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2016年6月29日水曜日

あの時のこと。1月18日。救急クリニックにて。




2016年1月18日、月曜日。




この日から、私たちの人生は様変わりした。


一瞬一瞬についていくのに必死だった。





救急外来の駐車場に着いた。


てっちゃんの腕を抱えながら、歩いて建物の中に入り、受付を済ませた。

Sさんから、大学病院の救急に行くより待ち時間も短いはずだからと言われていたが、

私たちの前に3人いると言われ、椅子に座って待つように指示された。


少し焦った様子を感じたのか、



「先生は二人いるから、うまくいけばそんなに時間はかからないと思うわ」



と教えてくれた。



病院に着いた安心感もあったのか、辛くなってきていたのか、

てっちゃんの口数は減ってきていた。一つ言っていたのは、



「気胸とかそう言う感じじゃないかな。外科的にさっさと診ちゃってほしいんだけど。」



ということだった。



てっちゃんの方が冷静だったのかもしれない。

その時点で、私にできることは、

てっちゃんの手を握って、ゆっくりしっかり呼吸するように促すことしかなかった。



30分ぐらい待たされたと思う。



名前を呼ばれ診察室に入ると、

てっちゃんは、診察室内にあった簡易ベッドに倒れこむように横になった。




正直私はビックリした。



てっちゃんがしんどそうだった。



1分前までのてっちゃんは、本当は相当耐えていたんだと、

その時のてっちゃんを見て私は改めて気づいた。




すぐに、看護師さんが血圧と血中酸素濃度を計りはじめてくれたので、

その間に、ここ数日の状況を必死に説明した。

そして、もう一つの衝撃が目に入った。





酸素飽和度……82%。。。。





えっ、ウソでしょ。





そう思った。



血圧もとれない。。。




低すぎるんだ。




経験があるというには少なすぎる経験だったけど、

でも働いていた頃に担当になった呼吸器の患者さんでも、

そこまで落ちることはなかったし、

(もちろんそこまで落とさないように管理はしているのだけど)

正直、さっきまでのてっちゃんを見ていて、そんなにも状態が悪いと全く思えていなかった。




私たちの想像以上のことが、てっちゃんの身体に起こっているということを


私はその瞬間に突き付けられた。




すぐに看護師さんが、規模の大きい病院への救急搬送の指示を出してくれ、

救急隊もかけつけてくれた。


一瞬の間に、状況が一変して、緊急事態にのまれ、私は一気に慌て、動転していた。




てっちゃんが働く大学病院(A病院)のすぐ隣にある、

もう一つの大きな病院(B病院)に行くのがいいのではと看護師さんに言われ、

私は言われるがままに指示に従うしかなかった。




「救急車に君は乗れないから、車で救急車についてくるか、病院で合流できるか?」




と救急隊員に言われ、指示に従った。


てっちゃんは、やっぱり横になっているのは苦しかったようで、身体を起こしていた。




「大丈夫だからね!!次の病院でちゃんと待ってるから。」



それだけ伝えて外に出ると、救急隊員から、




「B病院に行くよりC病院の方が近いけど、どうするか?

とりあえず一旦C病院に行って、状況をしっかり把握した方がいいかもしれない。」





そう言われた。




「C病院でいい。とにかく急ぎたいから。私は自分の車で救急車についていく。

でも病院の場所はわかるからはぐれても大丈夫。」



と返事をした。



てっちゃんのカバンと持っていた水分だけを抱え、自分の車に急いだ。



かなり気持ちが慌てはじめているのに気が付いて、大きく深呼吸をしたが、

車を出したときには、さっき「後ろをついていく」と救急隊員に言ったことが

すでに頭から飛んでいて、



“とにかく次の病院に急いで、てっちゃんが着いた時にいてあげなきゃ。”




と救急車がまだ発車準備をしているのを横目に、先にクリニックを出発していた。




朝電話をしたSさんの奥さんに電話をして、状況を話した。

S先生をC病院に行かせるようにする、と言ってくれたので、ひとまず電話を切った。




C病院までは救急のクリニックから車で5分ほどのところだった。

C病院のすぐ近くまで来て、自分が救急車より早く出てきてしまったことを思い出し、

救急車にも追い越されていないことに気づいた。



よく考えれば、救急車がわざわざ私の居場所を気にすることなんかないはずなのに、なぜか、



“私が後ろにつくのを待っていたらどうしよう。てっちゃんの治療が遅れる”



