だった。
看護師さんが出たり入ったりしていて、仕切りの窓ガラスの外には何人かの先生が話をしていた。


病室の中を見ると、てっちゃんは病室の中央に置かれたベッドにこっちを向く形で寝ていて、ベッドの右側には点滴が10本以上ぶらさがっていた。
足元にはECMOの機械が置かれていて、頭の奥には人工呼吸器の機械が置かれていた。


壮絶…


壮絶な時間がここで流れていたことを一瞬で感じた。


手を握ってあげていいか看護師さんに聞くと、

「Sure!!」

と、答えてくれ、点滴のルートがどこをどう通っているとか、これだけは気をつけてほしいとか、丁寧に説明してくれた。

本当に有難いことに、私はそれ以降、基本的に(何か緊急の治療がまた必要になることがない限り)てっちゃんの病室内に、いつでもどれだけでも居ていいと言ってもらえた。
日本ではありえなかった。

「お見舞いの人には、一回に2人だけしか入ってもらえないけど、あなたはいつでもいていいのよ。近くにいてあげて。ただ、あなたが具合悪くなってもいけないんだからね。」

と看護師さんが説明してくれた。


点滴の交換や、カルテの入力、傷口の確認など、やるべきことを淡々と進めながら、
私には絶対に心配にさせるような発言をせずにいてくれて、
私がこれは何か、あれはどういう意味か、あれこれ聞くことにもしっかりと答えてくれて、

てっちゃんの名前がローマ字読みだとどう発音していいのかわからないからと、
てっちゃんに呼びかける時にどんな風に呼ぶのがいいか教えてほしいとか、
てっちゃんの髪型がおしゃれだとか、
てっちゃんはどんな研究をしているのかとか、

そんな話もしてきてくれた。


一番印象に残っているのは、


「彼は今こうやって機械につなげられて、その力を借りて命を保っている状態だけど、でもこの機械たちをしっかり管理して動かしている限り、彼は大丈夫よ。これで彼の状態を保って、ウィルスを身体から排除できれば、彼はまた自分の力を取り戻すわ。」


そう言ってくれたことだった。

てっちゃんの近くにいられるようになったことは何よりも大きな力だったし、てっちゃんにとってもそうだったと信じているけれど、
それに加えて、看護師さんからの精神的な支えは本当に大きくて、てっちゃんだけじゃなくて私のことも支えていこうと思ってくれている気持ちがハッキリ伝わってきて、かなり楽になったことを覚えている。


看護師さんの勧めもあって、少してっちゃんとの時間を過ごした後、そこからの長期戦に備えて、一旦体を休めるなり、家に帰ってシャワーを浴びたり着替えをしに行ったり、そんなことを考えようと思った。
てっちゃんのために家から持ってきてあげられるものは…と考えたけど、洋服を着られる状況でも、何かを食べられる状況でもなくて、てっちゃんのためにしてあげられることが、本当に手を握っててあげることしかない現実が悔しくて仕方がなかった。




S先生が私たちの車に乗って帰宅していたので、朝また戻ってきてくれるまで少し休むことにした。

30分ぐらいだけ仮眠をとったらしい。
院内も電気がついて、朝の光も入ってきて、昼間の雰囲気に変わり、待合のスペースにも人が増えていった。


たしか朝の8時半ぐらいだったと思う。
またてっちゃんに会いに行った。
たしかS先生がまた戻ってきてくれた時だと思う。


基本的な状況は変わらなかったけど、少しすると先生が少しソワソワしているのを感じた。




2017年1月21日土曜日

命日



一年後のこの日をどんなふうに過ごすのがいいのか、全然わからなかった。
どう過ごそうと、何を思おうと、現実は変わらないし、てっちゃんはいない。


たしかなことは、あの日から365回も、私はてっちゃんが隣にいない夜を過ごしてきて、それを乗り越えてきた。
一年という時間を、結局は生きてきたってこと。


そうやって迎えた朝は、本当に虚しくなるほど静かな朝だった。
暖房の音もテレビの音もしなかったから、というのは大きいけど、心のざわつきも、自分の心の中でガタガタといろいろなものが崩れ落ちるようなあの感覚も、あの時とはやっぱり全然違う静けさだった。

