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2017年4月29日土曜日

納得いかない




誰かからの言葉に対してとかでも何でもなく、
自分の心をただ吐き出します。





てっちゃんの存在をふとしたときに感じる
とか、

てっちゃんは心の中で生き続けてる
とか、

てっちゃんはいつでも近くで見守ってる
とか、


私だってそう思うことも実際ある。
そんな風に実際に感じることだってある。

そう思って生きていくことが、てっちゃんのためなんだって、

そう思って生きていかないと、てっちゃんもかわいそうだって、


そう思う人がいても当然だと思う。
私だってそう思ってないわけじゃない。




だけど、やっぱりどうしても納得がいかない。

てっちゃんがそんな存在になっちゃったことが、どうしても納得がいかない。


私にとって(当然みんなにとっても同じだと思うけど)、てっちゃんは、

ふとしたときに存在を「感じる」相手じゃなくて、

「心の中」で生きる人じゃなくて、

近くで「見守ってる」人じゃなくて、



「実際に」「一緒に」生活をして、
「お互いに」言葉を交わし合って、
「直接」手を取り合って、
「同じ世界」で生きていく人


なんだよ。


てっちゃんは、やっぱり、てっちゃんっていう「人間」でしかない。


てっちゃんの「声」が「直接」聞けないのに、てっちゃんが考えてることなんて、勝手に考えられないよ。


だって、てっちゃんの考えが聞きたかったら、「直接」会話して、返事をもらってたから。


てっちゃんはもうこの世にいないからって、てっちゃんがこんなふうに言う“だろう”なんて、
それを自分の支えにしていくことなんて、

そんなに簡単にできないよ。


それができたら少しは気持ちも変わるかもって、


前向きに過ごしてみたら、てっちゃんも喜ぶかもしれないって、


そう思って少し自分なりに試してみたけど、


そんなに簡単にできないし、


てっちゃんからは返事がない……



みんなはどうやって、心を抑えてるんですか。
みんなはどうやって、その悲しみと向き合ってるんですか。


てっちゃん、どうやって生きていけばいい?


2017年4月27日木曜日

止まったまま。変わらないもの。





“遺族は、大切な人を亡くした瞬間で時間が止まってしまったように感じている。

実際には、止まったのは亡くなったその人の時間だが、

遺族にとっても「その人とともに生きる時間」が死とともに止まったのだ。

それは、もう二度と動き出さない。

だからせめて、生きている時から連続している何かが1つでも続いていてほしい。

消えてほしくない。

心のどこかで、無意識にでもそう願っている。”





私と同じように旦那さんを亡くした方の言葉。




また少し停滞気味の自分の心。

昔のグルグルとは違う。

でもやっぱりそこにある変わらない闇。

吐きだし方も、よくわからなくなってしまった。

だから、「そうそう、わかるわかる、それです。」と思える言葉を借りてみる。


2017年4月20日木曜日

再訪




一周忌を終えて、しばらくしたタイミングで、
この一年、ずっと心の中にあったものを確認する旅に行ってみた。



チャールストンに……。


あの場所、あの空気、あの景色…

向こうで出会った友達、

向こうで築き上げた自分たちの生活、

向こうで作ったてっちゃんとのたくさんの思い出、

何とも言えない居心地の良さ…



いろいろなものが、一年経っても自分の中にあまりに強く残っていて、

でも、ちょっと前までは、その想いの強さだけを理由に戻ったら、
寂しさや現実にまた打ちのめされてしまいそうで、

自分を無理やり「もう少し待て」って言い聞かせてた。


どこかで、てっちゃんはまだあっちにいるって思ってた。

二人で幸せに過ごしたあの場所の、あの感覚は、
あっちに戻ればまた得られるんじゃないかって、どこかで思ってた。

最後の望みのような部分もあった。

でも、それはあり得ないこともわかってた。



たぶん(というか絶対なんだけど)、

もう一度あそこに戻って、てっちゃんがやっぱりいなかったら、

てっちゃんがこの世を去ったことはやっぱり事実なんだと、

どんなにもがいても、どこに行っても、誰に聞いても、

それがやっぱり覆らないんだってことを、

理解せざるを得なくなるだろうと思った。



だから、向こうに行って、
その現実を身をもって改めて感じたとしても、
またどん底に突き落とされずに、耐えられるだけの覚悟ができてから行こうって決めた。

あんなことがあってもまだ、
自分の中に強烈な魅力を残すあの場所を、
ただただ悲しみに満ちた場所に変えてしまわないように、
自分の心の踏ん張りが、少し効くようになったと思ったら行こうって決めてた。



