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2017年6月25日日曜日

久しぶりに書いてみよう。



日々、いろんなことを考えて、
一つ一つ書き留めておこうかとか、
このブログを使おうかとか思うけど、

自分の頭の中をここに書き出すことが、結果的に、自分自身を鏡に映し出してることのような気がして、

そうしたら、
苦しんでる自分も、
進もうとしている自分も、
どっちも見たくなくなって、どっちも見てほしくなくなって、あんまり書けなかった。


そんな中で、出会った本や人からの言葉を通して、改めて思った。


もっともっとてっちゃんの事を書き留めたい。


だから、また書きだすことにした。




先日、亡くなられた小林麻央ちゃん…。

彼女のことに関しては、あまりにたくさんの想いがあって、今ここには書ききれないけれど、
彼女が亡くなって改めて読んだ、彼女の文章が、てっちゃんのことを想う自分にとってすごく大きなものになったので、ちょっとここにも書き写しておきたい。

麻央ちゃんが、イギリスのBBCに寄せたという手記の一部。
テレビでもよく取り上げられている文章。


*****************************************************************

人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。 
例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。 
『まだ34歳の若さで、可哀想に』
『小さな子供を残して、可哀想に』 
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。 
なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。 
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。 
だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました。 
なりたい自分になる。 
人生をより色どり豊かなものにするために。 
だって、人生は一度きりだから。

ー英・BBCよりー
****************************************************************



てっちゃんもこう思っていてほしい、って心から思った。


「32歳にして突然この世を去ることになったことは、僕の人生を代表する出来事なんかじゃない」


って。

てっちゃんは絶対はそう思ってる。

てっちゃんは、実はこんなことを言ってたことがあったんだって。
もちろん元気で健康だったとき。


「僕、もし今死んでも、別にいいと思ってるんですよね~」


って。
それに対して、聞いてくれてた人が


「それじゃ志野さんどうするのよー!そんなこと言っちゃダメでしょ!」


と言ってくれたらしく、
そしたら、


「そりゃ志野には申し訳ないし、ものすごい辛い想いさせちゃうと思うけど」


って。
そんな、あとから考えたら何かを予感させるようなことを唐突に言ってたことがあったらしく…。


でも、それはきっと、
それだけてっちゃんがその時までの自分の人生に満足していて、
“色どり豊かな”人生を送れている自信があったからなんだよね。きっと。


そのてっちゃんの言葉とそれに対する思いを、
今まで私が口にできずにいて、
心の中で、この悲しみを励ます要素にできずにいたのは、


もしかしたら、

私こそが、てっちゃんの急死という事実を、

てっちゃんの人生で代表する出来事にしちゃってたからなのかもしれない。


てっちゃんが残していたそんな言葉を、私自身がしまい込んじゃっててゴメンね。。。


でもやっぱり…

最期に何も言葉を交わせなかったことで、
それまでの言葉や想いがなぜか全部、純粋に自分の中に残せなくなっちゃってて…。

やっぱり、最期に一言、
一言でいいからてっちゃんからの言葉が聞きたかったって、
その悔しさと寂しさが強すぎて、
それまで何度も何度も口にしててくれたことを、ちゃんと心に残せなくなってた……。


自分の人生に一つ一つ着々と色を付けてきて、
それと真剣に向き合って、
私の人生にまで色をつけてくれて、
それは私だけじゃなくて、
たくさんの愛をみせてくれた、

そんな魅力的なてっちゃんとは、どうしてももっともっと長く一緒に生きたかったから、

そんな力を持ったてっちゃんには、どうしてももっともっとこの世での経験をしてほしかったから、

その短さにどうしても理由がつけられなくて……



でも、少しずつかもしれないけど、

海老蔵さんも言っているように、

長いとか短いとかじゃなくて、

その軸で考えるんじゃなくて、

てっちゃんとの人生を、人生という一つのものとして、たくさんたくさん振り返っていくね。


今すぐ会いたいけど、
会えるまで、お互いもう少し、我慢だね。


2017年5月25日木曜日

二人目の自分




あれ以来、見失ってしまった自分。

二人目の自分の中で生きてるような感覚。





てっちゃんの奥さんとして、日々を楽しんでいた自分。

あんなに常に、何かの夢を持ち続けていた自分。

エネルギーを湧き起こす力があった自分。

皆と一緒に、それぞれの幸せなことや、楽しい瞬間を共有し合って、笑い合って、それが自然だった自分。

ちょっとしたことでも、大きなことでも、「やりたい」と思うことを叶えるために日々動いていた自分。



てっちゃんがいなくなっちゃったことが、自分にとってあまりに大きかったことは言うまでもないけれど、
その存在の喪失だけじゃなくて、
自分自身の喪失は日を追うごとに、自分にどんどんのしかかってくる。




