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2017年3月5日日曜日

あの時のこと。1月19日~20日。最後の時間。




2016年1月19日~20日。



そこからどれだけ時間が経ったかわからなかった。


誰かに身体をゆすられて、ぼやける視界に少し馴染みのある顔がうつって、
それがなぜかてっちゃんだと思って、その腕をぐっとつかんで、頭を勢いよく起こして話しかけようとしたら、

「しのさん!」

と名前を呼ばれ、それがS先生だということに、ゆっくり気づいた。


病室を出てきてから、友達がS先生に連絡をしてくれていたらしかった。


「今、病室に行っててっちゃんに会ってきたよ。正直、あの状況はもうかなり厳しいかもしれないね…」


主治医の先生とも話をしたと言ってくれた。
言われていることは、少し前に脳外科の先生から言われたことと同じようなことなのに、
自分自身の受け止め方は全然違った。
…と今思う。

すでにそう聞いているという前提があったから、ということではなく、
やはりその話をしてくれている相手が、てっちゃんや私たちの心境や状況を理解して、こちらがその人のことを信頼したいと思える相手かどうかが大きいんだと思う。


私の頭が少しハッキリしてきたのを見て、


「今からまた一緒に病室に戻ろうか。大丈夫?」


と聞いてくれた。

21時頃だったと思う。
てっちゃんの両親が到着するのが、次の日の夜ということがわかっていて、


「あと24時間でお父さん達が来られるから、どうかてっちゃんを支えてください…」


そう神様にお願いをしたのを覚えているから。


左眼の瞳孔も開いているとわかってからは特に、
てっちゃんの身体は見る見るうちに浮腫みがひどくなっていった。


状態を少しでも安定させたいから、また鎮静剤を始めると言われたのがどの段階でだったか……

その時の私にとっては、鎮静剤を切っていても使っていても、
命ある限りてっちゃんは私たちの声をちゃんと聞いている、と、
とにかくそう信じて話しかけ続けていたから、あんまり関係なかった。


てっちゃんの左眼から涙がこぼれることが何度もあった。

それが生理的な現象なのか、本当に泣いているのか、わからなかった。でも右眼からは出なくて、だからてっちゃんの感情がそうさせているわけではないんだろうと思った。

でも、それでもその涙が、私に「てっちゃんはまだがんばってる」ってことを教えてくれていた。


自分で身体を動かせないし、
話せないし、
呼吸のリズムも機械が作ってるし、

だから余計なのか、
てっちゃんの身体がつくり出す、体温の温かみとか、涙とか、そういうものが愛おしかった。



「悔しいよね。」
「話したいね。」
「大丈夫だよ、ずっと隣にいるよ。」
「何も考えないでいいからね。とにかく耐え抜くんだよ。」
「あっちに行きそうになっても、絶対行っちゃダメだからね、許さないからね!」



そんなようなことを言ってたんだっけな。

こうやって書いていると、
あの時にどんなことを先生たちに言われていたのか、
それをどう解釈していたのか、
かなり曖昧な部分が多くて、

じゃあそれを自分はどう受け止めていたんだろうとか、
何を考えていたんだろうとか、
どんな気持ちだったんだろうとか、


自分のことなのに全然わからない。


てっちゃんの意識が戻ってくることだけを心から信じていたことは確実なんだけど、

でも先生たちの言葉や説明に対して、ただただ受け入れたくないという感情しかなかったとも思えない。

でもその先に待っているのが「死」だということは、全く考えていなかった感覚もあって、

でもじゃぁその状況がその先ずっと続くとも思っていなかったような……


こうやって書いてみたり、書くためにその時の感情や状況をできるだけ思いだそうとしてみたりすると、
あの時の自分は、紛れもなく自分なんだけど、自分じゃない気がしてくる。

「自分」だけじゃなくて、あのときのこと全てが…。



少し話が逸れてしまったけど、
とにかくS先生と病室に戻ってから、夜中の間ずっと、私はてっちゃんの隣で、それまで以上にひたすら話しかけ続けた。


てっちゃんは、浮腫みがどんどんひどくなっていって、
手も足もムチムチになっちゃって、
顔つきも少し変わってきちゃって、
苦しそうに見えた。

左眼だったと思うけど、目も腫れ上がってきちゃって、瞼が閉じきれなくなってた。


腕や顔をさすってあげて、とにかく私が隣にいることを知らせ続けてあげることしか、
できなかった。

ずっと病室にいて、ただただ体をさすって、
返答のないてっちゃんにひたすら話しかけていただけなんだけど、
なぜか時間が流れるのがすごく早く感じた。


足の付け根の出血していた箇所は、看護師さんがこまめに確認して処置も続けてくれていたが、たしか夜中2時頃になって、また出血が多くなってきたと説明を受けた。


その頃だったと思うけど、S先生が、


「てっちゃんのボスにもう一回連絡しておこうか」


と、この先何があるかわからないから、今のうちに連絡しておこうと言ってくれたんだったと思う。

ボスは、夜中にもかかわらずすぐ病院に駆けつけてくれた。
てっちゃんに改めて会って、話をして、S先生から状況を聞いてくれて、
他の親しい同僚にも今から連絡をしようということになった。


そこからどれだけ経ってからのことだったかわからないけど、

主治医の先生が、最後の提案を私たちにしてきた。

私の記憶にあるのは、その説明をS先生が訳してくれた言葉だけ。



「てっちゃんの血圧が不安定で、心電図の状態もかなりよくない。傷口の出血ももう止められない状況になってるし、脳ヘルニアも起こってて、もうこれ以上負荷をかけるのは、てっちゃんを苦しませるだけになるだろうって。」




“てっちゃんをこれ以上苦しませる”




一番避けたいことだった。
一番耐えらえないことだった。

その先の決断を下すということがどういうことなのか、わかっていたんだとは思うけど、
でもそのことへの恐怖とか躊躇よりも、ただとにかく、てっちゃんをこれ以上苦しませることだけが嫌だった。


「鎮静剤を切って、他の機械も止めていく形になるよ。」


そういうようなことを言われた。

どれぐらいの時間をかけて何を考えたのか全く覚えていない。

今考えると、私は何とあっさりその決断を下したんだろうと、自分に問いたくなって、
その場でのその判断が本当に良かったのか、わからなくなってしまう。


「はい」と答えることで、
てっちゃんの命を絶つことになるということを、自分はどこまで考えていたのだろうって、自分を責めたくなるし、

でも、

「いいえ、それは嫌です」と答えたら、
命としては延ばせるのかもしれないけど、てっちゃんの身体がてっちゃんの身体じゃなくなっちゃうような勝手な感覚があって、それが耐えられなかった。