逆に、もし、そんな現実の中でも、

てっちゃんがいない空間でも、

てっちゃんとの思い出がいっぱい詰まった場所でも、

それを自分の胸にしまいながら、一緒に抱きかかえながら、

やっぱりそこで生きていきたいと思ったとしたら、

そこが私の居場所なんだと、そういうことなんじゃないかと思った。



まぁ、実際は、
そんなに難しく考えずに、感じたものを色付けせずに、できるだけそのまま自分に取り込んでくればいい、
その後のことは、その後考えようと、
そう思って旅をスタートした。




てっちゃんのために植えてもらった記念樹を訪ねたり、

親しい友人やお世話になった人たちに会いに行ったり、

てっちゃんと行っていた場所を回ってみたり、

泊めてもらった友達の家の庭で、ただただ自然に包まれて本を読んでみたり、

サイクリングに行ってみたり、ボートに乗せてもらったり、

てっちゃんが好きだったものを料理して、月命日やてっちゃんの誕生日を過ごしてみたり、

友達と毎晩のように語り合ったり、

てっちゃんが亡くなったのとほぼ同時期に、ご主人を亡くしたという女性と話をさせてもらったり、

アメリカ(ほとんどの友達はクリスチャン)の人たちの「死」に対する考え方を、いろんな人に質問してみたり、

友達の行ってる教会の礼拝に参加させてもらったり……



できるだけシンプルでいようと思ったけど、
景色一つをとっても、友達との話を通しても、何をやっても、
感じるものがものすごくあって、
自分に取り入れて整理するなんて、その場では全然できなかった。


てっちゃんがいないことを感じる度に、
自分の身体の周りにある、分厚い、目に見えない圧力が、グーーッと自分を押しつぶしてくる感覚があって、
身体が薄っぺらくなったような感覚になって、
視界がというより、身体の中がモノクロになったように感じた。


でも、そんなとき、
ボーッとしている自分の頬を叩くかのように、
目の前にある自然の大きさや明るさを思いっきり感じて、
大きく大きく深呼吸をして、チャールストンの空気をたくさん吸い込んで、
空を見つめてみると、

そのガチガチに張ってた圧力の壁が、少し緩まるような、
心の奥底に落ちかけた、“絶望”の塊が、ひゅーってまた外に出てくるような、

そんな力を感じた。


また違うタイミングでは、
なんというか、心の中の真っ暗闇が、真っ黒というより灰色に近くなって、
それぐらいならそのままでも、自分の中に抱えていけるんじゃないかと思ったりもした。





結果、


てっちゃんはやっぱり見つけられなかった。


大好きだった風景も、

研究室のてっちゃんのデスクも、

あの時のまま、そこに残っていたのに、

やっぱりてっちゃんだけはいなかった。

手を繋ぐその手がなかった。




でも、辛いだけじゃなかった。


悲しかったし淋しかったし、

自分が情けなくなったり、

やっぱりたくさん泣いたけど、

癒やされたり、パワーをもらったり、

これからのヒントをもらったり、

少し勇気が持てたり。



旅を終えて帰ってきて、
そしたら今度はそれが現実として襲いかかってきて、
ちょっとパニックになった。

向こうに行く前に不安に思っていたものが、
行ったときじゃなくて帰ってきたときに起こって、
冷静になるのに少し時間がかかった。



今後どうしていくかは、もう少し考える。


チャールストンが好きで、
あの場所が自分にとっては特別で、
向こうにも大切な友達がたくさんいる。

それは、てっちゃんがいなくなっちゃった今でも変わらなかった。


それがわかった今、改めて、自分自身の人生をもう一回考えていく。


2017年4月16日日曜日

変化、なんだと思う。




前回の投稿から一ヶ月ちょっと。


少し心の休息と整理が必要だった。


あの時のことを思い出したり、
話したり、
書き出したりすることは、
私にとっては決して嫌なことじゃなくて、避けたいことでもなくて、

ただ、やっぱり、あの数日間を振り返って、
出来る限りの記憶を、
しかも辛い記憶をつなぎ合わせて、
文章にするのは、思ったよりも大変だった。


でも、「書いてくれてありがとう」と言ってくれる人もいて、

ブログを始めた最初の目的を一つやり遂げて、それは良かったって思ってる。




毎日毎日、休むことなく頭の中を掻き乱すいろいろな感情と、
毎日毎日、私なりに必死に向き合って、闘って、
そうしたら、少しずつ、そういう瞬間の乗り切り方を身体が覚えてきて、