「志野が笑ってればそれでいい」

そう、何度も言葉に残してくれたてっちゃん。


「自分のやりたいことを持って、それに向かって行動してる人って魅力的。志野はそんな人。」

そんなこともてっちゃんは言ってくれてたらしい。


今の私に会ったらガッカリするかな。

てっちゃんが残してくれた言葉すらも、
自分の原動力にできなかったら、
私にはどんな術があるんだろう。


その言葉を何とか何とか自分の力にしてることは間違いないけれど、二人目の自分がなかなか言うことを聞かない。


二人目の自分が願うことは、

てっちゃんともう一度会うことだけ。

ただひたすらそれだけ。


でもこの世で生きていくためには、

「それでも頑張ってます!」の自分にならなきゃいけないんだよね……。


この世は、この社会は、そうじゃないとだめなんだよね……。


そりゃ、今の私じゃ、勝手に疎外感感じて当然なんだよね…。



2017年5月15日月曜日

たぶんこれだ。





このことを書くことが、
自分にとって、逆にプレッシャーにならないか不安だった。



でも、
たぶんこの感覚だ。


頭の中に少しスペースがある。


あのパンパンだった、グルグルだった頭の中が少し変わったんだと思う。

どんどん回る感情のスピードが少しずつ落ち着いてきて、そうしたら他の考えが入り込む余地ができてきた。…んだと思う。

今まで思っていたもの、感じていたもの、そういうものがなくなったわけじゃない。

でも、どうしたって追いつけなかった頭の中のグルグルに、少し余裕ができてきたんだと思う。



答えを出そうとはしない。

答えがないものに答えを見つけ出そうとして焦らない。

考えることにも焦らない。

考えようとしなくていい。

でも考えたいなら考えればいい。

時間が癒やしてくれるなんてウソ。

この変化は自分が向き合った感情が向き合った分だけ変化したもの。

でも時間が過ぎると、季節の変化があって、見るものも変わって、たくさんの節目があって、それが心の変化の一つの要素になることもある。

この感情は乗り越えるものでもない。

でも変わっていくものは確実にある。

その変化は否定しない。

私や周りが変わっていくように、てっちゃんも向こうで変わっていってる。

今でも私達の関係はまだ存在するし、これからも深くなりうるし、変化もしていく。

それを信じる。

ただそれを信じて、素直な心でてっちゃんと会話する。

てっちゃんと私の唯一無二の関係をこれからも作っていく。



それが最近の自分自身の気づき。心得。

それを気づかせてくれたのは私自身じゃなく、周りの人たちの力。

その人たちとの繋がりもてっちゃんが作ってくれたもの。


この変化を、事実として自分に示すために、
ここに書き残そうと何度も試みて、
そしてまた押し潰された。


きっとまた、絶対にまた、

波は来る。


悲しみも寂しさも、

後悔も罪悪感も、

不安も恐怖も、

悔しさも怒りも、


全部全部たぶんずっと消えない。

でも、
そういう感情に自分で膜を張って、覆い込んで、
それをしょうがないと、自分になんとか言い聞かせられることができるようになってきた。


だからと言って、「よし!いくぞ!」っていうわけではないこの自分は、なかなか厄介だけど、

てっちゃんはきっと、ゆったりドッシリ、構えてくれてる。


それだけはハッキリわかる。



2017年5月6日土曜日

メール



私が中国にいた間や、

てっちゃんが先にアメリカに行ってた間、

遠距離生活をしていた間にほぼ毎日のようにやり取りしていたメールを読み返してみた。


てっちゃんがどんな言葉を私にかけてくれていたのかを振り返るために。


そこで改めて気づく。

てっちゃんは、すごく冷静な人。
嫌なことや苦しいことも、あがいたりジタバタしたりするというより、
現実的に何が必要なのか、どこは改善の余地があって、どこは無理なのか、すごく冷静に考えてる。

その、いっつも冷静で、客観的で、感情に振り回されない感じが、そうじゃない自分にとっては、いくらバットを振っても空振りする気分にさせられるような感覚があって、たくさんケンカもしてきたけど、
でもそのときには気付かなかった、てっちゃんのすごく大人な部分。