と思った私はクリニックに戻っていた。

結局、もちろん、救急車はすでに出ていて、もう一度C病院に着いた頃には、

てっちゃんはもう救急外来内の病室に運び込まれていた。


あの時のこと。1月17日。


2016年1月17日、日曜日。




この日あたりからのことは、もちろん覚えてるけど、少しずつ時間軸にずれがあるかもしれない。


朝にはたしか、てっちゃんの熱もほぼ微熱程度になっていて、

でも倦怠感が残っていたのもあり、

午前中は2人でベッドの上でゆっくりしていた。




もともと薬を飲むのが好きじゃなかったてっちゃんは、

熱が下がってきた時点で、解熱剤以外の薬を飲む気は全くなかった。


水が飲めずにゲータレードに変えて以来、多くはなかったけど水分は摂っていた。


ただ、相変わらずトイレの回数は少なかった。



何の危機感もなかった私たちは、熱が下がってきている時点で、

だいぶ回復傾向にあると思っていた。



普段から、土日もどちらか一日は、実験の調整や論文書きのために職場に行っていたので、

2日まるまる休まなくてはならなくなりそうで、少し悔しそうというか、困っていた。





腰が張ると言っていたのは、この日の昼頃だったかな…。

記憶があいまい。

金曜の夜から、ほとんどベッドで寝たままだったから、


「寝過ぎで身体がこわばっちゃったかな…」


なんて言いながら、


基本的には肩こりとか腰痛とか全くない人だったけど、

ここ1~2年は、首が疲れるなんてこともときどき言っていたし、

あまり深く考えずに、簡単にマッサージしてあげてみたり、

湿布を貼ってみたりして様子を見てみた。



食欲は相変わらずなくて、特に何も食べていなかったと思う。

というか、覚えているのは、てっちゃんが最後に食べたのはうどんだったな…と、

あとで病院で思ったことだから、つまりこの日は何も食べていなかったんだと思う。





夕方になって、ノソノソとベッドからリビングに出てきて、


「気管支にきちゃったかなー。」


と、気管支あたりに違和感があると言い出した。


咳をするわけでもなかったけど、

私もよく、風邪の終わりごろに気管支に症状が移ることがあったから、

そんな感じだろうと思っていた。



てっちゃんも、


「最近はあんまりなかったけど、昔はよく風邪の後に気管支やってたからな~。それかな~。」


と話していた。



今改めて考えてみると、

そこから、どれぐらいの時間をかけて、どれぐらい症状が変わっていってたのか、

はっきりしない。

本当に徐々に徐々に、という状況だった気もする。


てっちゃんが言っていたのは、



「なんかちょっと息が吸いにくい感じ。」



だった。


たぶん、

息が吸いにくいからと言って、呼吸数をあげすぎてもしんどいから、

という意識だったんだと思うけど、

その分意識的に息を吐いて、たくさん吸えるようにしている…

というかんじだった。



1月で部屋の中も乾きやすかったから、枕元に濡れタオルを置いて湿度を保つようにしてみたり…


温めた塗れタオルを口に当てて、乾燥による症状の悪化がないようにしてみたり…


数日前に何かのノリで2人で楽しんでいた足つぼマッサージを、ネットで調べ直して、


“胃腸”と“気管支”の部分を押してみたり……



それぞれ、効果も長持ちはしなかったけど、やってみると一時的にでも、




「ちょっといいかも。」


とか


「楽になったかも。」



とか言ってくれてたから、いろいろ試してみた。



てっちゃんも私も、もともと手足が冷えやすいタイプだったし、1月の寒い時期だったし、

あまり驚かなかったけど、でも足が冷たかったから、

私が自分で時々やる足湯を勧めてみたりもした。

(今考えたらこれも、心不全の兆候で全身の血流量が下がっていたんだろうな、とひたすら後悔)




