てっちゃんが私のために何度も言ってくれていた言葉… 32歳、急性リンパ球性心筋炎で、具合を悪くしてたったの5日で逝ってしまったてっちゃん。最後、彼と何も話せなかった。 頭の中をグルグルする滅茶苦茶な想いを、とにかく吐きだしてみようかと思う。 <The title of this blog is the words My husband, Tetsuya often said to me...He was only 32 years old, passed away due to acute lymphocytic myocarditis. I could not talk with him enough after he felt sick. I will just write out my feeling and emotion that are stucking in my mind everyday.>
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2017年4月16日日曜日
変化、なんだと思う。
前回の投稿から一ヶ月ちょっと。
少し心の休息と整理が必要だった。
あの時のことを思い出したり、
話したり、
書き出したりすることは、
私にとっては決して嫌なことじゃなくて、避けたいことでもなくて、
ただ、やっぱり、あの数日間を振り返って、
出来る限りの記憶を、
しかも辛い記憶をつなぎ合わせて、
文章にするのは、思ったよりも大変だった。
でも、「書いてくれてありがとう」と言ってくれる人もいて、
ブログを始めた最初の目的を一つやり遂げて、それは良かったって思ってる。
毎日毎日、休むことなく頭の中を掻き乱すいろいろな感情と、
毎日毎日、私なりに必死に向き合って、闘って、
そうしたら、少しずつ、そういう瞬間の乗り切り方を身体が覚えてきて、
頭で冷静に受け流せそうなときはそうしてみたり、
それでもやっぱり涙がこみ上げて来たときは、無理に止めたりなんかしないで、泣きたいなら泣けばいいって思うようになったり、
涙が出るのとは違う感情なら、
いつの間にか違うことを考え始めるまで、とことん頭の中でその思いと向き合ってみたり、
てっちゃんを、心の中で思いっきり抱きしめてみたり……
いろんなことをしてみたら、
やっと少し、
たぶんこれでも、まだまだ少しの変化なんだろうけど、
でも少し、自分のことやてっちゃんのことを客観的に見られるようになってきて、
コントロールできるということとは全く別なんだけど、
楽になってきた、というより、
慣れてきたんだ、と思う。
こうしていること、こんな現実にいることが、自分の“ノーマル”になってきたんだ、と思う。
決して望んだことではないっていう、怒りと恨みの大前提は変わらないけど、
でも、
日本の実家で一人で眠ることにも、
朝起きて、てっちゃんのお骨に挨拶して、コーヒーを供えてあげることにも、
てっちゃんのためにお花を買って、手入れしてあげることにも、
あの頃よりずっとずっと少ない量のご飯を、てっちゃんが喜んでいる姿だけをただ想像して供えてあげることにも、
街中で探しても探しても、やっぱりてっちゃんは見つからないことにも、
仲良さそうなカップルを見て、目をつぶりたくなってる自分にも、
そして、何より、
この世で、てっちゃんのいない世界で、生活していかなきゃいけないってことに……
少しだけ、慣れてきて、
それがどうしようもないってことを、頭だけじゃなくて、身体が少しずつわかってきてるような、そんな感じ…なのかな、と思ってる。
自分でも嫌になるほど、
惨めに感じるほど、
てっちゃんにも申し訳なくなるほど、
聞きたくて聞きたくてしょうがないはずのてっちゃんからの声に、
うまく耳、というか心を向けられなくて、
てっちゃんが、今の私にどんなふうにいてほしいと思ってるのかが全然感じられなくて、
それが何でなのかが全然わからなくて、
それが苦しくて仕方なくて、
でも、どうしたって、もうてっちゃんと話すことはできないんだから、
私が私の思う形で動くしかなくて、
大好きなてっちゃんが、私のために言ってくれそうな心強い言葉を思い浮かべて、それを糧にするしかなくて、
いいように考えることを意識的にしていくしかないんだろうな…
っていう、そこまでは何とか考えられるようになってきた。
ただ、やっぱり、“あの世に逝っちゃったてっちゃん”との関係の作り方がうまくできない…。
てっちゃんはてっちゃんだから…。
人間としてこの世で生きていたてっちゃんと、
肉体を失って、今までとは違った形になっちゃったてっちゃんと、
その違いを自分の中で理解して向き合うこと、
逆に、形はどうであれ、てっちゃんはてっちゃんじゃん、ってシンプルに考えてみること、
そういうことがやっぱりわからなくて、
その狭間にいるのかな…。
何が書きたかったわけじゃないけれど……。
でも、てっちゃんと会えなくなって二回目の春を迎えて、
満開の桜や、道端に咲く花や、暖かくなってきた日の光を、美しいものとして素直に感じることが出来るようになっている自分もいるんだと思う。
その変化を、純粋に喜べない自分に戸惑いながら。
二年間、遠距離をしていたときも、
寂しかったけど、その距離に慣れていって、
でもその「慣れ」をいいものとして捉えられたのは、
やっぱり、その先また会えるって思ってたからなのかな。
一生の話じゃないって、わかってたからなのかな。
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そうなんだね。
返信削除ホッとしてもらいたいような、されちゃっても淋しいような…この気持ちが何なのか、やっぱりわからん。
でも、「ちゃんと見守っててね」ってお願いしたときに見る、あの写真の笑顔ってすごく心強いよね。