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2017年3月5日日曜日

あの時のこと。1月19日~20日。最後の時間。




2016年1月19日~20日。



そこからどれだけ時間が経ったかわからなかった。


誰かに身体をゆすられて、ぼやける視界に少し馴染みのある顔がうつって、
それがなぜかてっちゃんだと思って、その腕をぐっとつかんで、頭を勢いよく起こして話しかけようとしたら、

「しのさん!」

と名前を呼ばれ、それがS先生だということに、ゆっくり気づいた。


病室を出てきてから、友達がS先生に連絡をしてくれていたらしかった。


「今、病室に行っててっちゃんに会ってきたよ。正直、あの状況はもうかなり厳しいかもしれないね…」


主治医の先生とも話をしたと言ってくれた。
言われていることは、少し前に脳外科の先生から言われたことと同じようなことなのに、
自分自身の受け止め方は全然違った。
…と今思う。

すでにそう聞いているという前提があったから、ということではなく、
やはりその話をしてくれている相手が、てっちゃんや私たちの心境や状況を理解して、こちらがその人のことを信頼したいと思える相手かどうかが大きいんだと思う。


私の頭が少しハッキリしてきたのを見て、


「今からまた一緒に病室に戻ろうか。大丈夫?」


と聞いてくれた。

21時頃だったと思う。
てっちゃんの両親が到着するのが、次の日の夜ということがわかっていて、


「あと24時間でお父さん達が来られるから、どうかてっちゃんを支えてください…」


そう神様にお願いをしたのを覚えているから。


左眼の瞳孔も開いているとわかってからは特に、
てっちゃんの身体は見る見るうちに浮腫みがひどくなっていった。


状態を少しでも安定させたいから、また鎮静剤を始めると言われたのがどの段階でだったか……

その時の私にとっては、鎮静剤を切っていても使っていても、
命ある限りてっちゃんは私たちの声をちゃんと聞いている、と、
とにかくそう信じて話しかけ続けていたから、あんまり関係なかった。


てっちゃんの左眼から涙がこぼれることが何度もあった。

それが生理的な現象なのか、本当に泣いているのか、わからなかった。でも右眼からは出なくて、だからてっちゃんの感情がそうさせているわけではないんだろうと思った。

でも、それでもその涙が、私に「てっちゃんはまだがんばってる」ってことを教えてくれていた。


自分で身体を動かせないし、
話せないし、
呼吸のリズムも機械が作ってるし、

だから余計なのか、
てっちゃんの身体がつくり出す、体温の温かみとか、涙とか、そういうものが愛おしかった。



「悔しいよね。」
「話したいね。」
「大丈夫だよ、ずっと隣にいるよ。」
「何も考えないでいいからね。とにかく耐え抜くんだよ。」
「あっちに行きそうになっても、絶対行っちゃダメだからね、許さないからね!」



そんなようなことを言ってたんだっけな。

こうやって書いていると、
あの時にどんなことを先生たちに言われていたのか、
それをどう解釈していたのか、
かなり曖昧な部分が多くて、

じゃあそれを自分はどう受け止めていたんだろうとか、
何を考えていたんだろうとか、
どんな気持ちだったんだろうとか、


自分のことなのに全然わからない。


てっちゃんの意識が戻ってくることだけを心から信じていたことは確実なんだけど、

でも先生たちの言葉や説明に対して、ただただ受け入れたくないという感情しかなかったとも思えない。

でもその先に待っているのが「死」だということは、全く考えていなかった感覚もあって、

でもじゃぁその状況がその先ずっと続くとも思っていなかったような……


こうやって書いてみたり、書くためにその時の感情や状況をできるだけ思いだそうとしてみたりすると、
あの時の自分は、紛れもなく自分なんだけど、自分じゃない気がしてくる。