これが現実か……

わかっちゃいたけどさ……


てっちゃんのお骨を抱きしめて、てっちゃんがアメリカに行く前にみんなに開いてもらった壮行会で、てっちゃんが喋った挨拶の動画を久しぶりに見た。

ずっと、なんでだか怖くてずっと、見られなかった。


久しぶりにてっちゃんの声を聞いた。
笑ってる、泣いてる、考えてる、喋ってる、てっちゃんを見た。

懐かしいと思ったのは一瞬で、やっぱりまだ私の中では普通の声、表情、動きだった。


泣いたし笑った。

愛おしかった。


この命日を、過剰に意識しているのは私達だけで、てっちゃんはもしかして、もちろん忘れちゃいないけど、もっと気楽に過ごしていてくれているのかも…ともちょっと思った。



てっちゃん…

私は、この一年、てっちゃんの家族のみんなともたくさん会って話をしてきました。
てっちゃんがいたからこそ出来上がった関係だけど、今も良い関係を続けさせてもらってるよ。てっちゃんが大好きなみんなのことが、私も大好きです。

自分の家族にも、何度もやってくる波を一緒に乗り越えてもらった。
今までは話す機会がなかったようなてっちゃんの話もたくさんしてきたよ。

数え切れないほどのメッセージや連絡を、友達や知り合いの人からもらいました。
みんなだって、てっちゃんとの別れが苦しくて、この現実に衝撃を受けているのに、それでもそんな中で、自分にできることを…って私のことを考えてくれて、たくさん話を聞いてもらったり、どうしようもない想いを受け止めてもらったり、行き過ぎる思いを止めてもらったり、生活を支えてもらったり、ただただ辛抱強く私が動き出すのを待ってもらったり、本当にいろんな形で守ってもらいました。


現実がどういうことなのかはわかってるけど、でも今でもずっと、毎日何度も、てっちゃんを求めて、てっちゃんを探して、いつかふとてっちゃんが現れてくれると信じて、それが無理でも、いつか私がてっちゃんのもとに会いに行けると信じ続けて、生きてます。


てっちゃんはどうしてる?

いつでも、どんな形でも、てっちゃんからの声が聞こえるのを待ってます。

志野

2017年1月19日木曜日

あの時のこと。1月18日。3度目の転院。



書くのに時間がかかる。
命日をどうしても過剰に意識してしまって、命日までにあの時のことを書き上げたいのに、やっぱりすごく時間がかかる。
胸のドキドキが止まらなくなって休み休みしか書けない。

ダメだ、やっぱり。
焦って書くより、時間かけてでも、しっかり向き合おう。

てっちゃんならたぶん、「別にそんな日付とか変に意識しないで、できるときにやればいいじゃん。」って、またちょっと鼻で笑うようにして言うのかなって思う。
考えすぎたり、勘ぐりすぎたり、気にしすぎたり、そんな私の性格でケンカしたこともたくさんあったな。。。



ということで、またこの後のことは、書けそうな時に書いていきます。





2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)から4つ目の病院(C病院)へ。



とにかく長く感じた時間のあと、先生だったか看護師さんだったかが声をかけに来てくれて、中に来てもらえる状態になったから、てっちゃんと会ってもいいと言ってくれた。
廊下を歩きながら、深呼吸をして、てっちゃんの顔をまた見られる嬉しさと、現実を目にしなきゃいけない緊張とを消化しながらICUまで急いだ。