それにふと気づいて、今に立ち返って考えてみて、
そうしたら、
てっちゃんは今の状況にもジタバタなんてしてないんじゃないかと思った。

今までとは全く違う繋がり方になっちゃったけど、でも、その中でどうすることが私のためになるのか、冷静に、でもしっかりと考えてくれてる気がした。



2017年4月29日土曜日

納得いかない




誰かからの言葉に対してとかでも何でもなく、
自分の心をただ吐き出します。





てっちゃんの存在をふとしたときに感じる
とか、

てっちゃんは心の中で生き続けてる
とか、

てっちゃんはいつでも近くで見守ってる
とか、


私だってそう思うことも実際ある。
そんな風に実際に感じることだってある。

そう思って生きていくことが、てっちゃんのためなんだって、

そう思って生きていかないと、てっちゃんもかわいそうだって、


そう思う人がいても当然だと思う。
私だってそう思ってないわけじゃない。




だけど、やっぱりどうしても納得がいかない。

てっちゃんがそんな存在になっちゃったことが、どうしても納得がいかない。


私にとって(当然みんなにとっても同じだと思うけど)、てっちゃんは、

ふとしたときに存在を「感じる」相手じゃなくて、

「心の中」で生きる人じゃなくて、

近くで「見守ってる」人じゃなくて、



「実際に」「一緒に」生活をして、
「お互いに」言葉を交わし合って、
「直接」手を取り合って、
「同じ世界」で生きていく人


なんだよ。


てっちゃんは、やっぱり、てっちゃんっていう「人間」でしかない。


てっちゃんの「声」が「直接」聞けないのに、てっちゃんが考えてることなんて、勝手に考えられないよ。


だって、てっちゃんの考えが聞きたかったら、「直接」会話して、返事をもらってたから。


てっちゃんはもうこの世にいないからって、てっちゃんがこんなふうに言う“だろう”なんて、
それを自分の支えにしていくことなんて、

そんなに簡単にできないよ。


それができたら少しは気持ちも変わるかもって、


前向きに過ごしてみたら、てっちゃんも喜ぶかもしれないって、


そう思って少し自分なりに試してみたけど、


そんなに簡単にできないし、


てっちゃんからは返事がない……



みんなはどうやって、心を抑えてるんですか。
みんなはどうやって、その悲しみと向き合ってるんですか。


てっちゃん、どうやって生きていけばいい?


2017年4月16日日曜日

変化、なんだと思う。




前回の投稿から一ヶ月ちょっと。


少し心の休息と整理が必要だった。


あの時のことを思い出したり、
話したり、
書き出したりすることは、
私にとっては決して嫌なことじゃなくて、避けたいことでもなくて、

ただ、やっぱり、あの数日間を振り返って、
出来る限りの記憶を、
しかも辛い記憶をつなぎ合わせて、
文章にするのは、思ったよりも大変だった。


でも、「書いてくれてありがとう」と言ってくれる人もいて、

ブログを始めた最初の目的を一つやり遂げて、それは良かったって思ってる。




毎日毎日、休むことなく頭の中を掻き乱すいろいろな感情と、
毎日毎日、私なりに必死に向き合って、闘って、
そうしたら、少しずつ、そういう瞬間の乗り切り方を身体が覚えてきて、


頭で冷静に受け流せそうなときはそうしてみたり、

それでもやっぱり涙がこみ上げて来たときは、無理に止めたりなんかしないで、泣きたいなら泣けばいいって思うようになったり、

涙が出るのとは違う感情なら、
いつの間にか違うことを考え始めるまで、とことん頭の中でその思いと向き合ってみたり、

てっちゃんを、心の中で思いっきり抱きしめてみたり……



いろんなことをしてみたら、

やっと少し、
たぶんこれでも、まだまだ少しの変化なんだろうけど、
でも少し、自分のことやてっちゃんのことを客観的に見られるようになってきて、

コントロールできるということとは全く別なんだけど、

楽になってきた、というより、



慣れてきたんだ、と思う。


こうしていること、こんな現実にいることが、自分の“ノーマル”になってきたんだ、と思う。



決して望んだことではないっていう、怒りと恨みの大前提は変わらないけど、

でも、



日本の実家で一人で眠ることにも、

朝起きて、てっちゃんのお骨に挨拶して、コーヒーを供えてあげることにも、

てっちゃんのためにお花を買って、手入れしてあげることにも、

あの頃よりずっとずっと少ない量のご飯を、てっちゃんが喜んでいる姿だけをただ想像して供えてあげることにも、

街中で探しても探しても、やっぱりてっちゃんは見つからないことにも、

仲良さそうなカップルを見て、目をつぶりたくなってる自分にも、

そして、何より、

この世で、てっちゃんのいない世界で、生活していかなきゃいけないってことに……


少しだけ、慣れてきて、
それがどうしようもないってことを、頭だけじゃなくて、身体が少しずつわかってきてるような、そんな感じ…なのかな、と思ってる。




自分でも嫌になるほど、
惨めに感じるほど、
てっちゃんにも申し訳なくなるほど、

聞きたくて聞きたくてしょうがないはずのてっちゃんからの声に、
うまく耳、というか心を向けられなくて、
てっちゃんが、今の私にどんなふうにいてほしいと思ってるのかが全然感じられなくて、


それが何でなのかが全然わからなくて、


それが苦しくて仕方なくて、


でも、どうしたって、もうてっちゃんと話すことはできないんだから、


私が私の思う形で動くしかなくて、
大好きなてっちゃんが、私のために言ってくれそうな心強い言葉を思い浮かべて、それを糧にするしかなくて、
いいように考えることを意識的にしていくしかないんだろうな…