脳内圧がかなり高くなっている状態を私なりに想像して、

その状況を、てっちゃんのパンパンになった全身の浮腫みが表している気がして、

これ以上その状況を放っておくこと、続けることを選んだら、てっちゃんの身体がどうにかなっちゃう気がして、

そんなことはありえないのかもしれないけど、

でも、先生の提案を受け入れることが、てっちゃんを助けてあげる唯一の方法のようにも感じてしまった。



医学的には、たしかにあの時はもう限界だったのかもしれないし、私が拒否する余地はなかったのかもしれない。


でも、今でも、
あの時に「わかりました」と言ってしまったことが良かったのか、
ずっと考えている。

一生背負っていくことになるその決断を、
私はどこまでちゃんと考えられていたんだろうって、
きっとずっと問い続ける。




これ以上の治療の継続はしない、という決断を主治医の先生に伝えると、


「あまり時間はかけられないけれど、今いる友人の皆さんに最後の挨拶をしてもらいますか?」


と言われた。
もう完全に頭が回らなくなっていた私は、

「そうか、そうだよね」

と、最後の時ってそういうこか、って改めて気づいて、
友達夫婦や、てっちゃんのボス、その後駆けつけてくれていた同僚の一人に、順番に病室に入ってもらった。


私にも、てっちゃんと2人きりの時間を与えてもらった。


「時間は気にせず、ゆっくりでいいからね。」


と、看護師さんに言ってもらったことは覚えているけれど、
残念ながら、何をどう話したのかちゃんと覚えていない……



よく頑張ったね。
大好きだよ。
アメリカに連れてきてくれてありがとね。
でも、これから一人じゃどうしていいかわかんないよ。
てっちゃんいないと私無理だよ。
でも、てっちゃんだってなりたくてこうなったわけじゃないもんね…
ごめんね。
よく頑張ったね。
ありがとね。
大好きだよ。

………


そんなことを繰り返していた気がする。


最後って言われたって、何の準備もしてなかったから、
大したことも話せなかったんだと思う。


髪をたくさん撫でてあげたことと、頬をたくさんさすってあげたことしかちゃんと覚えていない。
逆に、その髪と肌の感覚は、今でもものすごくハッキリと覚えている。





その場にいた皆でてっちゃんのベッドを囲んであげて、最後の声かけをした。

そして、ついにか…と思ったら、
鎮静剤や他の機器を切っていく作業をする間は全員外に出るように言われてしまった。



「え、てっちゃんが最後の瞬間に隣についててあげられないの!?」



信じられなかった…。

でも、そんな最後を突き付けられて、そんなの無理ですと言い返すほどの力ももう残ってなくて、言いなりになるしかなかった。


友達に支えてもらいながら、病室の外に出て、廊下に並んで待った。


ガラス張りの壁もカーテンで遮られちゃって、中の状況も全くわからなかった。
私がてっちゃんだったら…と考えたら、寂しくて耐えられなくて、申し訳なくて、かわいそうで……。


「この後、てっちゃんの顔を見た時には、もうてっちゃんは私の声聞こえないのかな…」


「ごめんね、てっちゃん。」


そう思ったのは覚えている。



その時、看護師さんが病室から勢いよく出てきて、突然こう言ってくれた。


「Shino!中に入る?もう鎮静剤は切ったけど、彼はまだ自分の力で生きてるわ!」



「Yes!!!」


そう言って、病室に飛び込んだ。



てっちゃんの手を握って、


「いるよ!隣にいるからね!ごめんね、近くにいてあげられなくて。」


そんなようなことを伝えた。

いくつもつなげていた点滴のポンプは、すでに電源が切られていて、
呼吸器の機械の「シューボッ」っていう音も無くなってて、
でも心電図だったかなんだったかの音だけが「ピッピッ」とまだ鳴っていた。



「ありがとう、てっちゃん。」

「お父さんとお母さんきたら、てっちゃんがどんなに頑張ったか、ちゃんと全部伝えるからね。」

「本当によく頑張ったね。幸せだったよ。」

「ありがとう。ごめんね。ありがとう。」



主治医の先生が聴診器をてっちゃんの胸に当てた。



「He has just passed away.」



すぐに時計を確認した。


1月20日の、朝6時30分ちょうどだった。


外がうっすら明るくなっていた。





てっちゃんの胸に耳を当てた。



一緒に寝ていた時によく聞いていた、てっちゃんの心臓の音。



もう、聞こえない。



呼吸で胸が膨らむことも、ない。



まだ温かいのに。






逝っちゃった。。。






呼吸器のチューブが口に入ったままで、まだ苦しそうな姿ではあったけど、
でも無理やりに動かされてた臓器が全部止まって、
ほんの少しだけ、
少しだけだけど、
穏やかな顔になったように見えた。




先生や看護師さんが部屋を出て、また2人の時間を作ってくれた。

それからどうやってその時間に区切りをつけたのか、
どうやって部屋を出たのか、
誰かが出してくれたのか、

全く記憶がない。


看護師さんに強く強く抱きしめてもらったことは覚えているけれど。




ICUを出てすぐのところに、私たち専用の控室を特別に用意してくれて、
朝になって駆けつけてくるであろう友達が来ても困らないように、
私たちが少しでも落ち着いて過ごせるように、
そこに残ることを許可してもらった。


全ての機器をてっちゃんの身体から取り外したりする必要もあったし、
とにかくそこにいるように言われたんだと思う。




2017年2月26日日曜日

あの時のこと。1月19日。夜。宣告。




2016年1月19日、火曜日。夜のこと。




神経内科の先生が来て、

「でもまだ対光反射が若干みられる」

って言ってくれてたのが、このときだったか、異常があったのが左眼だけの時のことだったか、わからなくなってる…。


自分の記憶の中での、そのとき目にしていた映像や、話をした相手、内容、全てがかなり断片的で、でもボーっとしていたというより、頭がフル回転していて整理する余裕がなかったという感覚がある。