そのあたりから、私の意識は、視野が狭くなったような感覚というか、周りの人の様子とか音声とかそういうものがほとんど入らなくなっていたんだと思う。



先生や看護師さんと何を話したかとか細かいことは覚えてないけど、とにかく衝撃だった光景…

想像だってしてたのに、覚悟だってしてたのに、ショックだったてっちゃんの姿…


私の腰の高さぐらいまで上げられたベッドの上で、仰向けにされてるてっちゃんは、
目を閉じて、挿管されていて、家から着て来ていた服を脱がされていて、
腰から下には薄い掛物がしてあったけど、
胸の上には、電気ショックの大きな赤い四角い跡が2ヶ所くっきり残っていた。


入っていいと言われた病室には、床を掃除してくれるおばちゃんや、点滴の管理とかをしてくれてる看護師さんがいて、先生たちはガラス越しの廊下でまだいろいろ話していた、と思う。


ベッドの横に立って、てっちゃんの手を握った。

血が巡り直したような、自然な温かみを感じた。

正直、本当にホッとした。

でも、もう握り返してくれる手ではなかった。


私の思い込みかもしれないけど、ものすごい山を乗り越えたてっちゃんは、疲れ切って眠っているような、苦しそうというより、「やっと眠れるわ」と肩の力を抜ききったような顔をしているように見えた。


「てっちゃん……。偉かったね。本当よく乗り切ったね。苦しかったでしょう。本当頑張ったね。偉かったね。」


そんなふうに声をかけた。


先生からは、今転院の準備をしているから、もう少し待ってて下さいと言われた。
低体温状態を維持した方がいいと思うので…という話をされたり、なんだかいくつか説明を受けた気がするけど、正直、とにかく転院までもうちょっとだけ待ってという事実しか耳に入ってなかった。

低体温療法をすると言われて、医学的に必要なんだろうとは思ったけど、
服も着ずにシーツのような薄い掛物しかしていなかったてっちゃんを目の前にしていた私は、

「てっちゃん寒くて仕方ないだろうに…かわいそう。」

と、それが治療だということを素直に受け止められない感覚もあった。



でもとにかく、処置や手続きに関しては、必要と言われるものを進めてもらうしかなくて、
それが進んでいくのを私はただ待って受け入れていくしかなかった。

若い看護師さんが何人か、話しかけてきてくれて、
てっちゃんは本当によく乗り切ってくれたと言ってくれた。

アメリカに他の家族は住んでいるのかとか、いつ頃アメリカに来たのかとか、
患者の情報収集をするためというより、
外国から来ているらしい若い夫婦にこんなことが起こって、本当に心配とか心が痛むとか、そんな想いをもって話をしてきてくれているのを感じて、すごく楽になったし親近感を感じた。

私の肩を抱き寄せて、何も言わずに想いを共有しようとしてくれる、その力に本当に救われた。


なんだかんだと、少なくともそこから30分ぐらいはかかったと思う。もっと長かったんだろうか。
転院に必要な手続きのために、書類にサインしたり、診療記録に必要な情報を話したり、そんなようなことをしていたと思う。



搬送をしてくれる救急隊員の人たちが来てくれて、準備が進んだ。
まだあまりにも状態が不安定だったてっちゃんを、万全の態勢で搬送できるように、先生たちと綿密なやりとりをしてくれていた。


先生や看護師さんにお礼をして、落ちついたらその後の経過を必ず報告しにまた来ますと、その看護師さんに伝えてその場を後にした。
てっちゃんは搬送専用の経路でC病院に向かうから、とやっぱり付き添い続けることはできず、S先生とB病院を出て、道路を挟んで一ブロック隣にあるC病院に歩いて向かった。


外はすっかり暗くなっていて、とにかく寒かった。

その暗さと寒さは今でもはっきり覚えている。

てっちゃんはもちろん、私たちも大きな壁を一つ乗り越えた後の小休憩というか、
でもこの先にまだまだ更に大きい壁があると覚悟をしなおすための時間のような、
とにかく身が引き締まる思いだった。