「自分」だけじゃなくて、あのときのこと全てが…。



少し話が逸れてしまったけど、
とにかくS先生と病室に戻ってから、夜中の間ずっと、私はてっちゃんの隣で、それまで以上にひたすら話しかけ続けた。


てっちゃんは、浮腫みがどんどんひどくなっていって、
手も足もムチムチになっちゃって、
顔つきも少し変わってきちゃって、
苦しそうに見えた。

左眼だったと思うけど、目も腫れ上がってきちゃって、瞼が閉じきれなくなってた。


腕や顔をさすってあげて、とにかく私が隣にいることを知らせ続けてあげることしか、
できなかった。

ずっと病室にいて、ただただ体をさすって、
返答のないてっちゃんにひたすら話しかけていただけなんだけど、
なぜか時間が流れるのがすごく早く感じた。


足の付け根の出血していた箇所は、看護師さんがこまめに確認して処置も続けてくれていたが、たしか夜中2時頃になって、また出血が多くなってきたと説明を受けた。


その頃だったと思うけど、S先生が、


「てっちゃんのボスにもう一回連絡しておこうか」


と、この先何があるかわからないから、今のうちに連絡しておこうと言ってくれたんだったと思う。

ボスは、夜中にもかかわらずすぐ病院に駆けつけてくれた。
てっちゃんに改めて会って、話をして、S先生から状況を聞いてくれて、
他の親しい同僚にも今から連絡をしようということになった。


そこからどれだけ経ってからのことだったかわからないけど、

主治医の先生が、最後の提案を私たちにしてきた。

私の記憶にあるのは、その説明をS先生が訳してくれた言葉だけ。



「てっちゃんの血圧が不安定で、心電図の状態もかなりよくない。傷口の出血ももう止められない状況になってるし、脳ヘルニアも起こってて、もうこれ以上負荷をかけるのは、てっちゃんを苦しませるだけになるだろうって。」




“てっちゃんをこれ以上苦しませる”




一番避けたいことだった。
一番耐えらえないことだった。

その先の決断を下すということがどういうことなのか、わかっていたんだとは思うけど、
でもそのことへの恐怖とか躊躇よりも、ただとにかく、てっちゃんをこれ以上苦しませることだけが嫌だった。


「鎮静剤を切って、他の機械も止めていく形になるよ。」


そういうようなことを言われた。

どれぐらいの時間をかけて何を考えたのか全く覚えていない。

今考えると、私は何とあっさりその決断を下したんだろうと、自分に問いたくなって、
その場でのその判断が本当に良かったのか、わからなくなってしまう。


「はい」と答えることで、
てっちゃんの命を絶つことになるということを、自分はどこまで考えていたのだろうって、自分を責めたくなるし、

でも、

「いいえ、それは嫌です」と答えたら、
命としては延ばせるのかもしれないけど、てっちゃんの身体がてっちゃんの身体じゃなくなっちゃうような勝手な感覚があって、それが耐えられなかった。

脳内圧がかなり高くなっている状態を私なりに想像して、

その状況を、てっちゃんのパンパンになった全身の浮腫みが表している気がして、

これ以上その状況を放っておくこと、続けることを選んだら、てっちゃんの身体がどうにかなっちゃう気がして、

そんなことはありえないのかもしれないけど、

でも、先生の提案を受け入れることが、てっちゃんを助けてあげる唯一の方法のようにも感じてしまった。



医学的には、たしかにあの時はもう限界だったのかもしれないし、私が拒否する余地はなかったのかもしれない。


でも、今でも、
あの時に「わかりました」と言ってしまったことが良かったのか、
ずっと考えている。

一生背負っていくことになるその決断を、
私はどこまでちゃんと考えられていたんだろうって、
きっとずっと問い続ける。




これ以上の治療の継続はしない、という決断を主治医の先生に伝えると、


「あまり時間はかけられないけれど、今いる友人の皆さんに最後の挨拶をしてもらいますか?」


と言われた。
もう完全に頭が回らなくなっていた私は、

「そうか、そうだよね」

と、最後の時ってそういうこか、って改めて気づいて、
友達夫婦や、てっちゃんのボス、その後駆けつけてくれていた同僚の一人に、順番に病室に入ってもらった。


私にも、てっちゃんと2人きりの時間を与えてもらった。


「時間は気にせず、ゆっくりでいいからね。」


と、看護師さんに言ってもらったことは覚えているけれど、
残念ながら、何をどう話したのかちゃんと覚えていない……



よく頑張ったね。
大好きだよ。
アメリカに連れてきてくれてありがとね。
でも、これから一人じゃどうしていいかわかんないよ。
てっちゃんいないと私無理だよ。
でも、てっちゃんだってなりたくてこうなったわけじゃないもんね…
ごめんね。
よく頑張ったね。
ありがとね。
大好きだよ。