他動的にであれ、瞼を持ち上げてあげれば、
ちゃんと真っ直ぐ前を見ているてっちゃんの顔で、

でもそれは私が知ってるいつものてっちゃんの眼ではなくて、

たしかに正常ではなくて、

目の前にてっちゃんはいるのに、目は合わなくて、

話すこともできなくて、

それはてっちゃんなんだけど、てっちゃんじゃないような、

何とも言い切れない感覚で、


でもまた自分から目を覚ましてくれる、その奇跡だけを信じてた。


状態がさらに悪化したと聞いて、もちろんすごくショックだったけど、
その先に何が待ってるのか、それがどういう意味なのかを考える気は全くなかった。

というか、考えられていなかった。


話しかければきっと聞こえてる、呼びかければきっとわかってる…



姉兄からのアドバイスを胸に、とにかくそう思ってひたすら声をかけ続けてた。


でも、そんな想いだけで動いてはいられないんだということを突き付けられた。

いつでも私を温かくサポートしてくれて、親切にしてくれていた看護師さんからもついに、


「少し話しかけるのをやめて、彼から離れててもらえるかしら。血圧があがってしまってて、今これ以上刺激をあげたくないわ。あなたが声をかけることすらも刺激になってしまうかもしれない。」



と言われてしまった。

もちろん看護師さんが私に冷たくしたわけではないことはわかっていたし、
それがてっちゃんのことを一番に考えてのことだということはわかった。


でも、

てっちゃんを目の前にしながら、
手を握っていてあげることも、
声をかけてあげることもできずに、

ただ、そこにいるしかない、

その無力さは、本当に本当に耐えられなかった。

目の前にいるのに、
何もしてあげられなくて、
すごく淋しくて、
てっちゃんも心細いだろうなと思うと、余計に苦しくて、
たった数十cmほどしか離れてないのに、てっちゃんがすごく遠く感じてしまって、
体中がぐーーっと締め付けられる思いがした。


そのときはたしか病室に私は一人だったんだと思う。


ECMOのカテーテルを挿入してる左足の付け根のところから、少し出血が起こっていると看護師さんに聞いたのは、たしかこの頃だったかな。


どれだけ病室を出入りしてたのか覚えていない。
基本的にずっと病室にいて、話しかけることを止められたその時以外、ずっと声をかけ続けていたんだと思う。


「聞こえるはず」

の信念だけで…

何を話していたのかほとんど覚えていない。


「お父さんとお母さんが、日本で飛行機のチケット手配してくれて、明日の夜にはこっちに着けそうだって!一緒にがんばろうね。それまでずっと私がついてるから心配しないでね。」


覚えてるのはそう話したことだけ。




その次に記憶があるのは、

しばらくして、ずっと付き添ってくれていた友達も一緒に病室にいてくれた時に、
今度は脳神経外科の先生がやってきたときのこと。

私たちはてっちゃんの左側に立って、手を握っていた。


いわゆるオペ用のユニフォームと帽子を身につけて、大きなマスクをつけた男性の先生が二人、てっちゃんを挟んで立つように、てっちゃんの右側のスペースに入ってきた。


マスクをしていたから余計に仕方ないのだけれど、
目つきもあんまり温かくなくて、正直良い印象はあまりなかった。

脳外科の先生だということはわかったのだから、そういう自己紹介を受けたんだと思う。

主治医の先生から大体の状況や経過に関しては、もちろん事前に聞いていたんだと思うけど、
心電図のモニターやその他の機器の設定などを簡単に確認して、
てっちゃんの瞳孔の反射を見ていった。


そして、ほとんど動きがなかったてっちゃんの右側の胸の前面、腕の付け根のあたりを、ぐぃーっと強くつねった。



それが痛覚に対する反応を見るための、必要な検査であることはわかっていた。

それに反応できるかということが、大きな意味を持っていることもわかっていた。

だから、それなりに強い力でつねることも必要なこともわかっていた。

反応にムラがあれば、何度か繰り返して確認することも必要なのはわかっていた。



でも、何の説明も断りもなく、検査を始めて、
てっちゃんの身体を強い力でつねりあげて、
たしかに正常な反応ではなかったかもしれないけど、
でもてっちゃんは実際に反応を見せていて、
ということはてっちゃんは「痛い」と訴えているのであって、


なのに、無言で何度も何度も…


私が握ってあげていた左手も「痛い!」と訴えていたのに…。
てっちゃんはわかっているし、聞こえているのに…。



必要性はわかるけど、
でもまるで、てっちゃんを「生きてる一人の人間」として扱っていないようなその先生の行動に、ものすごく腹が立って、
その先生の手を払いたくなるほど見ているのが苦しくて、
でも、そんなときにパッと感情を表現する英語も見つからなくて、
でもだからと言って、それが先生であろうと何であろうと許せなくて、

心の中で

「もうやめてよ!もうわかったでしょ!」

って、叫んだ。
怒りを抑えられなくて、目を背けることしかできなかった。


そして、てっちゃんの身体から先生が手を放してくれた瞬間、
つねられて赤くなっちゃったてっちゃんの肌をさすってあげた。

先生が日本語がわからないのをいいことに、


「痛かったよね。ごめんね。嫌だったよね。」


って、てっちゃんに声をかけた。


そして、こう言われた。

一生忘れられない言葉。
これだけはハッキリと英語で覚えている言葉。





“There is a big chance....that he will never wake up.”





直訳すれば、
「大きなチャンスがあります…彼がもうこれ以上目を覚まさないと。」

意識を取り戻す可能性はかなり低いと…。


私の英語力が足りなかったのかもしれないけれど、

「chance」

という言葉から始まったその先生の言葉に、
それまでの先生の印象が全部ひっくり返るほどの期待を一瞬してしまって、
そうしたら、その2秒後の言葉に全部打ちのめされた。


その「chance」という言葉を、
そういう「可能性」と捉えるべきだったというのはわかったけれど、
そういう表現をした先生がなぜか許せなくて、

しかも突然やってきて、
必要な検査だけを勝手に始めて、
てっちゃんの気持ちも、私の気持ちも、考えているとは思えないような態度で、
主治医と意見を交換し合うこともなく、ただいきなりそんな言葉だけを放つ先生が許せなかった。



たしか、言われたことを確認するために自分で何かを聞き直した気がするけれど、
全く態度を変える素振りを見せない先生に絶望して、

そしたらその瞬間、その先生の言葉の意味が現実として自分を押しつぶしてきて、

てっちゃんの手を握りながらその場に座り込んだ。


自分が泣き叫んでることを自分で感じながら、

ボーっとする頭の中で、その怒りと悲しみを泣き声に変えることしかできなかった。



頭が真っ白、
目の前が真っ暗、

ってこういうことなのかなって、その感覚はあった。


その先生はそのまま病室を出て行った。


隣にいてくれた友達が、私を抱き寄せてくれて、


「Shino、少し病室の外に出よう。ここで大きな声で泣いていたら、Tetsuyaがそれを聞いて心配するわ。Tetsuyaは聞こえているんだもん。何かあったら看護師さんたちがすぐに知らせに来てくれるから、Tetsuyaは大丈夫だから、Tetsuyaに心配をかけないように一回外で話そう、ね。」