たしか、そんなこんなをしていたのが、

夜の10時とか11時とかだったと思う。

ハッキリはしないけど…。




病院に行くことも考えた。


でも、日曜日の、しかも夜中…。




てっちゃんが働いていたのが大学病院ということもあり、

夜間救急で行くのは、その大学病院、という知識しか、正直私たちにはなかった。


日本でいう、いわゆる夜間診療をやっている町の診療所とか、個人のクリニックとか、

そういうものがあるのか、どこにあるのか、どんなシステムなのか、全く知らなかった。


そして何より、


「アメリカで夜間救急なんてかかったら、それだけで100万円ぐらいはとられるよ。」


という話を聞いていたこともあったし、

アメリカでの病院受診には相当の抵抗があった。



しかも、その時にはまだ、それが最悪な状況の前兆だなんて考えてもいなかったから、

大金を払う覚悟で行って、大した治療もされずに帰されるかも…

という気持ちも、抵抗感をあげていたのを覚えている。



てっちゃんの症状は相変わらず、ちょっとよくなってはまた戻り…を繰り返していた。





夜中の2時ぐらいになると、横になっている方が苦しくなって、

椅子に座っているか、立っていることが多くなった。

背中から腰のあたりをマッサージがてら、さすってあげると楽になるというので、

座っているときはひたすらそれを続けた。



気管支だけの問題じゃないんじゃないか…とは思ったけれど、


「心不全」


という言葉が頭に浮かばなかった。。。


何かおかしいと思ったけれど、そもそもの判断が足りてないことにも気づかなかったし、

それ以上に何かを考えることもできなかった。

今だから冷静に振り返ることができるからかもしれないけれど、

まさかてっちゃんの身にそんなことが起こるなんて思っていなかったからかもしれないけど、



本当に情けない。






夜中3時過ぎだったと思う。


てっちゃんが、


「寒いし、やっぱり湿度が必要な気がするから、お風呂ためてつかってみるわ。」


と、言い出して、お風呂に入った。


その間、私はベッドで少しウトウトしていた。


少し経ってあがってきたてっちゃんは、



「気持ちは良かったけど、やっぱりあんまりよくならないわ。」



と、少ししんどくなってきたようだった。


だんだん危機感が強くなってきた私は、

何も具体的な対策が取れなかったので、

ネットで心当たる疾患を調べていくことしか、もはやできなかった。




「朝になっても変わらなかったら、やっぱり病院に行こうか」




と2人で話した。




「朝になったら、S先生に電話して、この状況で大学病院の救急に行くのがいいか聞いてみよう」



と。



S先生は、日本人のDrで、アメリカでの臨床勤務歴も長く、

普段から本当にお世話になっていたし、

何か困ったことがあったときには、前からいろいろ助けてもらっていた。




朝まで待ってみたけど、やっぱり状況は変わらなかったから、

早朝ではあったが、失礼を承知でS先生に電話をした。



電話で、簡単に金曜の夜からの状況を説明している間に、

ベッドに横になっていたてっちゃんが、慌てた様子で飛び起きて、口を押さえているので、



「あ、戻しそうなんだ」



と瞬間的に思って、すぐ近くの洗面所にあったバケツを電話しながら渡した。


まる一日以上何も食べていなかったし、摂っていた水分量も減っていたので、

胃液以外何も出なかったが、



「ちょっとスッキリしたかも。」



と、呼吸も一時的に楽になったような顔を見せた。



結局、アメリカには救急外来だけを受け付けるクリニックのような施設があることを、

S先生に教えてもらい、近くにある場所を検索したら、車で5分のところにあった。



クリニックに行った先で、状況を英語で説明できるか?と心配してもらったが、



「とりあえず2人で行ってみて、困ったり何かあったらまた連絡します。」



とだけ話して、すぐに必要なものだけ持って出発した。



出かける直前に、なぜか直感的に、てっちゃんの脈をとった。

うまく脈がとれず、「あれ?」と思ったが、少し慌てはじめていたのもあり、

あまり深く考えずにとにかく家を出た。



てっちゃんは苦しそうではあったが、

相変わらず深めの呼吸を意識しながら自分のペースで呼吸していて、

自分で上着を着て、歩いて駐車場に向かっていた。




シートベルトが身体を締め付ける感じが嫌そうではあったが、

きれいに晴れた空を見て、



「久しぶりに外出た感じだわー。太陽が眩しい。」



と簡単な会話はしていた。




行った先で、どんなことが待っているのか、

少し慌てはじめている(救急受診に緊張している)自分も感じていたけど、

でもてっちゃんを支えなきゃと思って、多少冷静を装った。




2016年6月25日土曜日

てっちゃん、この曲好きかな…。


宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」



宇多田ヒカルは、てっちゃんが好きだった歌手の一人。

一番好きだったのはアルバム曲の



「DISTANCE」



だって言ってた。


歌詞の意味とかにはあまりこだわらないタイプで、

メロディとか声とかリズムとか、そういうのが好きだったみたい。



音楽の趣味と映画の趣味は、全然合わない私たちだったけど、

結婚式で流すBGMは、全然もめずに決めることができた。


アメリカで結婚生活を始めてからは特に、

好みが合わないものに関しても、てっちゃんはいつも、



「しのが好きな方でいいよ」



って言ってくれた。


車の中で聞く音楽も、一緒に乗っている限りは私の好きな曲。


それで私がノリノリに歌ったり踊ったりしているのを見るのが楽しい、


そう言ってくれる最高に優しい人だった。



バラード系の曲にはあまり興味がなかったみたいだから、

この曲もてっちゃんが聞いたら、


「う~ん」


って言うのかなとも思うけど、


でも、今の私の気持ちにはすごく近い。



「…今あなたに聞きたいことがいっぱい…」



…ホント、てっちゃんに聞きたいことがいっぱいだよ。



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夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまで鮮明だった世界 もう幻