………


そんなことを繰り返していた気がする。


最後って言われたって、何の準備もしてなかったから、
大したことも話せなかったんだと思う。


髪をたくさん撫でてあげたことと、頬をたくさんさすってあげたことしかちゃんと覚えていない。
逆に、その髪と肌の感覚は、今でもものすごくハッキリと覚えている。





その場にいた皆でてっちゃんのベッドを囲んであげて、最後の声かけをした。

そして、ついにか…と思ったら、
鎮静剤や他の機器を切っていく作業をする間は全員外に出るように言われてしまった。



「え、てっちゃんが最後の瞬間に隣についててあげられないの!?」



信じられなかった…。

でも、そんな最後を突き付けられて、そんなの無理ですと言い返すほどの力ももう残ってなくて、言いなりになるしかなかった。


友達に支えてもらいながら、病室の外に出て、廊下に並んで待った。


ガラス張りの壁もカーテンで遮られちゃって、中の状況も全くわからなかった。
私がてっちゃんだったら…と考えたら、寂しくて耐えられなくて、申し訳なくて、かわいそうで……。


「この後、てっちゃんの顔を見た時には、もうてっちゃんは私の声聞こえないのかな…」


「ごめんね、てっちゃん。」


そう思ったのは覚えている。



その時、看護師さんが病室から勢いよく出てきて、突然こう言ってくれた。


「Shino!中に入る?もう鎮静剤は切ったけど、彼はまだ自分の力で生きてるわ!」



「Yes!!!」


そう言って、病室に飛び込んだ。



てっちゃんの手を握って、


「いるよ!隣にいるからね!ごめんね、近くにいてあげられなくて。」


そんなようなことを伝えた。

いくつもつなげていた点滴のポンプは、すでに電源が切られていて、
呼吸器の機械の「シューボッ」っていう音も無くなってて、
でも心電図だったかなんだったかの音だけが「ピッピッ」とまだ鳴っていた。



「ありがとう、てっちゃん。」

「お父さんとお母さんきたら、てっちゃんがどんなに頑張ったか、ちゃんと全部伝えるからね。」

「本当によく頑張ったね。幸せだったよ。」

「ありがとう。ごめんね。ありがとう。」



主治医の先生が聴診器をてっちゃんの胸に当てた。



「He has just passed away.」



すぐに時計を確認した。


1月20日の、朝6時30分ちょうどだった。


外がうっすら明るくなっていた。





てっちゃんの胸に耳を当てた。



一緒に寝ていた時によく聞いていた、てっちゃんの心臓の音。



もう、聞こえない。



呼吸で胸が膨らむことも、ない。



まだ温かいのに。






逝っちゃった。。。






呼吸器のチューブが口に入ったままで、まだ苦しそうな姿ではあったけど、
でも無理やりに動かされてた臓器が全部止まって、
ほんの少しだけ、
少しだけだけど、
穏やかな顔になったように見えた。




先生や看護師さんが部屋を出て、また2人の時間を作ってくれた。

それからどうやってその時間に区切りをつけたのか、
どうやって部屋を出たのか、
誰かが出してくれたのか、

全く記憶がない。


看護師さんに強く強く抱きしめてもらったことは覚えているけれど。




ICUを出てすぐのところに、私たち専用の控室を特別に用意してくれて、
朝になって駆けつけてくるであろう友達が来ても困らないように、
私たちが少しでも落ち着いて過ごせるように、
そこに残ることを許可してもらった。


全ての機器をてっちゃんの身体から取り外したりする必要もあったし、
とにかくそこにいるように言われたんだと思う。