と言って、私を立たせてくれた。

離れたくなかったけど、その通りだと思った。


友達に支えられながら、ICUの外に出て、夜間用に照明が落とされた談話スペースのソファに座った。

友達に横になるように勧められて、ソファの上に横になった。
友達が背中や腕をずっとさすっていてくれた。

その日もそのスペースの夜の見守り番をしてくれていたスタッフの人が、
心配して友達夫婦に話しかけてくれたりする声を聞いていたら、
意識が遠のいていくのを感じた。


眠りに入るというより、気を失う感覚だった。



2017年2月11日土曜日

あの時のこと。1月19日。日中のこと。



2016年1月19日、火曜日。日中のこと。



てっちゃんの左眼の瞳孔が開き、対光反射がなくなっていた。。。

そのとき私は、なんだか怖くててっちゃんの眼球を覗き込めなかったけど、先生がそう説明してくれた。
脳梗塞か脳出血かが起こっているだろうと。


「え…次は脳…?」


心臓に、肺に、腎臓に、肝臓に…
そこに脳まで…。

理論的にあり得ることはわかったけど、
二次的に次々起こってくる問題に、怒りというか理不尽さというか、てっちゃんの生活習慣とかそういうことじゃないのに、なんでこんなにてっちゃんの身体が次々ボロボロにされちゃうのか、苛立ちを感じて、何もしてあげられない自分にも、先生たちも追いついていけない変化の速さにも、無力感と絶望感でいっぱいだった。


ただ、CTを取りに行くことができなかった。

心臓も肺も、自分の力では機能しなくなっていたてっちゃんの身体を、病室から動かすわけにはいかなかった。


それまでも、主治医の先生以外に、呼吸器科専門の先生や腎臓内科の先生、それ以外にもいろいろなスタッフの方たちがてっちゃんの治療に関わってくれていたが、そこに神経内科の先生も加わった。


CTをとりにいけない状況では、それ以外の情報から、てっちゃんの頭の中の状態を探るしかなかった。
瞳孔の反応を、何度も慎重に確認してくれて、でもやはり脳内の状態をもう少し把握したいから、一時的に鎮静剤を止めてみようということになった。
鎮静剤を止めれば、身体の動きや反応を見られるかもしれないからと。

その他にも脳波の検査もやった。


看護師さんが鎮静剤を止めてくれて、


「話しかけてあげて。反応はないかもしれないけど、彼は今あなたの声が聞こえてるはずよ。彼は今自分がどんな状態かわからなくて、何が起こってるか知らないだろうから、あなたからいろいろ話してあげるといいわ。」


と言ってくれた。

状況は深刻になっていたんだろうし、全く良い方向ではなかったのかもしれないけれど、正直私は、


「またてっちゃんと話せるかもしれない。私の声かけにてっちゃんがリアクションしてくれるかもしれない!」


と、鎮静剤を切らなきゃいけない理由が前向きなものではないことは、頭の中ですっ飛ばしていて、それでも話せるかもしれないというほうの喜びというか、期待のほうが大きかった感覚を覚えている。

自分がてっちゃんのためにしてあげられることが、やっとできた気がした。


ここがどこで、今が何日の何時で、あれから何があったのか、
てっちゃんに簡単に説明した。

きっと意識のハッキリしない中で、いつもの調子でいろいろ喋られると、てっちゃんは嫌がるだろうなと思って、高まる気持ちを抑えながら、できるだけ簡単に、ゆっくり話した。

目を閉じたままのてっちゃんに…
パッと目を開けてくれるわけもなく…


このあたりはもう、兄姉とのLINEの記録も途切れ途切れになっていて(電話でのやり取りが増えていて)、記憶が混在しているせいで、時間の流れや出来事の起こった順番がはっきりしなくなっているのだけど、
朝になって何時頃だか、てっちゃんの研究室のボスや、私たち二人がプライベートですごく親しくしていた友達夫婦にも連絡して、すぐに病院まで駆けつけてくれて、S先生の奥さんも歯ブラシや手作りのおにぎりなどを持って、また戻ってきてくれて、交代で面会もしてもらっていた。


何度か話しかけているうちに、てっちゃんは左の肘を曲げたり、手を握ろうとしてくれたり、首を動かそうと少し左右に動かしてくれたり、時には瞼が動きそうになったりもした。

話しかけた声にすぐに返事してくれてるように反応することもあれば、
もう疲れたよ、というようにリアクションが薄かったり遅かったりするときもあれば、
わかったわかった、と言ってるかのように、数回腕を動かしてピタリと止まることもあった。

でも確実に反応してくれていた。


右腕の反応はほとんどなかった。
一回だけ、私が手を握りながら何度も声をかけた時に、わずかに握ってくれたように感じたこともあったけど、それっきりだった。


反応がみえていることは良い兆候だからと、神経内科の先生はしばらくこのまま様子を見ましょうと、それ以降30分~1時間に一度は病室に来てくださって、てっちゃんのちょっとした変化も見逃さないように関わってくださった。


本当に驚いたのは、その親しくしていたアメリカ人でクリスチャンの友達夫婦が、てっちゃんのためにお祈りをしたいと言ってくれたときのことだった。

面会は一度に2人ずつだったから、私ともう一人誰かという形で、その夫婦にもそれぞれ分かれて病室に入ってもらって、お祈りもそれぞれがしてくれた。


てっちゃんの左手を握りしめて、反対の手をてっちゃんの肩にのせて…


そうすると、お祈りをしてくれている間のてっちゃんの反応が、それまでに見たことのない頻度と大きさとで見られた。

左の肘を大きく何度も曲げて見せて、そのまま腕が上がってしまいそうなほどだった。

しかも、旦那さんと奥さんとそれぞれの時どっちも。
私が話しかけた時より、二回とも明らかだった。


てっちゃんの、その友達への想いがそうさせたのか、もしかしてイエスがてっちゃんに力をくれたのか……


あの瞬間は本当に不思議だった。
そして、それだけの力をてっちゃんがまだ持っていることを目にして、本当に嬉しくて感動して涙が止まらなかった。



友達や研究室のボスも来てくれたおかげで、私の気持ちもだいぶ楽になっていた。

てっちゃんがもし何とか回復して、意識を取り戻してくれたとしても、かなり重い麻痺が身体に残るだろうし、それはてっちゃんにとって余計に苦しいことなんじゃないかとか、それで仕事ができなくなっちゃったら、てっちゃんは……
とか、
一応でもリハビリに関わっていた私が隣で見ている中で、リハビリをしなきゃいけない状況なんて、てっちゃんすごく嫌がるだろうから、その時は絶対ただ黙って支え続けよう…とか、
変に先のことまで考えちゃって、それはそれでもちろん怖かったけど、