っていう、そこまでは何とか考えられるようになってきた。






ただ、やっぱり、“あの世に逝っちゃったてっちゃん”との関係の作り方がうまくできない…。


てっちゃんはてっちゃんだから…。



人間としてこの世で生きていたてっちゃんと、
肉体を失って、今までとは違った形になっちゃったてっちゃんと、


その違いを自分の中で理解して向き合うこと、

逆に、形はどうであれ、てっちゃんはてっちゃんじゃん、ってシンプルに考えてみること、

そういうことがやっぱりわからなくて、

その狭間にいるのかな…。




何が書きたかったわけじゃないけれど……。

でも、てっちゃんと会えなくなって二回目の春を迎えて、
満開の桜や、道端に咲く花や、暖かくなってきた日の光を、美しいものとして素直に感じることが出来るようになっている自分もいるんだと思う。


その変化を、純粋に喜べない自分に戸惑いながら。


二年間、遠距離をしていたときも、
寂しかったけど、その距離に慣れていって、
でもその「慣れ」をいいものとして捉えられたのは、

やっぱり、その先また会えるって思ってたからなのかな。
一生の話じゃないって、わかってたからなのかな。



2017年2月15日水曜日

小さな雲



昨日の朝、うちの裏の高台に出た時に出会った、小さな雲。

真っ青な、他に雲一つない空に、
ちょこっと浮かんでた小さな雲。

こんな雲みたことない。

奇跡だとすら思った。


見えるかな。
写真で見るより、実際はもっとはっきり大きく見えたんだけど…






小さな小さな雲だけど、私にはその日の大きな大きな力になる。


夜、駅からの帰り道で見える月、
駐車場から見える一等星、

てっちゃん自身なわけはないけど、
てっちゃんからの贈り物、
てっちゃんからの力だと思って、


「ありがとう。ちゃんと見ててよね。」


って言葉をかける。

昨日の雲は、駅に向かう私にずっとついてきてるようで、そりゃ雲だからそんなふうに見えて当然なのに、


「いいよ、そんなについてこなくても。今日もがんばるからね。」


って、ちょっと嬉しくなりながら言ってた。



チャールストンのいちょうの木を見に行ったときに、空に見えた一つの雲に出会ってから、それまで以上に空に話しかけることが増えた。


中国に行った頃から、空の力、特に青空の力には、たくさん助けられたり、力をもらってきた。

今はその自然の力に、てっちゃんからの力が加わって感じるから、そのパワーはすごい。



絶対にいなくならない空。

いつもいるわけじゃないけど、いると心が和む雲。

毎日形を変えて、一日一日を生きていることを教えてくれる月。

疲れた日も、きつい日も、その小さな強い光で私の心を癒やしてくれる星。


その全部にてっちゃんの力を勝手に感じる。
そんなのあり得なくても、それぐらい勝手でいようと思う。




2017年2月8日水曜日

泣くこと



やっぱり泣いた方がいい。
泣ける方がいい。


会いたくて仕方なくて、寂しくて止まらない涙でも、

てっちゃんがいなくなっちゃった現実がとにかくこわくて不安で、勝手に襲ってくる涙でも、

こんな運命になってしまったことに悔しくて、なんでだよ、てっちゃんのこと奪ったの誰だよ、って出ない答えに行き詰まって流れてくる涙でも、

てっちゃんは近くにいてくれると信じて、実際そう思えて少しほっとした気がして、でもそんなふうに思うしかないそのことが嫌でこみ上げてくる涙でも、

周りの人の思いやりや、こんなにも守ってもらっていることへの感謝で、心がいっぱいになる涙でも、

よくわかんないけど気づいたら出てる涙でも…。


泣くことは楽じゃないし苦しいけど、

涙は私の心を守ってくれる。

涙が流れると、心がてっちゃんで満たされる。

てっちゃんが私を守ってくれてるように感じるのか、
てっちゃんの事を心から想ってる自分に改めて気づいてどこかホッとするのか、
無理しそうな自分に無理しないでいいって言い聞かせられるからなのか、


理由なんて全然わからないけど、
泣かずにいられる日が少しずつ増えてくると、ただただ想って泣いて…を繰り返せることの大きさがわかる。


こうやって書くと、またてっちゃんを想って涙が出る。
それでいい。
それがいい。


2017年1月6日金曜日

みんなの中でのてっちゃん



これを読んでくれている皆さんへ。



「てっちゃん昔こんなこと言ってたよ」

とか、

「あなたのことこんなふうに話してたよ」

とか、

「僕/私にとって、てっちゃんはこんな存在だったよ」

とか、

「あの時実はこんなだったらしいよ」

とか、

「てっちゃんってこんなところがあったよね」

とか…



皆さんの中に生きているてっちゃんの姿を教えてほしいんです。

もちろん、私が割り込むべきでない、皆さんとてっちゃんとの間で起こったことではなくていいので。


てっちゃんがこの世からいなくなっちゃって、
自分一人の人生を考えなきゃいけないっていう変えようのない現実があって、
だけどそれが嫌でもがいてもがいて、
こねられるだけの駄々をこねて一年間過ごしてきて、