てっちゃんが入る予定のCICU(心臓疾患の集中治療室)の外に、談話スペースというか、ソファやテーブルが並べてある広いスペースに私たちは到着して、たしか、その談話スペースの見守り番をしていたスタッフの人に、てっちゃんがすでに運ばれてきているか問い合わせをしてもらったんだと思う。
B病院に運び込まれた時のように、搬送が済んだら一旦病室に案内されるのだと思って、S先生とそこで待っていた。


まただいぶ待った。


まだ着いていないわけがない、と思い、もうすでに手術が始まっているのか、それともまた何かが起こってしまっているのか、搬送の間に急変したとか…!?
…そんなことをまた引っ切り無しに考えてしまって、何度もCICUの入り口の前まで行っては戻り…を繰り返した。



しばらくして、先生がやってきて、搬送後そのまま手術室に直行して、ECMOでの補助を開始するためにカテーテルを挿入する手術を開始していることを教えてくれた。
その後のてっちゃんの治療には、主に2人の先生が主治医として関わってくださって、それ以外にも2人ほど、逐一報告に来てくれる先生がいた。


ECMOというのは、膜型人工肺と訳されるようで、単純に言うと、患者さんの肺に変わって血液に酸素を供給する役目を機械が担うというもの。
本当にホースの太さぐらいあるカテーテルを足の付け根から入れて、静脈血を一旦取り出してECMO内に送り、そこで酸素を送り込んだ血液をまた体内に戻す、それを治療中ひたすらてっちゃんの肺の代わりにやってくれる装置。

つまり、心臓はインペラで、肺はECMOで、人間の身体で最も重要とも言える部分を、てっちゃんは機械に頼らないと命を保てない状態にあったということ。
(私の認識が間違っていなければだけれど…)


手術にはどれぐらいの時間がかかるのかと、その先生に聞くと、特に何も問題なくうまく挿入できれば45分ぐらいだと思いますと言われた。
そのとき、たしか夜の20時ぐらいだったと思う。

もうすでに20時であることに驚きながら、でも1時間ぐらいで終わると思えば、今夜中には少し落ち着いててっちゃんのそばにいてあげられるかな……
そんなことを今思えば本当に安易にだけど、心の中で思っていた。



ここからの記憶は、その時リアルタイムで自分の姉兄とやりとりをしていたLINEの記録が少しあるから、時間の流れとかはそこを頼りに書こうと思う。

それによると、手術中に私は、てっちゃんの実家に少なくとも一回連絡を入れていたらしい。


S先生も結局朝からずっと付き添ってくれていた。
手術が終わって状況を主治医から聞くまでは一緒にいると言ってくれたので、お言葉に甘えた。


順調にいけば終わると言われた45分を過ぎても連絡は来ず、
1時間を過ぎても、
1時間半を過ぎても、
終わったともまだ終わってないとも、何も連絡が来なくて、でも何かあれば必ず話に来てくれるだろうし…と思って、とにかく我慢した。祈った。


結局手術が終わったと、報告を受けたのは22時を過ぎてからだった。
カテーテルを挿入した部分からの出血が少しあって、それの処置で少し時間がかかっていたとの説明だった。
落ちついたら病室に案内できるだろうと言われ、また一つ、てっちゃんの命の糸がつながったことに本当に心から安心した。

これで全身状態は保ちやすくなるはずだから、今夜とあと二晩ぐらいを通して、状態が落ちついてくればだいぶ安心できるというような話を受けて、なんとなく先が見えた気がして、まだまだこれからが大変なのはわかっていたけど、でも、