汗ばんだ私をそっと抱き寄せて
揺れる若葉に手を伸ばし
たくさんの初めてを深く刻んだ


あなたに思い馳せる時
いつになったら悲しくなくなる
教えてほしい


今日私は一人じゃないし
それなりに幸せで
これでいいんだと言い聞かせてるけど


勝てぬ戦に息切らし
あなたに身を焦がした日々
忘れちゃったら私じゃなくなる
教えて 正しいサヨナラの仕方を


誰かに手を伸ばし
あなたに思い馳せる時
今あなたに聞きたいことがいっぱい
溢れて 溢れて


木々が芽吹く 月日巡る
変わらない気持ちを伝えたい
自由になる自由がある
立ち尽くす 見送りびとの影


思い出たちがふいに私を
乱暴に掴んで離さない
愛してます 尚も深く
降り止まぬ 真夏の通り雨


夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまであなたがいた未来
たずねて 明日へ

ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない渇き
降り止まぬ 真夏の通り雨


夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまであなたがいた未来
たずねて 明日へ


ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない渇き



*I quoted this translation from someone's page on the internet.(英訳はネット上に出ていたものを引っぱってきました)

I wake up halfway through dream
And I can't return even if I close my eyes
A lucid world I saw just now, is already a phantom
I got sweaty all over my bodyand you gently embrace meYou were the one who deeply engravedso many first experiences into my heart I reach out my hand to those swaying new leaves
Time when I entrust my feelings to youPlease tell me
when will I no longer feel sad about that? 
I'm not alone todayI feel happy like thisI'm fine this wayI say that to convince myself, 
but My breath runs out in this battle I can't win I feel like I would no longer be myselfif I ended up forgetting all the days when I was yearning for your love Please tell me the proper way to bid farewell to you 
Someone reaches out their hand to meTime when I entrust my feelings to youRight now, there are so many questionsI want to ask you,They keep spilling and overflowing
Trees start to bud, time passesI want to convey my never changing feelingsFreedom is here in order to be free Those shadows of people who seeing someone departs are standing 
Suddenly, memories violently grasp meand won't let me go I'm loving you, fall even deeply in love with youThe unceasing rain shower of midsummer 
 I wake up halfway through dreamAnd I can't return even if I close my eyes A future
where you were there just now,I'll search for it to the tomorrow 
In the midst of never-ever ceasing rainMy thirst will never-ever be quenched The unceasing rain shower of midsummer 
I wake up halfway through dreamAnd I can't return even if I close my eyes A future
where you were there just now,I'll search for it to the tomorrow  
In the midst of never-ever ceasing rain My thirst will never-ever be quenched

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2016年6月21日火曜日

5ヶ月が経った。


5ヶ月もの時間が経ってしまった。。。

5ヶ月。。。


てっちゃんと結婚式をあげたのが、
去年の8月22日。


それからてっちゃんがいなくなっちゃったあの日まで、二人で最高に楽しい時間を過ごした時間よりも、一人でいる時間のほうが長くなっちゃった。


こうやって、私は一人で、

てっちゃんのいない世界で、

一日一日をまだ生きなきゃいけなくて、

一緒に暮らした時間よりも長く、

入籍して同じ姓を名乗って過ごした時間よりも長く、

一緒に寝た回数よりも多く、

てっちゃんと思い合って過ごしたあの10年より長く、

きっと生きなきゃいけないんだ。



昨日夢に出てきてくれたおかげで、

てっちゃんを感じれたおかげで、

精神的にはそれなりに落ち着いて過ごせた一日だったのに、

結局こんなことを考えて一日を終える。



このまま一気に年とっちゃえばいいのに…

そしたら、少しでも早くてっちゃんにあえるかもしれないのに。

って、心から思う。



おやすみ、てっちゃん。

明日は大雨なんだって。大雨につられて気持ちもどしゃ降りになりませんように、ちゃんと近くにいてよね。



2016年6月20日月曜日

早く寝ないと…



考えれば考えるほど怖い。

振り返れば振り返るほど、罪の意識にはまっていく。

調べれば調べるほど、あの時の症状はやっぱり見逃してはならないものだったんだと思えてくる。

たかが3年半とはいえ、医療の現場で働いていた自分なのに、自分の旦那の具合が悪い時に、役に立つ頭が何もなかった自分が恐ろしく、みっともなく、情けないとしか言いようがない。