でも、その中で、「てっちゃんは自分の中に生きている」ということを自分が心から思えるようになるように、今必死でその形を探しています。


皆さんからそんな言葉やエピソードを聞くことがどんなふうに働くかは、私自身もわからないけれど、やっぱり私は、もっともっとてっちゃんの事が知りたいし、そうすることで、自分の中にいるてっちゃんと対話ができる気がするんです。


2016年12月27日火曜日

ごめんね。




たくさん話したいのに、
たくさん問いかけたいのに、

ちょっと思考停止状態かも。


聞いても聞いても返事がないからなのか、
それだけ私が冷静になりつつあるっていうことなのか、

全然わからない。


死んじゃいやだよ、てっちゃん。
遠距離でも耐えるから、忙しくて遊びにいけなくても我慢するから、
でも、一生会えないのは、命が亡くなっちゃうのはダメだよ、てっちゃん。

みんな悲しんでるよ。

わかってるよね、もう嫌というほど聞こえてるよね…
今さら遅いよね。

ごめんね。

ごめん。

やっぱりそれしか言えないや。

2016年12月21日水曜日

叶わないものを叶えている姿



人の幸せがどうしても穏やかに受け止められない。
幸せそうに見えるだけで、本当はたくさん苦しい思いをしている人たちかもしれないのに、そこは私の目と心には映らない。

見ず知らずの人のそんな姿に対して、羨ましいというか、不公平感とか憎さすら感じちゃうこともある…。


テレビの中の作り話にすら、しかも本当に些細な素朴な日常のやりとりや、感情の変化や、言葉のやりとりでしかないのに、てっちゃんと私にはもうそんなやりとりが叶わないと気づいた途端に、心の中が一気に濁る。

何かふと思ったことがあったとき、話したくなることがあったとき、触れたくなったとき、それをその感情のままに叶えたいだけなのに。


他人のそんな一つ一つの言動が、私たちに当然のようにできていたことで、今できなくなってる現実に、ただの運命だという残酷な理由しか存在しないから、どうしてもどうしても穏やかでいられない。


そんな自分に気づいたときに、「みんなは全く悪くない。何を人に嫌味な目を向けてるんだ」って自分に言い聞かせるので精一杯。

てっちゃんのことがあったことで、私が悩むのは、自分とてっちゃんの二人の間の問題だけであってほしいのに…。
それ以外に対する自分の感情や人間性が変わってしまうことだけは本当にやめたい。本当に…。


2016年12月14日水曜日

久しぶりの声



夢の中でてっちゃんと電話で話した。
あの日以来初めてだった。

ハッキリと声を聞いた。

今まで夢に出てきたときも、会話はしてたんだろうけど、あまり「てっちゃんの声だ!」って認識することはなかった。

でも昨日は、てっちゃんと電話をしながら、てっちゃんの声を聞けてホッとしてる自分がいた…のを覚えている。


“てっちゃんの声、私ちゃんと覚えてるんだ…”

目が覚めたときそう思った。
そりゃそうか、って、そんなふうに思ってる自分がバカらしくも思ったけれど、でもとにかく久しぶりだった。

声が聞こえてきそうとか、そう思うことはあっても、やっぱりちゃんと実際に聞かないと、どんな声なのかわかるようでわからない。
そう思ってたから。


その夢の中の会話自体は、
てっちゃんに私が電話をかけたら、電車に乗るところだったらしく、しかもそんなに機嫌も良くなくて、「電車降りたらかけ直すから!」と、今はさっさと切りたいと言いたそうな感じで、ある意味てっちゃんらしいというか、そのきっぱりした感じ…でも温かさも感じた。


それで、“もう少し待ってればまたてっちゃんの声が聞ける”って、なんかソワソワしながら待っていたら目が覚めちゃった。

今までの生活だったら、てっちゃんと電話をすることなんて当然で、ソワソワするようなことでもなかったのに、そこはなんだか今の現実の意識が夢に入り込んでた…。


でも、声が聞けて良かった。

もっと話したかったけど、もっと声をゆっくり聞きたかったけど、でも、良かった。


2016年12月12日月曜日

てっちゃんと連絡がとれれば…



一回でいいから、

というのは控えめなお願いで、本当は何回でも…と思うけど、

でも一回でいいから、

今てっちゃんがどこでどんなふうにしてるのか、てっちゃんがいるところがどんなところなのかを見に、てっちゃんの近況を聞きに、いける手段がほしい。

周りの人が信じてることや、本に書いてあるようなことや、想像の世界の話じゃなくて、私が私の力で…

夢でもいいし、幻覚でもいい。

自分の力でそれができれば、それは自分が自分で見たものなんだからって、少しは納得できる気がする。
このことに「現実味」という言葉は使いたくないけど、でもその見たものに少しは現実味を感じることができる気がする。