「どうかもうこれ以上の苦難がてっちゃんに降りかかりませんように。」


ただただ、そう祈った。

その日は病院を離れられる状況ではなさそうだったし、その談話スペースで見守り番をしている夜勤のスタッフの人がすごく親切にしてくれて、毛布や枕も貸してくれたので、そこに残ることにした。手術が終わったと聞いて、多少の安心はしたものの、それまでの状況がトラウマになっていたのか、もう心のコントロールはほとんどつかなくなっていた。
(というようなことがLINEのやりとりに書いてあった)


でも、結局そこから日付をまたぐ時間になっても、病室に案内してくれる気配はなく、てっちゃんが病室に戻っているのかも、結局どうなっているのかもわからない時間がさらに数時間続いた。



2017年1月14日土曜日

あの時のこと。1月18日。3つ目の病院で。その後。



てっちゃん、ずっと書けないでいてゴメンね。
ここから先の話は、私が書かなければ、てっちゃんも自分自身の身体に何が起きてたのかわからないもんね。

あれから1年が経とうとしていて、もしかしたら、本当に細かい部分はすでに私の記憶からも薄くなっているかもしれない。
でも、やっぱり忘れたくないことばっかりだから、できる限り書くね。自分でも驚くけど、私すごくいろんなことたくさん覚えてるから。

ここまでの話。
1月14~15日
1月16日
1月17日
1月18日①
1月18日②
1月18日③



2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)にて。




“とにかくてっちゃんの家に電話をしなきゃ。。。”


時差を計算して、日本が朝の5時だったか6時頃だったと思う。

早朝にこんな電話をしてしまって、ただでさえアメリカからの国際電話で驚くだろうに、こんな知らせをしなくちゃいけないなんて…。

本当に申し訳ない気持ちと、
こんな状況になる前にもっと早く現状を知らせる電話をするべきだったのではないかと後悔する気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、
でも、私が冷静に話をしてあげないともっともっと動揺させちゃう…。

そう思って深呼吸したのは覚えている。



どんな風に説明したかは覚えていないけど、
電話をとったお義父さんは私を責めたてることも、問いただすこともなく、

「すぐにそっちに向かう手配をするから」

と言ってくれて、

「志野ちゃん一人で不安だと思うけど、できるだけすぐ行くからよろしくね。すまないね。」

と、私の心配までしてくれた。



実家にも電話をした。

とにかく、また状況が変わったり何かわかればこちらから連絡する、

ということを両方の親に伝えて、一度電話を切った…んだと思う。



そのとき、その状況に対して、かなり不安だったことも、緊張していたことも、動揺していたこともたしかだったけど、でもそれでもまだ、どこまで大げさにとらえるべきことなのかがわかっていなくて、

「大丈夫だよね?大丈夫だよね?このままなんてありえないよね?」

と、自分の頭の中で何度も自分を説得したのを覚えている。
待合室で、勝手に溢れ出てくる涙を抑えながら、そう声を出していたのを覚えている。


病院の事務の人がやってきて、入院の手続きをしなければいけないから、時間があるときに1階まで来てほしいと言われた。
S先生の判断で、ここから少し治療に時間がかかるだろうということで、すぐに向かった。

院内を歩きながら、とにかく現状を頭の中で整理しようと、てっちゃんの身体に何が起こっているのかを理解しようと、わからないことを一つ一つS先生に質問した。



手続きにくるように声をかけに来てくれたスタッフの人も、事務のスタッフの人も、やらなきゃいけないことは形式的な処理のことだったけど、表情も言葉がけも、すごく私を思いやってくれて、励ましの言葉をかけてくれた。
相当に敏感になっていた私には、その温かさすらも支えになった。



必要な手続きを終えて、また待合室に戻った。

S先生の経験と知識で、その時病室内ではどんなことが行われている可能性があるのか、この先どんなふうになる可能性があるのかを、客観的に、でも希望も含めながら教えてもらった。


心電図の状態から判断して、挿管の処置をする時に心停止が起きてしまう可能性は高いということ、
でもインペラという装置を使えば回復の余地があること、
それはまだ日本ではほとんどだか全くだか使われていない技術だということ、
何よりてっちゃんは若いし、それまでの心肺機能は健康そのものだったんだから、回復力は絶対に高いということ……