てっちゃんの隣に居続けられるなら、どんなことも全力で立ち向かう覚悟がすでにできていた。


そう思いながら病室から外の景色を見ていたことを、すごく覚えている。


透析を開始するために少し準備が必要だからと、しばらく病室を出るように指示を受けた。
すでに昼近かったので、病院の一階にあったカフェテリアで、一緒にいてくれた友達と食事に行ってみることにした。

友達が持ってきてくれたサラダやスープを食べてみたけれど、やっぱり大して食欲もなく、食べてもすぐ気持ち悪くなっちゃって、少ししか食べられなかった。
友達はすごく心配してくれたけど、でも体調が悪い感覚はなくて、私自身の気力も、夜中に比べたらだいぶ戻っていた。

話を聞きつけた他の友達や、私が通っていた英語学校の先生まで、駆けつけてきてくれてたくさん励ましてもらった。
とにかくみんな、てっちゃんはあんなに若いんだから大丈夫と、みんなが前向きな言葉をかけてくれた。


そうして少し私も気分転換をして、たしか、透析が始まったと報告を受けてからまた病室に戻らせてもらった。
2時だか3時だか、それぐらいだったと思う。

その日はS先生は仕事があったため、そのアメリカ人夫婦が付きっきりで私とてっちゃんに付き添ってくれていた。
その二人は、私がわかりやすい言葉とスピードで話をするのが本当に上手で、先生の話で理解が曖昧なことがあったら、遠慮なく聞くことができた。


看護師さんは24時間、完全二人体制でてっちゃんの看護にあたってくれて、主治医の先生も休みなしで病院にいてくれているようだった。

脳浮腫の増悪予防と軽減のために点滴を追加していたので、とにかく心臓の働きが戻せるまで、脳内の状態を維持することを目標に治療を続けた。



でも、いつまで経っても、その原因になるウィルスが何だったのかが、検査結果に出てきてくれず不明のままだった。
主治医をはじめ、先生たちがみんな、その謎に頭を抱えていた。

(あとから知ったのだけれど、その時に調べてくれていたウィルスの種類は相当の数で、日本の病院だったら絶対にこれ程の検査はやってもらえない、ということだった。)



そんなこんなで、もう数時間経っていたんだろうか。
病室を10分だか20分だか、離れた時があった。

病室に戻ると、看護師さんが


「さっきちょっとむせ込んだんだけど、今は落ち着いたわ。」


と報告してくれた。
少しすると主治医の先生も、てっちゃんの様子を見に来てくださった。


先生がてっちゃんの瞳孔の反射を改めて確認すると、右眼の瞳孔もさっきまで見ていたより開いていた……


この時は、私もハッキリと見た。
見せてもらった。

前回検査してくれた時に見ていたてっちゃんの眼じゃなかった。。。



2017年1月29日日曜日

あの時のこと。1月19日。



2016年1月19日、火曜日。C病院にて。



18日の朝に救急のクリニックを受診して、その後さらに2ヶ所の病院を経由して、夕方暗くなってから、4ヶ所目になるC病院に入院。

すぐに手術を始め、23時過ぎに手術が終わったと報告を受けた(前回の投稿では22時と書いたが違ったみたい)けど、報告を受けたままでどうなっているのかわからないまま、病室には入れないまま、日をまたごうとしていた。


てっちゃんのお父さんから、アメリカ行きのチケットが手配できたとメールをもらったのもこの時だったことが、こうやって振り返ってわかった。

たった1日のうちに起こったことが、本当にたくさんありすぎて、自分でこうやって書いてこうやって振り返って、改めておそろしくなる。



LINEの記録によると、そのあと先生が一回説明に来たのは夜中の2時前だったよう。


手術室からICU内の病室には戻ったが、術中に出血した左大腿部から再出血して、かなり量が多いからまた状態が危ない、と。
肝不全や腎不全も起き始めていて、止血もなかなかうまくいかない、と。
だからまだ面会はできない、と。


「えっ……?」



そうとしか思えなかった。

出血多量と聞いて、その状態を勝手に想像して、想像しただけでパニックになりそうで、
あんなに大変な状況を乗り越えたのに、それでもまだてっちゃんにこんな困難を降りかけてくる現実に、苛立ちと悔しさもあって、
でもてっちゃんのことを思ったら、麻酔はかかっているとはいえ、太ももからホースのような管を入れられて、そこから大量出血なんて、かわいそうで仕方なくて、
せめて近くで手を握って、声をかけてあげたいのに、それもできなくて、
本当に狂いそうだった。


“もしかして、このままてっちゃんと話ができずに……”


そんなことが実際に私の頭によぎるようになっちゃって、
その恐怖と不安がとにかく全身に襲ってきて、
ソファに座りながら、兄姉にLINEをして励ましてもらいながら、一言二言返答するのが精一杯だった。

兄姉から、

「直接顔を見られなくても、とにかく心の中だけでもいいから、てっちゃんに大声で呼びかけて。とにかく信じるしかない!」

と言ってもらって、ただそう言われたままに、心の中でてっちゃんに話しかけ続けた。



一時間ぐらいして、また先生が説明に来たと兄姉に連絡している記録がある。

出血はとりあえず今止まってきた、と報告しに来てくれた。
10人以上の先生や看護師さんが、てっちゃんを救うために中では動いてくれていることを教えてくれた。

ただ、血管を多少損傷してしまったからその処置もこの後しなくてはいけないということと、腎不全に対して、今後透析を開始することを至急考えていかなくちゃいけないということも説明された。
だから、状況が落ちついた時点で呼びに来るので、と。


S先生にも意見を聞きながらだったけど、透析は必要な状態だったんだろうし、もうそもそも、てっちゃんが助かるなら手段を選んでいる余裕はなかった。

心臓も肺も、肝臓も腎臓も、てっちゃんの身体がどんどん蝕まれていっている状況を聞いて、理論的には相当深刻であることもわかっていたつもりだったけど、でもそれでも、てっちゃんはきっとそのすべてを、どんなに時間がかかっても克服する無敵な力を持っているんだと、本当に根拠のない、てっちゃんを信じる思いだけで話を受け止めた。