でも、考えることも振り返ることもやめることが出来ない。


誰か、誰かお願いだから、てっちゃんを呼んできてください。
誰でもいいから、私をてっちゃんの所に少しの間だけ連れて行ってください。


てっちゃんがいなくなって2ヶ月ぐらいの頃にもよく思っていたけれど、
最近また心から思う。


もうそろそろ本当に、てっちゃんに会えないこの生活が限界。


遠距離は3年ぐらいしてたけど、でも4ヶ月毎ぐらいには会ってたから…。


寝る前の寂しさも、朝起きた時の虚しさも、遺影を眺めるのも、もう一人で十分やったよ。

そろそろもういいよ。



2016年6月16日木曜日

歌詞の力を借りてみる。



自分の気持ち、感情、今の状況、死別のこと、

自分なりに理解しようと思って、本を読んでみたり、テレビを見てみたりしている。


歌を聴くこともその一つ。


聞きながら涙が溢れてくることもわかっていながら、

でも、うまく言葉にならない自分の気持ちを代弁してくれてる気がして、心がスッとしたりもする。


そんな歌詞を書き留めておくのも一つかな。

他にもたくさんあるので、少しずつ書き出していこうかな。




お姉ちゃんが、自分も聞きながら涙してる、と教えてくれた歌。




平井堅の「アイシテル」




聞いたことはあったけど、今の気持ちそのまま。






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ねぇどこにいるの?
君の声を聞かせてよ
届かない願いでも
僕は叫び続ける 愛してる


ねぇ 聞こえてるの
僕の声が 僕の歌が
こぼれない涙でも
体中が泣いてる


出会った日
僕の目に映る君は
愛のカタチをしてた


この胸がちぎれて
心えぐり取られ
それでもいい 抱きしめたい
髪に指に頬に まつ毛に唇に
もう一度だけ 触れていたい
この手は君を抱きしめる為だけに
きっとあるから


ねぇ たとえ君が
色を失くし 夢になっても
忘れない 消せはしない
体中に刻んだ


重ねた日
「アイシテル」と動いた
唇を追いかけて


この夢がちぎれて 愛を奪いとられ
それでもいい 抱きしめたい
壊れた微笑を 触れぬ唇を
取り戻してあたためたい
こぼれる君を受け止める永遠に
綺麗なままで


「アイシテル」と言って「愛してる」と言って
もう一度だけ 抱きしめたい
髪に指に頬に まつ毛に唇に
もう一度だけ 触れていたい
この手は君を抱きしめる為だけに
きっとあるから