いろんなことを話してくれた。

主治医にあたる先生のことをすぐにスマホで調べてくれて、この先生は優秀な人のようだし、あの人は信頼して大丈夫だ、と、
最悪の時でも、心移植という方法がなんとかあるはずだから、と、
日本でできなくてもこっちだったらできる治療もあるから、大丈夫、とにかく信じよう、と

たくさんのことを教えてもらった。



どれぐらい待ったか覚えていない。
短い時間ではなかった。長かった。


しばらく待っていたら、さっき会った主治医の先生とは違う先生が待合室まで来てくれて、少し話をしたいと言ってきた。

前置きとして何を話したかは覚えてない。
どんな英語を使っていたかも覚えてない。
全部聞き取れていたかもわからない。

ただ、

「今、中で必死に治療をしていますが、すでに心停止を何回か繰り返していて、心肺蘇生を続けています。ただ、心室のリアクションがあまりにも悪く、すごく厳しい状態です。最悪のことも考えてください。So sorry for that...so sorry...」


そんなふうに自分の頭の中で和訳したことはハッキリと覚えている。
そんな訳のわからないことを言う先生の顔がぼやけて感じて、
そもそもよくわからない英語だらけだけど、一言でも聞き逃しちゃいけないと思って働かない頭を必死に動かそうとして、でもやっぱり右から左に流れて行ってる感じがした。

「なんてことをこの先生は私に向かって話しているんだろう。てっちゃんがさっきまで喋ってたの見てないんじゃないの。え、この先生、もうあきらめてるわけ…?」


文句とか、怒りとか、何とかして助けてよ!と泣きつきたい気持ちとか、何でもいいから湧き出てくる気持ちをぶつけたかった。
でもできなかった。

でも、うなずくことも嫌だった。
その告知を受け入れる気はなかった。


S先生が、考えられる治療の方向性、手段について、率直に全部聞いてくれた。
ちょっと会話のやりとりをして、その先生はまたICUに戻った。
私の頭は完全にシャットダウンしていた、と思う。

突然訪れた、今までの人生で感じたことのない、ものすごい不安と緊張というか…身体の芯がガッチガチだった。
何を考えていたか覚えてない。


しばらくすると、今度は主治医の先生が来てくれた。
きっとICUの中はものすごい状況だろうに、先生は穏やかな表情をしているように感じた。


S先生と私は、簡単にてっちゃんとの関係性を説明して、先生の話を聞いた。

「今、彼は中で本当に必死にがんばっています。心停止と蘇生を何回か繰り返して、ただ心室がほとんど動いてくれず、かなり大変でした。そこで先ほどから、心室のポンプ機能をサポートできるようにインペラを使い始めました。それもなかなか反応がなくて困ったんですが、やっとついさっきから少しリアクションしてくれるようになりました。ただ、まだあまりにも不安定で、安心はできません。」

そう言われた。
少し反応がみえたと聞いて、ホッとしたのは一瞬で、その一言あとにはまたどん底に突き落とされた。

その先生はそこから改めて、ここ数日での彼の症状の変化や、今まで病気などしていなかったかなど、私を通しての問診をした。
ウィルスが原因で起きたことだとは思うが、まだ原因が特定できていないと聞いたのも、この時だった気がする。

(書き忘れてたけど、たしか「心筋炎」という言葉は2ヶ所目の病院でS先生が私に話してくれたんだと思う…ちょっと混乱。)


その上でこういった。


「今まで心肺機能に全く問題がなくて、且つ彼ぐらい若い年齢で、ここまで急激に増悪するのは、雷が人間に直接落ちるぐらいの確率でしか起こらないことです。とにかく不運としか言いようがないです。ただ、彼のように年齢が若ければ、当然高齢の患者さんに比べて回復力は大きいですし、今回のように症状の増悪がすごく速い場合は、その分回復するときにはその回復も速いという情報もあります。」