S先生は次の日から仕事もあったため、たしかこの辺りで一旦帰宅してもらうことにしたんだと思う。
何かがあったり、先生の説明を英語で理解しきれないようなときは連絡をさせてもらうということにして…

というか、朝になるまでの間に、数時間自分一人だった時間があった記憶があるだけなのだけれど。。。


長ソファに少し横になって頭を休めることにした。
薄暗くて、頭が朦朧としていて、涙のせいもあったのか、視野がぼやけていたような記憶がある。


ぼーっとしていたら、数分眠りに落ちたらしかった。
誰かに声を掛けられて目を覚まして、自分が眠っていたことに気付いた。
目の前にいるのが誰なのか、頭のモードを戻すために数秒かかった。

主治医をしてくれた少し年配の男性の先生と、サブの主治医というか、実際にてっちゃんにつきっきりで治療をしてくれていた若い女性の先生とが二人で話しにきてくれていた。


やっと少し状況が落ちついたので、もうすぐ中に会いに行けると思うということ、
今起こっていることの再確認、
そして、これから必要になるかもしれない治療について、
とにかく、てっちゃんの年齢の若さと生命力を信じて、一緒にがんばっていくしかないということ、

そんなことを話してくれた。


英語のサポートをしてくれていたS先生がいなかったため、
私がちゃんと理解をしているか、聞きたいことはないか、たどたどしい私の英語にペースを合わせて、私の話にも耳を傾けてくれた。


そのあと、自分の両親と少し電話で話をしたらしい。
何をどんなふうに話したか覚えていないけど、私が一人で待っている状況を知った母親がとにかく心配してくれていた。



結局、私がてっちゃんに会いに行けたのは、朝になってからだった。
朝7時半に、兄姉に、顔を見に行けたことを報告している。


CICU内は全ての患者さんが個室に入っていて、病室の廊下側の部分がガラス張りになっていた。

何人もの先生が関わってくれていると聞いてはいたが、本当だった。
ICUの入り口ドアが開いた瞬間に、その先に長く続く病室の列のどこがてっちゃんの部屋なのかが一目瞭然だった。
看護師さんが出たり入ったりしていて、仕切りの窓ガラスの外には何人かの先生が話をしていた。


病室の中を見ると、てっちゃんは病室の中央に置かれたベッドにこっちを向く形で寝ていて、ベッドの右側には点滴が10本以上ぶらさがっていた。
足元にはECMOの機械が置かれていて、頭の奥には人工呼吸器の機械が置かれていた。


壮絶…


壮絶な時間がここで流れていたことを一瞬で感じた。


手を握ってあげていいか看護師さんに聞くと、

「Sure!!」

と、答えてくれ、点滴のルートがどこをどう通っているとか、これだけは気をつけてほしいとか、丁寧に説明してくれた。

本当に有難いことに、私はそれ以降、基本的に(何か緊急の治療がまた必要になることがない限り)てっちゃんの病室内に、いつでもどれだけでも居ていいと言ってもらえた。
日本ではありえなかった。

「お見舞いの人には、一回に2人だけしか入ってもらえないけど、あなたはいつでもいていいのよ。近くにいてあげて。ただ、あなたが具合悪くなってもいけないんだからね。」

と看護師さんが説明してくれた。


点滴の交換や、カルテの入力、傷口の確認など、やるべきことを淡々と進めながら、
私には絶対に心配にさせるような発言をせずにいてくれて、
私がこれは何か、あれはどういう意味か、あれこれ聞くことにもしっかりと答えてくれて、

てっちゃんの名前がローマ字読みだとどう発音していいのかわからないからと、
てっちゃんに呼びかける時にどんな風に呼ぶのがいいか教えてほしいとか、
てっちゃんの髪型がおしゃれだとか、
てっちゃんはどんな研究をしているのかとか、

そんな話もしてきてくれた。


一番印象に残っているのは、


「彼は今こうやって機械につなげられて、その力を借りて命を保っている状態だけど、でもこの機械たちをしっかり管理して動かしている限り、彼は大丈夫よ。これで彼の状態を保って、ウィルスを身体から排除できれば、彼はまた自分の力を取り戻すわ。」


そう言ってくれたことだった。

てっちゃんの近くにいられるようになったことは何よりも大きな力だったし、てっちゃんにとってもそうだったと信じているけれど、
それに加えて、看護師さんからの精神的な支えは本当に大きくて、てっちゃんだけじゃなくて私のことも支えていこうと思ってくれている気持ちがハッキリ伝わってきて、かなり楽になったことを覚えている。


看護師さんの勧めもあって、少してっちゃんとの時間を過ごした後、そこからの長期戦に備えて、一旦体を休めるなり、家に帰ってシャワーを浴びたり着替えをしに行ったり、そんなことを考えようと思った。
てっちゃんのために家から持ってきてあげられるものは…と考えたけど、洋服を着られる状況でも、何かを食べられる状況でもなくて、てっちゃんのためにしてあげられることが、本当に手を握っててあげることしかない現実が悔しくて仕方がなかった。




S先生が私たちの車に乗って帰宅していたので、朝また戻ってきてくれるまで少し休むことにした。

30分ぐらいだけ仮眠をとったらしい。
院内も電気がついて、朝の光も入ってきて、昼間の雰囲気に変わり、待合のスペースにも人が増えていった。


たしか朝の8時半ぐらいだったと思う。
またてっちゃんに会いに行った。
たしかS先生がまた戻ってきてくれた時だと思う。


基本的な状況は変わらなかったけど、少しすると先生が少しソワソワしているのを感じた。




2017年1月19日木曜日

あの時のこと。1月18日。3度目の転院。



書くのに時間がかかる。
命日をどうしても過剰に意識してしまって、命日までにあの時のことを書き上げたいのに、やっぱりすごく時間がかかる。
胸のドキドキが止まらなくなって休み休みしか書けない。

ダメだ、やっぱり。
焦って書くより、時間かけてでも、しっかり向き合おう。

てっちゃんならたぶん、「別にそんな日付とか変に意識しないで、できるときにやればいいじゃん。」って、またちょっと鼻で笑うようにして言うのかなって思う。
考えすぎたり、勘ぐりすぎたり、気にしすぎたり、そんな私の性格でケンカしたこともたくさんあったな。。。