ねえ どこにいても
君の声は聞こえてるよ
届くまで叶うまで 僕は叫び続ける
愛してる

*****************************************************************

2016年6月15日水曜日

絶望…それ以外やっぱりわからない。


あの時のこと、少しずつ思い出しながら書き出してみてるけど、ちょっと息がもたない。


書きながら、振り返りながら、またいろいろな想いが頭を巡る。


友達にも、親にも言われた。



「志野は頭で先にどんどん考えちゃうから。」



自分を肯定しようとする気持ち。


責める気持ち。


でも、やっぱりあの時の自分はあれで精一杯だったのが全て。


でも、私の目の前で、私の大好きな人が、一番大切な人がいなくなってしまって、

そこに「やりきれなかった」想いがあると、それが膨らんで膨らんで、

自分がてっちゃんを見殺しにしてしまったんじゃないかとすら思う。


なんであそこまで我慢したの、とてっちゃんを責める。


でも、その我慢だって私がさせたんじゃないかと思う。


こんな全てを自分の中で処理するなんて無理だよ、と誰かに怒りたい。


目の前にあるものを全て、何かに投げつけてやりたい。


こんな中でも動いていく世の中すべてが憎たらしい。


みんなそれぞれの人生があって、みんなそれぞれが悩みや苦しみを抱えている、

それはわかるけど、今はそれを自分の力に変えることができない。




身体が重いけど軽い、軽いけど重い。


頭はパンパン。


ときどき、自分が動いていること自体不思議に感じることがある。

あんなに何ともなかったてっちゃんが、たった数日で動くこともしゃべることも

何もできなくなっちゃった姿を目の前で見たからかな。


私が独りぼっちになってしまった寂しさももちろんすごく強いけれど、

てっちゃんを独りにさせてしまったということもすごく苦しい。

天国でおじいちゃんに逢えてると、あっちの世界を楽しんでると、思おうとする自分もいるけれど、

もしかしたら毎日こっちの世界を必死で呼んでるかもしれない。




てっちゃんと一緒に、てっちゃんと相談しながら、

2人の人生を歩んでいくと決めたばかりだったから、

それが楽しいと実感している真っ最中だったから、

急に一人で決めなさいと言われたって無理。



てっちゃんと話すこと、

てっちゃんとご飯を食べること、

てっちゃんと一緒に寝ること、

てっちゃんと一緒に出掛けること、

てっちゃんの奥さんでいること、

てっちゃんとの間に子供を作ること、

てっちゃんと一緒に子供を育てること、

てっちゃんと一緒に歳をとっていくこと、



それが楽しみで楽しみで仕方なかったから、その全てを突然絶たれたら、私には何もない。


その想いはきっとてっちゃんも一緒のはずだと思うと、絶望以外の何物でもない。



2016年6月14日火曜日

あの時のこと。1月16日。


2016年1月16日、土曜日。



夜からの熱が上がったり下がったりしていたけど、それでも38℃台だった。

発熱以外に、咳や鼻水などの症状は全くないと言っていいほどなかった。



午前中は良く寝ていたが、この日は、食欲が前の日よりなかったみたいで、


食べたいものを聞いても、最初は


「う~ん…」


という感じだったが、結局温かいうどんなら食べたいということになった。


てっちゃんは、無類のそうめん好きで、そうめんは日本から大量に持って帰ってきて

よく食べていた。だけど、温かいにゅう麺は好きじゃなかった。




近くのスーパーにうどんを買いに行き、お昼に食べさせた。

所詮、アメリカのスーパーに売ってるうどんで、おいしくはなかったけど、

1人前弱は食べてたと思う。



ただ、そのあたりから水を飲むのを少し嫌がるようになった。

トイレの回数も減っていた気がした。

前の夜から、汗もたくさんかいていたし、水だけはしっかり飲んでと言い続けていた。





結局、夕方になって、



「おなかに水が溜まっちゃってる感じがして気持ち悪い。ちょっと吐いてくるわ」



と言い出した。


昔から、お酒を飲み過ぎた時とか、気持ち悪い時は、

我慢するより意図的に出すことに抵抗はなかったタイプだった。


トイレから出てきたら、



「スッキリした。水(を飲む)はダメかも。ポカリがあったらいいのに…。」



と言っていた。


もどしてしまったこと自体は勿論心配だったけど、

前日のゾクゾク感とか、熱が高くて辛い、という様子はなくなってきていたので、

早く良くならないかな~と、

その週末が看病で終わってしまうのかと残念にすら、その時はまだ思っていたと思う。





アメリカでポカリっぽいもの。。。。と考えると、ゲータレードぐらいしか思いつかなかったが、

それも、真っピンクや黄緑の着色料たっぷりの甘いものしかないイメージだったので、

あまり飲ませたくなかった。


でも、脱水よりはマシか…と思って、またスーパーに戻った。


レモン味とか、ライム味とか、まだ比較的スッキリ感の強そうなものを選んで帰った。



「これなら飲めそう!」



と、気分が違ったようだったので、できるだけ水分は摂るように、変わらず促した。


熱もだんだん下がってきていて、

相変わらず横になったままゲームをしたり、