というか、あの日から今日まで、いろんな人にいろんな言葉をかけてもらって、一つ一つがありがたくて、でもひねくれて受け取ってしまう自分も確実にいて…
私なりに必死に、周りの人の言葉を受け止めて受け入れてみようとしてきたつもりだけど、

こんなふうにしてみたらてっちゃんもきっと喜ぶよとか、
こんなふうに考えるしかないよねとか、
こう考えてみたら少しは楽かもしれないよとか、

そんなふうにたくさんのパターンを提示してみてもらうんだけど、どうしてもしっくりくるものがない。
自分を奮い立たせるというか、この想いをバネに踏ん張ってやろうって…こう考えてみるしかない!って思える状況がどうしても見つからない。


みんなからもらう言葉が嫌だって言うんじゃなくて、こんなにたくさんの人達が、必死にてっちゃんと私のことを想って考えて言葉を選んでくれた、こんなにたくさんの手段を持ってしても動いてくれない自分の心とこの変わらない現実に、もうどう手を付けていいのかわからない。


動かない気持ち、動けない心を、無理に動かそうとする必要なんてないと思いつつ、でも外の世界に目を向けると、やっぱり世界も、周りの人も、進んでる、動いてる。
物理的にだけじゃなくて、時間空間というだけでもなくて、心も。


私にとって、てっちゃんの身に起こったことも、その結果この現実と自分が闘っていることも、“てっちゃんと私”の中で起こったことだから、てっちゃんと私のやり取りの中で、何か納得なり力に変わるものなりが見つけられないと結局はダメなのかなって思った。


でも、それは現実的には無理なこと…。


2016年12月11日日曜日

心と頭、写真とお骨



自分も現実もわからない。

頭の中でグルグル回ってたもの、回ってるもの、なんだかもう本当に数え切れないほど回りすぎて混ざっちゃったんだろうかと思う。

いろんな思いが駆け巡りすぎて苦しいから、一つずつ吐き出そうとしてみるけれど、もうその要素すらつかめなくなってきてる気もする。

少しそのグルグルした状態に、自分の身体がついてくるようになっただけで、中身は何も変わってないことはわかる。



だって私まだ、てっちゃんが死んじゃったって思ってない…。

あの数日に起きたことが、全ててっちゃんの身に降りかかったことだってことも、それを隣で全部見てたのが私だってことも、そのことは全部わかってる。

それが理由で日本に帰ってこなきゃいけなくなって、たくさんの人達がてっちゃんの最後に会いに来てくれて、来られなかった人もみんな、その事実を知りながらあれから毎日を過ごしてる。
それはわかってる。


でも、そのすべての結果、てっちゃんが死んじゃったってことがわかってない。

信じられるとか信じられないとか、そういうことでもなく、わかってない。
まだ、まだどこかで何かを信じてる。



たぶんわかってないのは私の心。
頭はわかってる。

だからなのか、心の中で、どこかに行ってしまったてっちゃんとうまく話すことができない。

てっちゃんの遺影を見つめながら、話をする。
でもあまりの違和感に長く話せない。
写真と向き合えばてっちゃんの顔が見えるけど、てっちゃんの身体の一部は骨壷の中にある。
だからお骨に向かって話すほうが、てっちゃんっていう「人間」と話せてる気がする。
そうじゃないとどこかそっぽ向いて話しちゃってるようにも感じる。
でも、お骨と向き合っているとてっちゃんの表情が見えない。見ようとすると、なぜか、悲しいけどなぜか、元気だった頃のてっちゃんじゃなくて、息を引き取ったあとのあの顔が出てきちゃう。

ベッドで息をしなくなっちゃったてっちゃん、
霊安室に運ばれたあともう一度会いに行ったときのてっちゃん、
お別れ会のときに数日ぶりに会ったてっちゃん、
日本に着いて改めて会ったてっちゃん、
納棺のときのてっちゃん、
お花をいっぱいに敷き詰められて、本当に顔しか見えなくなっちゃったてっちゃん、
そんなてっちゃんが、場所を変えて運ばれて、生きている私には絶対に入れない、扉の向こうの熱い熱い部屋に入れられちゃった…