ということで、またこの後のことは、書けそうな時に書いていきます。





2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)から4つ目の病院(C病院)へ。



とにかく長く感じた時間のあと、先生だったか看護師さんだったかが声をかけに来てくれて、中に来てもらえる状態になったから、てっちゃんと会ってもいいと言ってくれた。
廊下を歩きながら、深呼吸をして、てっちゃんの顔をまた見られる嬉しさと、現実を目にしなきゃいけない緊張とを消化しながらICUまで急いだ。


そのあたりから、私の意識は、視野が狭くなったような感覚というか、周りの人の様子とか音声とかそういうものがほとんど入らなくなっていたんだと思う。



先生や看護師さんと何を話したかとか細かいことは覚えてないけど、とにかく衝撃だった光景…

想像だってしてたのに、覚悟だってしてたのに、ショックだったてっちゃんの姿…


私の腰の高さぐらいまで上げられたベッドの上で、仰向けにされてるてっちゃんは、
目を閉じて、挿管されていて、家から着て来ていた服を脱がされていて、
腰から下には薄い掛物がしてあったけど、
胸の上には、電気ショックの大きな赤い四角い跡が2ヶ所くっきり残っていた。


入っていいと言われた病室には、床を掃除してくれるおばちゃんや、点滴の管理とかをしてくれてる看護師さんがいて、先生たちはガラス越しの廊下でまだいろいろ話していた、と思う。


ベッドの横に立って、てっちゃんの手を握った。

血が巡り直したような、自然な温かみを感じた。

正直、本当にホッとした。

でも、もう握り返してくれる手ではなかった。


私の思い込みかもしれないけど、ものすごい山を乗り越えたてっちゃんは、疲れ切って眠っているような、苦しそうというより、「やっと眠れるわ」と肩の力を抜ききったような顔をしているように見えた。


「てっちゃん……。偉かったね。本当よく乗り切ったね。苦しかったでしょう。本当頑張ったね。偉かったね。」


そんなふうに声をかけた。


先生からは、今転院の準備をしているから、もう少し待ってて下さいと言われた。
低体温状態を維持した方がいいと思うので…という話をされたり、なんだかいくつか説明を受けた気がするけど、正直、とにかく転院までもうちょっとだけ待ってという事実しか耳に入ってなかった。

低体温療法をすると言われて、医学的に必要なんだろうとは思ったけど、
服も着ずにシーツのような薄い掛物しかしていなかったてっちゃんを目の前にしていた私は、

「てっちゃん寒くて仕方ないだろうに…かわいそう。」

と、それが治療だということを素直に受け止められない感覚もあった。



でもとにかく、処置や手続きに関しては、必要と言われるものを進めてもらうしかなくて、
それが進んでいくのを私はただ待って受け入れていくしかなかった。

若い看護師さんが何人か、話しかけてきてくれて、
てっちゃんは本当によく乗り切ってくれたと言ってくれた。

アメリカに他の家族は住んでいるのかとか、いつ頃アメリカに来たのかとか、
患者の情報収集をするためというより、
外国から来ているらしい若い夫婦にこんなことが起こって、本当に心配とか心が痛むとか、そんな想いをもって話をしてきてくれているのを感じて、すごく楽になったし親近感を感じた。

私の肩を抱き寄せて、何も言わずに想いを共有しようとしてくれる、その力に本当に救われた。


なんだかんだと、少なくともそこから30分ぐらいはかかったと思う。もっと長かったんだろうか。
転院に必要な手続きのために、書類にサインしたり、診療記録に必要な情報を話したり、そんなようなことをしていたと思う。



搬送をしてくれる救急隊員の人たちが来てくれて、準備が進んだ。
まだあまりにも状態が不安定だったてっちゃんを、万全の態勢で搬送できるように、先生たちと綿密なやりとりをしてくれていた。


先生や看護師さんにお礼をして、落ちついたらその後の経過を必ず報告しにまた来ますと、その看護師さんに伝えてその場を後にした。
てっちゃんは搬送専用の経路でC病院に向かうから、とやっぱり付き添い続けることはできず、S先生とB病院を出て、道路を挟んで一ブロック隣にあるC病院に歩いて向かった。


外はすっかり暗くなっていて、とにかく寒かった。

その暗さと寒さは今でもはっきり覚えている。

てっちゃんはもちろん、私たちも大きな壁を一つ乗り越えた後の小休憩というか、
でもこの先にまだまだ更に大きい壁があると覚悟をしなおすための時間のような、
とにかく身が引き締まる思いだった。



てっちゃんが入る予定のCICU(心臓疾患の集中治療室)の外に、談話スペースというか、ソファやテーブルが並べてある広いスペースに私たちは到着して、たしか、その談話スペースの見守り番をしていたスタッフの人に、てっちゃんがすでに運ばれてきているか問い合わせをしてもらったんだと思う。
B病院に運び込まれた時のように、搬送が済んだら一旦病室に案内されるのだと思って、S先生とそこで待っていた。


まただいぶ待った。


まだ着いていないわけがない、と思い、もうすでに手術が始まっているのか、それともまた何かが起こってしまっているのか、搬送の間に急変したとか…!?
…そんなことをまた引っ切り無しに考えてしまって、何度もCICUの入り口の前まで行っては戻り…を繰り返した。



しばらくして、先生がやってきて、搬送後そのまま手術室に直行して、ECMOでの補助を開始するためにカテーテルを挿入する手術を開始していることを教えてくれた。
その後のてっちゃんの治療には、主に2人の先生が主治医として関わってくださって、それ以外にも2人ほど、逐一報告に来てくれる先生がいた。


ECMOというのは、膜型人工肺と訳されるようで、単純に言うと、患者さんの肺に変わって血液に酸素を供給する役目を機械が担うというもの。
本当にホースの太さぐらいあるカテーテルを足の付け根から入れて、静脈血を一旦取り出してECMO内に送り、そこで酸素を送り込んだ血液をまた体内に戻す、それを治療中ひたすらてっちゃんの肺の代わりにやってくれる装置。

つまり、心臓はインペラで、肺はECMOで、人間の身体で最も重要とも言える部分を、てっちゃんは機械に頼らないと命を保てない状態にあったということ。
(私の認識が間違っていなければだけれど…)


手術にはどれぐらいの時間がかかるのかと、その先生に聞くと、特に何も問題なくうまく挿入できれば45分ぐらいだと思いますと言われた。
そのとき、たしか夜の20時ぐらいだったと思う。