頭で冷静に受け流せそうなときはそうしてみたり、

それでもやっぱり涙がこみ上げて来たときは、無理に止めたりなんかしないで、泣きたいなら泣けばいいって思うようになったり、

涙が出るのとは違う感情なら、
いつの間にか違うことを考え始めるまで、とことん頭の中でその思いと向き合ってみたり、

てっちゃんを、心の中で思いっきり抱きしめてみたり……



いろんなことをしてみたら、

やっと少し、
たぶんこれでも、まだまだ少しの変化なんだろうけど、
でも少し、自分のことやてっちゃんのことを客観的に見られるようになってきて、

コントロールできるということとは全く別なんだけど、

楽になってきた、というより、



慣れてきたんだ、と思う。


こうしていること、こんな現実にいることが、自分の“ノーマル”になってきたんだ、と思う。



決して望んだことではないっていう、怒りと恨みの大前提は変わらないけど、

でも、



日本の実家で一人で眠ることにも、

朝起きて、てっちゃんのお骨に挨拶して、コーヒーを供えてあげることにも、

てっちゃんのためにお花を買って、手入れしてあげることにも、

あの頃よりずっとずっと少ない量のご飯を、てっちゃんが喜んでいる姿だけをただ想像して供えてあげることにも、

街中で探しても探しても、やっぱりてっちゃんは見つからないことにも、

仲良さそうなカップルを見て、目をつぶりたくなってる自分にも、

そして、何より、

この世で、てっちゃんのいない世界で、生活していかなきゃいけないってことに……


少しだけ、慣れてきて、
それがどうしようもないってことを、頭だけじゃなくて、身体が少しずつわかってきてるような、そんな感じ…なのかな、と思ってる。




自分でも嫌になるほど、
惨めに感じるほど、
てっちゃんにも申し訳なくなるほど、

聞きたくて聞きたくてしょうがないはずのてっちゃんからの声に、
うまく耳、というか心を向けられなくて、
てっちゃんが、今の私にどんなふうにいてほしいと思ってるのかが全然感じられなくて、


それが何でなのかが全然わからなくて、


それが苦しくて仕方なくて、


でも、どうしたって、もうてっちゃんと話すことはできないんだから、


私が私の思う形で動くしかなくて、
大好きなてっちゃんが、私のために言ってくれそうな心強い言葉を思い浮かべて、それを糧にするしかなくて、
いいように考えることを意識的にしていくしかないんだろうな…


っていう、そこまでは何とか考えられるようになってきた。






ただ、やっぱり、“あの世に逝っちゃったてっちゃん”との関係の作り方がうまくできない…。


てっちゃんはてっちゃんだから…。



人間としてこの世で生きていたてっちゃんと、
肉体を失って、今までとは違った形になっちゃったてっちゃんと、


その違いを自分の中で理解して向き合うこと、

逆に、形はどうであれ、てっちゃんはてっちゃんじゃん、ってシンプルに考えてみること、

そういうことがやっぱりわからなくて、

その狭間にいるのかな…。




何が書きたかったわけじゃないけれど……。

でも、てっちゃんと会えなくなって二回目の春を迎えて、
満開の桜や、道端に咲く花や、暖かくなってきた日の光を、美しいものとして素直に感じることが出来るようになっている自分もいるんだと思う。


その変化を、純粋に喜べない自分に戸惑いながら。


二年間、遠距離をしていたときも、
寂しかったけど、その距離に慣れていって、
でもその「慣れ」をいいものとして捉えられたのは、

やっぱり、その先また会えるって思ってたからなのかな。
一生の話じゃないって、わかってたからなのかな。