この言葉があったかなかったかで、私のその先少なくとも数時間の気持ちは全然違ったと思う。
その瞬間は少なくとも、てっちゃんがすごいスピードで回復して、また笑ってくれる姿しか想像しなかった。

てっちゃんはそんなに簡単に負けない。

本気でそう思った。


てっちゃんの両親が今アメリカに向かう手配をしているということを伝えたのと、今はまだてっちゃんに会えないのかを聞いた。
今はまだ無理、ときっぱり言われてしまった。
また随時報告にきますと、そう言ってまた中に戻ってしまった。

一緒に連れて行ってほしいという思いと、私のことはどうでもいいから早くてっちゃんの元に戻って全力で治療してください!という思いと、もうメチャクチャだった。


それ以降、何回か経過報告のために日本に連絡を入れたと思うけど、どのタイミングだったか覚えていない。


そこからまた、頭を整理するためにS先生にとにかく質問をぶつけて、何度も同じことを確認したりして、とにかく頭の中を冷静でいさせる努力をした。

先生が新たに教えてくれたのは、たぶんこの先、状態が最低限安定したら、ECMO(エクモ)という機器を使って、血液の酸素化をしないといけないと思うということ。
それがこの病院でできるか知らないけど、少なくともうちのC病院(てっちゃんが働いていた場所)ならあるから、きっと連携をとってくれるということだった。


S先生の奥さんが改めて駆けつけてくれて、私のことを気遣ってくれた。



またしばらくして、また違うチームメンバーらしき先生が来てくれた。

「インペラを使って、やっと少しバイタルが安定してきました。ただ、これからECMOでの治療を開始するためにC病院に移って手術が必要です。今まだ病室の中はかなりいろいろなものが置いてあって、必要の無いものを少し片づけているので、もう少ししたら中に入ってもらってご主人に会えますよ。」


そう教えてくれて、もうとにかく早くてっちゃんのところに行って

「本当によく頑張ったね、てっちゃん!!!!本当によく頑張った。近くにいるから大丈夫だからね!!!!!」

そう伝えたかった。

待っている間、さっきとは違う緊張を感じて、そこからが長かった。
「もう少し」という言葉を、そのままに受け取りすぎて、待っても待っても呼びに来ない気がして、

「また急変とかしてたらどうしよう…私に知らせに来るとかそれどころじゃなく、また中で大変なことが起こってたらどうしよう…」

一旦温まった心に、また一気にそんな想いが押し寄せてきた。





2017年1月6日金曜日

みんなの中でのてっちゃん



これを読んでくれている皆さんへ。



「てっちゃん昔こんなこと言ってたよ」

とか、

「あなたのことこんなふうに話してたよ」

とか、

「僕/私にとって、てっちゃんはこんな存在だったよ」

とか、

「あの時実はこんなだったらしいよ」

とか、

「てっちゃんってこんなところがあったよね」

とか…



皆さんの中に生きているてっちゃんの姿を教えてほしいんです。

もちろん、私が割り込むべきでない、皆さんとてっちゃんとの間で起こったことではなくていいので。


てっちゃんがこの世からいなくなっちゃって、
自分一人の人生を考えなきゃいけないっていう変えようのない現実があって、
だけどそれが嫌でもがいてもがいて、
こねられるだけの駄々をこねて一年間過ごしてきて、

でも、その中で、「てっちゃんは自分の中に生きている」ということを自分が心から思えるようになるように、今必死でその形を探しています。


皆さんからそんな言葉やエピソードを聞くことがどんなふうに働くかは、私自身もわからないけれど、やっぱり私は、もっともっとてっちゃんの事が知りたいし、そうすることで、自分の中にいるてっちゃんと対話ができる気がするんです。