出てきたらてっちゃんの面影これっぽっちもなくなってた……



悲しさよりも衝撃だった。


そんなすべてを振り返らないと、骨壷にてっちゃんの一部が入っていることが、私の心にはわからない。

でも、頭ではわかっている。

じゃあなんで、わかっている頭で心をコントロールできないんだろう…

それがわからないから…それができない自分もわからないし、この現実にどうしたって納得ができないから困ってる。

解決策はてっちゃんにしか持ち得ないものだとわかっているから先が見えない。


2016年12月5日月曜日

報告



もしかしたら、これを読んでくださっている方の中には、
てっちゃんつながりの知り合いの方もいるかもしれないし、
ただただ、てっちゃんを想う気持ちで、少しでもてっちゃんの事を知ろうと、
このブログを開いてくださってる方がいるかもしれないし…

私の想いだけじゃなくて、現実的な報告を少しだけします。


1月には一周忌になります。

一周忌の法要は、勝手ながら、身内だけでやらせて頂くことになりました。

お墓に関してですが、実はまだ納骨はしていません。
できていません…。

お墓参りを通して、てっちゃんに会いに、挨拶に行こうと考えてくださってる方も、もしかしたらいるかと思いますし、納骨を済ませることで、皆さんの為だけでなく、もしかしたら私自身の為にも、何か良い方向に働くことがあるかもしれないとは、たくさん考えました。

でもまだ、心の整理も全然できていないので、てっちゃんの家族とも相談をして、
もう少し私の家に一緒にいてもらうことにしました。


もし自宅でもよければ、ぜひてっちゃんに会いに来てあげてください。
お位牌は、てっちゃんの実家の仏壇に入れてもらっています。

こうやって、てっちゃんの「居場所」がどこだかよくわからないと言われてもおかしくない状況を作り出しているのも、また自分自身ですが、今はこの形が、自分にとって、家族にとって、少なくとも今は、いいのだと思っています。


今の私にとって、てっちゃんを知っている方と、彼の話を一緒にできることは、
とても気持ちが安らぐことだと感じています。

もちろんそれは、てっちゃんの事をよく知らない私の知り合いといるのが心地よくないという意味では全くなく、
てっちゃんとの話を一緒にできる方とお話ができるということは、もし今まで面識がなかった方だったとしても、今の私には力になります。…と今は感じています。




2016年12月3日土曜日

悲しいことがあったとき…。




ちょっと、というかだいぶ悲しいショックなことがあった。

もうこれ以上、大切な人を、少なくとも私は大切だと思っている、恩人だと思っている人を失いたくはないのだけど…。


てっちゃんがいなくなってしまったこととは別の部分で、こういう想いをしなくちゃいけなくなると、

こういうときに、てっちゃんに話を聞いてもらえない現実を改めて突きつけられると、

こうやって私は、てっちゃんのいない世界で、自分の世界で生きていかなきゃいけないんだって、

またすごく弱気になって、心細くなって、いろいろなことに怖がる自分がまた出てくる。



私は今周りの人に守ってもらって、支えてもらって、なんとかやってる。

でも、それに甘えすぎて、いつまでもいつまでもそうしていると、どこまでも被害者ぶっているように私を見てしまう人もいるんだろうなと思う。
こんな私にずっと寄り添う周りの人も、相当のエネルギーがいる。
そのことは忘れちゃいけない。


てっちゃんだったら、こんな時どんな言葉をかけてくれるだろう。

どんな風に私に接してくるだろう。



10年一緒にいた。
でも、たかが10年でもあった。

一緒にいた時間にお互い経験したことは、本当にたくさんあったし、たくさんのことを話し合ってきた。
たくさんの言葉をかけあってきた。

でも、それでもやっぱり、一緒にいた時間には経験しなかったことが、まだ人生には山ほどあって、
てっちゃんの声がなかなかスッと聞こえてこない。

きっと、結局私の心の整理がつくのを黙って見守ってくれてるんだろうなと思う。

困って意見を求めると、予想以上にあっさりと、あっさり過ぎて逆に受け入れるのに時間がかかるぐらい現実的に、彼なりの結論を提示してくると思う。



てっちゃんという最強に心強い存在がいれば、多少心が折れそうになっても、
最終的な受け皿がある感覚があった。

今はそれがなくて、背筋がピンと伸ばせない。よしっ!って思えない。


それもまた現実。

白い温かい空間



昨日、お風呂に入って、首の深さまで身体を沈めてお湯につかって目を閉じてみた。

いつも入っているお湯よりも少しだけぬるくて、身体とお湯の間に一枚膜があるような、
身体がほんのり温かいボワっとした空間に包み込まれて浮いているような、
そんな感覚がした。
淡く白い、ただただ、そんな空間。