少し眠ってみたり、

たまに私とのお喋りに付き合ってくれたり、


そんなカンジだったと思う。



私はと言えば、もともと金曜にでも作ろうと思っていた餃子の材料があったので、

冷凍しておいて元気になったら食べてもらおうと思って、

餃子作りをしていた。


ベッドの上からも、キッチンの様子は見える角度だったので、

てっちゃんも私がせっせと作っているのに気づいたらしく、


「あぁ~餃子食べたかった~」


と、食欲はないのに言ってくれたので、


「元気になったらたくさん食べてね~」


と、キッチンと寝室の距離で話していた。



結局、その餃子を食べてもらうことはできなかった。

今まで以上に想いを込めて作ったのに、てっちゃんに手料理を食べてもらうことはできなくなった。




その日は、結局食欲が戻らず、でも夜遅めの時間になって、


「でもやっぱり少しだけ、またうどん食べようかな」


と言ってくれたので、少し味を変えて食べてもらった。


昼ほどは食べられなかったけど、食後に少しアイスを食べたりもして、

普段はほとんど甘いものも食べないてっちゃんだったけど、


「風邪の時のアイスっていいね。」


なんて言っていた。


「でしょ~?それが私の場合は、風邪のときに限らずなのよ~」


なんて冗談も言っていた。


パソコンでメールやFacebookをチェックしたり、ネットニュースを見たりして、気分転換していた。



だるさは残っていたみたいだったけど、熱の振れ幅も減ってきていたし、

連休中にはよくなってくれるかな…と見込んでいた。



てっちゃんの隣を離れない私を見て、



「これで、もしこれがインフルで、志野に移っちゃったら、次はちゃんと僕が看病してあげるからね。今だけゴメンねー。」



なんて、優しい言葉をかけてくれた。


その日も夜~夜中は寝たり起きたりだったけど、

次の日午前中はゆっくり眠れたようで、一緒にベッドの上で休んでいた。





2016年6月10日金曜日

あの時のこと。1月14日~1月15日。


このブログを始めた大きな目的の一つ。



あの日、あの時のこと、ちゃんともう一回、書き留めていかなくちゃいけないと思う。



てっちゃんの具合が悪くなってから、この世を去ってしまうその瞬間まで、

その全てを見ていたのは、


この世に私一人しかいない。


てっちゃん自身だって、挿管されてからの記憶はない。

というか、本人がどこまで憶えているのか、私は知ることができない。



本当に本当に悔しいことに、

本当に本当に申し訳ないことに、

本当に本当に一生かかっても後悔と自責の念は拭えないけれど、

てっちゃんの両親、お姉さん、お兄さんが近くにいられない状況で起きてしまったこの事実。



思い出せば出すほどに、自分を責める気持ち、悔やむ気持ち、怒り、空しさ、情けなさが

溢れてくるけれど、あの時のことは絶対に忘れちゃいけないし、


てっちゃんの大切な人たちに、ちゃんと伝える責任がある。


家族のみんなには、友達のみんなには、知っててもらう権利がある。


てっちゃんの家族にも、今まで、その時その時で伝えてきたつもりだけれど、

正直、どこまで、何を、伝えられたか覚えていない。


だから、もう一回ここに書き留めていこう。





てっちゃんのお父さん、お母さん、お姉さん、お兄さん、

親戚の皆さん、友達の皆さん、お世話になった皆さん、


ちゃんと伝えられていなかったことがあったらごめんなさい。


てっちゃんを守ってあげられなくて本当にごめんなさい。




てっちゃん、力足らずの私で本当にごめんね。


てっちゃんが、私の目の前からいなくなってしまう日が、こんなにも早く来るなんて、

どうやったって考えたことなくて、そりゃ考えるわけもないんだけど、


てっちゃんの身体のことも、

世の中に起こりうる病気のことも、

身体に関する自分の知識も、


とにかくすべてをなめていたんだ、私は。



てっちゃんの声や想いを聞くことはもうできないけれど、

私があの時どんな風に思っていたかだけでも、これを読んで知っててもらえるかな。

そして、いつか、いつかでいいから、てっちゃんが何をどこまで感じていたのか教えてほしい。






2016年1月14日木曜日、夜。


たしかその日は、てっちゃんは普段通り19時まで仕事をして、私がいつも通り大学まで車で迎えに行った。

車生活の毎日だったけど、一台しかなかったから、毎日送り迎えをしていた。


帰ってきて一緒にご飯を食べて、でも少し風邪っぽいかもというので、早めに寝るように言った。

夕飯は、いつもとほとんど変わらず、それなりに食べてくれていたと思う。




2016年1月15日金曜日。


朝、まだ身体のだるさが残っていたみたいで、

「熱が出そうな感じ」

と言いつつ、でも仕事を休むほどじゃないと思ったのか、朝仕事に向かった。

そんなふうにいうことは、今までもときどきあった。

1年前ぐらいから、仕事がどんどん楽しくなっていたようで、期待される部分も大きくなったし、

やりがいをたくさん感じていたし、(もともとだけど)ちょっとの風邪ぐらいじゃ休むこともなかった。


お弁当もいつも通りもたせた。ただ、心配だったから、別れ際に