その時にふと思った。


あの時、
てっちゃんが挿管のために意識がなくなるその時、
この世から離れざるを得なかったあの時、あの瞬間、

てっちゃん、こんなふうな感覚だったのかな。


…むしろ、こんな感覚でいてくれたらいいんだけどな。


意識が遠のく中で、呼吸の苦しさから解放されていくとき、

頭上から引っ切り無しに降ってくる私の声を聞いていたとき、

口は動かなくても、声は出せなくても、ボーっとする頭の中で私に返事をしてくれながら、

温かいものに包まれていくような、何も感じなくてよくなる解放感を全身で感じてくれていたのかな。



私の想いだけを言えば、
そんな温もりなんかに包まれてないで、もう一回目を開けて、一言だけでいいから言葉を交わすために必死に戻ってきてよ、って今でもそう思うけど、

でも、昨日お風呂で感じた、どうってことない感覚だけど、でもあんな感覚であの時てっちゃんがいられたとしたら、もしそうだったとしたら、
少しだけ、ほんの少しだけど、てっちゃんを想う気持ちとかあの時を振り返る気持ちに温かみが差した気がした。


全ては私の勝手な想像で、その時の自分の気分とか、思い返す場面の状況によっても、またすぐ変わったりするし、実際てっちゃんはどこまで穏やかに逝けたのかって、現実的なことを考えたら、こんなことを考えること自体馬鹿馬鹿しいと思ったのだけど。。。


そんなことを考えてお湯に浸かっていたら、そのまま意識を持っていかれそうになって、すぐ目を開けて自分を現実に戻した。



てっちゃんも、こんなふうに「ダメだ!」と思って目をぱっと開けられる力があったらよかったのに…って、結局悲しい気持ちになってた。


2016年11月21日月曜日

今の気分



また一ヶ月が経った。

最近また、きつい。

まだ、きつい。

穏やか、じゃない。

ベースラインが低い、心の。

「まだ10ヶ月しか経ってないもん。」

でも、もう私、10ヶ月も、どん底で必死に、やってきた。

一個ぐらい答えが見つからないものかな。

どんな答えを求めてるのかって言われたら一つしかないんだろうけど、
でも、そうじゃなくても何かさ、って。


自分をコントロールできないって結構、きつい。
30秒後の気分がさっきまでの自分と全然違って、だからと言ってどうしようもないのって、しんどい。
弱音しか吐けないのも、嫌だ。


2016年11月19日土曜日

疲れた。



疲れた。

なんだか、でもとにかく、疲れた。


そんなに疲れるような生活でもないんだろうし、体力奪うようなことをしたわけでもないんだけど…
タイミングの問題かもしれないけど、

疲れた。


毎日何時間も働いてたあの時とも違う、
がんばって英語を聞き取ろうと必死に1日集中してた時とも違う、

今感じている全部の感覚が、今までの人生で初めての感覚で、言葉にしきれない。


どうしようもなくて、苦しいとき、てっちゃんのぬくもりを感じようとするとき、
てっちゃんだったらこの辺で聞いててくれてるかな…とかこの辺りから覗き込んでくれるかな…って思う部分を向いてみると、光の残像みたいに、てっちゃんのシルエットが見える気がすることがある。

表情までは見えないけど、勝手な想像で、話しかけてみる。心の中で。
たまに声に出してみる。

でも返事はなくて、シルエットは数秒で消えちゃう。


疲れた。
疲れたけど、だからと言って眠くなるとも限らない。


2016年11月17日木曜日

怖い夢



おとといの夜、金縛りみたいなものにあった。
そのあと、そのまま怖い夢を見た。
すごく怖かった。
必死に嘆いて目を覚ました。


金縛りで上からすごい力で押さえつけられてる感覚が、目を覚ましてからも足の付け根に残っていて、うまく力が入らなかった。

夢の中で、ある人が亡くなってしまって…
それがものすごくショックだったんだけど、その直後に、その場にいた2、3人の人が、亡くなったはずのその人に見えて、生きてたんだと勘違いをして、嬉しすぎて話しかけて…
でも勘違いをしてることにすぐ気づいて謝ったんだけど、そしたらその3人がいわゆる幽霊みたいな風になって私を囲むように迫ってきて、謝っても謝ってもどんどん様相を変えて近づいてきて…

そこで起きた。


その目を覚ます瞬間、

「これで目を覚まして、もしかしててっちゃんが今夢に出てきた怖い幽霊みたいに見えちゃったらどうしよう…。目開けないほうがいいかな…」

って考えて、でもそうするとまた恐怖感が襲ってくるから無理やり起きた。

部屋の中をそーっと見回してる自分がいた。


それで気づいた。


もう私の頭は完全に、てっちゃんが死んじゃったことをわかってるんだ……。
心はわかりたくない、わかるわけないと必死にごねているけれど、でもわかっているんだ……。

今、もしてっちゃんが、本物でも幻覚でも、私の前に現れたら、それはもう願って仕方がないことだけど、でも、きっとすごくびっくりして、逆に怖くなってしまうのかもとも気づいた。

そんなことがあり得るわけなくて、あり得たとしたら恐怖心すら感じちゃう自分になってることに気づいた。


話したいけど…
横にいてほしいけど…
一緒に笑いたいけど…

会いたくて会いたくて仕方がないけど…


でも、これが、時間が経つってことなのかな…。