「しんどかったら、今日はいつもより早く切り上げておいで。(ベビー)シッターが終わった足で迎えに来られるから」


とだけ言っておいた。


私は、アメリカに行ってから、英語学校に通いながら、

ベビーシッターや日本語の家庭教師の仕事を少しさせてもらっていた。

その日も、午後に一件シッターの仕事が入っていた。


お昼過ぎ、心配で、


「調子どう?早めに帰ってきたら?」


とメールを送ると、


「あんまりよくなさそう。お弁当も残しちゃった。」


そして、夕方近くになって、


「やっぱり今日は早めに迎えに来てもらえる?」



と返ってきた。


17時半頃迎えに行って、帰ってくると微熱。

おじやを作ったら、「美味しい」と言って、思った以上に食べてくれた。


その後、すぐベッドに入ったけど、夜、熱があがってきて、38.2℃まであがった。

薬は普段なかなか飲みたがらなかったけど、しんどいだろうと思って、解熱剤を勧めて、

簡易的に作った氷枕を気持ちいいと思うところにあてさせた。


仕事を休むのが嫌いな人だったから、2人で、


「今日が金曜で良かったね。週末ゆっくり休んで治さないとね。」


と話していた。

その週末明けの月曜日、アメリカは祝日だったため、そこから三連休の予定だった。

ただの風邪だと思っていた。


少しすると解熱剤が効いて、熱は下がり、てっちゃんも熟睡。


その後、上がったり下がったりを2回ぐらい朝まで繰り返した。


1月という、時期も時期だったし、


「インフルじゃないといいけどね~。38℃台だし大丈夫かな~。」


なんて、適当な話をのんきにしていた。


汗もたくさんかいていたから、面倒くさがるてっちゃんを無理やり着替えさせたり、

そんなことをしながら、夜を過ごした。

薬が効いて楽に感じた時は、携帯でゲームをしたりもしていた。



2016年6月8日水曜日

頭の中のグルグルを書いてみようかと思う。


ブログを始めてみることにした。


てっちゃんがいなくなっちゃって、もうすぐ5ヶ月。

最初の一ヶ月は、帰国の準備、葬儀の準備、そして葬儀、死因究明のためにアメリカとのやりとり、自分自身の検査、その他の事務的な手続き…

それが済んだと思ったら四十九日。

そしてまたアメリカに戻り、家の片付け、車の売却、確定申告の手続き、その他とにかくいろいろ、お世話になった方々への挨拶…



やらなきゃいけないことをやっていたら3ヶ月過ぎていた。


今考えてみると、良く動いたと思う、自分でも。
というか、そう自分を褒めたくなる程、逆に今は脱力感というか、何もしたくないし出来る自信がない。

いや、今だって、やらなきゃいけないこととか、やれと言われることがあればやっているのだけど。。。


頭の中を巡ることも変わったような変わっていないような…

さすがに直後は食欲もなかったし、体重も減った。
外を歩くのもふらついていた。歳をとって歩くのが遅くなった母親のペースについていくのも必死だった。


今は食べられる。急いでいれば早く歩くことだってできる。

でも、前よりずっと苦しい気もする。

心と身体がお互いどこを向いているのか全然わからない。

いや、わかっているというか見えているんだけど、苦しい。



とにかく、グルグルしている。

頭の中も

体調の変化も

気分も

他人へのうらめしさも

てっちゃんへの想いも


とにかく全部グルグル。


だから、ここに書き出してみる。


順序もまとまりも、何もないけど、


この5ヶ月思ってきたこと、

今思っていること、

あの時のてっちゃんのこと、

今までの私たちのこと、

これから描いていた私たちのこと、



とにかく書き出してみます。


グルグルしているけど、それでもわかっていることは二つ。



この現実は変えようがないこと

そして、

私はそれでも生きなきゃいけないこと



一番変えたいこと、やりたくないことだけど、それでもどうしようもないことなのはわかっている。



ここに書くことで、私が何を想っているかをわかってもらえたらいいなと思うし、

てっちゃんがどれだけがんばったのかをもっと知ってもらえたらいいと思うし、

私たちがどれだけ想いあっていたかも知ってほしい。



でも逆に、その中には、私が嫌だと感じたこと、苦しいと感じた出来事、私が勝手に感じている世の中への不満……

良いことばかりじゃない思いも書いてしまうと思う。



「結局この悲しみは本人にしか分かりえない」



という意味も身をもって感じてるから、世の中にも、時には周りの人たちにでさえ、諦めの心を抱いてしまう自分がいる。

本当に情けない。



ただ、私はまだみんなからの助けが必要です。


でも、いろいろアドバイスをもらっても、今は受け入れられない。


だから、ただこう言ってください。



「ずっと想っているよ」



それは、私のことだけでなく、てっちゃんのことも。



てっちゃん……

てっちゃんがもう一度私の前に現れて、私のことを抱きしめて、あの時何を想っていたのか、それを教えてくれさえすれば、それでいいのに。
ついこの前まで毎日していてくれたことを、もう一回してくれればいいだけなのに、
なんでそれが一番できないことなんだろうね。

てっちゃんのこと、みんなにたくさん話してしまうけど、許してね。
私がそっちに行ったとき、いくら怒ってもいいから。