もうすでに20時であることに驚きながら、でも1時間ぐらいで終わると思えば、今夜中には少し落ち着いててっちゃんのそばにいてあげられるかな……
そんなことを今思えば本当に安易にだけど、心の中で思っていた。



ここからの記憶は、その時リアルタイムで自分の姉兄とやりとりをしていたLINEの記録が少しあるから、時間の流れとかはそこを頼りに書こうと思う。

それによると、手術中に私は、てっちゃんの実家に少なくとも一回連絡を入れていたらしい。


S先生も結局朝からずっと付き添ってくれていた。
手術が終わって状況を主治医から聞くまでは一緒にいると言ってくれたので、お言葉に甘えた。


順調にいけば終わると言われた45分を過ぎても連絡は来ず、
1時間を過ぎても、
1時間半を過ぎても、
終わったともまだ終わってないとも、何も連絡が来なくて、でも何かあれば必ず話に来てくれるだろうし…と思って、とにかく我慢した。祈った。


結局手術が終わったと、報告を受けたのは22時を過ぎてからだった。
カテーテルを挿入した部分からの出血が少しあって、それの処置で少し時間がかかっていたとの説明だった。
落ちついたら病室に案内できるだろうと言われ、また一つ、てっちゃんの命の糸がつながったことに本当に心から安心した。

これで全身状態は保ちやすくなるはずだから、今夜とあと二晩ぐらいを通して、状態が落ちついてくればだいぶ安心できるというような話を受けて、なんとなく先が見えた気がして、まだまだこれからが大変なのはわかっていたけど、でも、


「どうかもうこれ以上の苦難がてっちゃんに降りかかりませんように。」


ただただ、そう祈った。

その日は病院を離れられる状況ではなさそうだったし、その談話スペースで見守り番をしている夜勤のスタッフの人がすごく親切にしてくれて、毛布や枕も貸してくれたので、そこに残ることにした。手術が終わったと聞いて、多少の安心はしたものの、それまでの状況がトラウマになっていたのか、もう心のコントロールはほとんどつかなくなっていた。
(というようなことがLINEのやりとりに書いてあった)


でも、結局そこから日付をまたぐ時間になっても、病室に案内してくれる気配はなく、てっちゃんが病室に戻っているのかも、結局どうなっているのかもわからない時間がさらに数時間続いた。



2017年1月14日土曜日

あの時のこと。1月18日。3つ目の病院で。その後。



てっちゃん、ずっと書けないでいてゴメンね。
ここから先の話は、私が書かなければ、てっちゃんも自分自身の身体に何が起きてたのかわからないもんね。

あれから1年が経とうとしていて、もしかしたら、本当に細かい部分はすでに私の記憶からも薄くなっているかもしれない。
でも、やっぱり忘れたくないことばっかりだから、できる限り書くね。自分でも驚くけど、私すごくいろんなことたくさん覚えてるから。

ここまでの話。
1月14~15日
1月16日
1月17日
1月18日①
1月18日②
1月18日③



2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)にて。




“とにかくてっちゃんの家に電話をしなきゃ。。。”


時差を計算して、日本が朝の5時だったか6時頃だったと思う。

早朝にこんな電話をしてしまって、ただでさえアメリカからの国際電話で驚くだろうに、こんな知らせをしなくちゃいけないなんて…。

本当に申し訳ない気持ちと、
こんな状況になる前にもっと早く現状を知らせる電話をするべきだったのではないかと後悔する気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、
でも、私が冷静に話をしてあげないともっともっと動揺させちゃう…。

そう思って深呼吸したのは覚えている。



どんな風に説明したかは覚えていないけど、
電話をとったお義父さんは私を責めたてることも、問いただすこともなく、

「すぐにそっちに向かう手配をするから」

と言ってくれて、

「志野ちゃん一人で不安だと思うけど、できるだけすぐ行くからよろしくね。すまないね。」

と、私の心配までしてくれた。



実家にも電話をした。

とにかく、また状況が変わったり何かわかればこちらから連絡する、

ということを両方の親に伝えて、一度電話を切った…んだと思う。



そのとき、その状況に対して、かなり不安だったことも、緊張していたことも、動揺していたこともたしかだったけど、でもそれでもまだ、どこまで大げさにとらえるべきことなのかがわかっていなくて、

「大丈夫だよね?大丈夫だよね?このままなんてありえないよね?」

と、自分の頭の中で何度も自分を説得したのを覚えている。
待合室で、勝手に溢れ出てくる涙を抑えながら、そう声を出していたのを覚えている。


病院の事務の人がやってきて、入院の手続きをしなければいけないから、時間があるときに1階まで来てほしいと言われた。
S先生の判断で、ここから少し治療に時間がかかるだろうということで、すぐに向かった。

院内を歩きながら、とにかく現状を頭の中で整理しようと、てっちゃんの身体に何が起こっているのかを理解しようと、わからないことを一つ一つS先生に質問した。



手続きにくるように声をかけに来てくれたスタッフの人も、事務のスタッフの人も、やらなきゃいけないことは形式的な処理のことだったけど、表情も言葉がけも、すごく私を思いやってくれて、励ましの言葉をかけてくれた。
相当に敏感になっていた私には、その温かさすらも支えになった。



必要な手続きを終えて、また待合室に戻った。

S先生の経験と知識で、その時病室内ではどんなことが行われている可能性があるのか、この先どんなふうになる可能性があるのかを、客観的に、でも希望も含めながら教えてもらった。


心電図の状態から判断して、挿管の処置をする時に心停止が起きてしまう可能性は高いということ、
でもインペラという装置を使えば回復の余地があること、
それはまだ日本ではほとんどだか全くだか使われていない技術だということ、
何よりてっちゃんは若いし、それまでの心肺機能は健康そのものだったんだから、回復力は絶対に高いということ……

いろんなことを話してくれた。

主治医にあたる先生のことをすぐにスマホで調べてくれて、この先生は優秀な人のようだし、あの人は信頼して大丈夫だ、と、
最悪の時でも、心移植という方法がなんとかあるはずだから、と、
日本でできなくてもこっちだったらできる治療もあるから、大丈夫、とにかく信じよう、と

たくさんのことを教えてもらった。



どれぐらい待ったか覚えていない。
短い時間ではなかった。長かった。


しばらく待っていたら、さっき会った主治医の先生とは違う先生が待合室まで来てくれて、少し話をしたいと言ってきた。

前置きとして何を話したかは覚えてない。
どんな英語を使っていたかも覚えてない。
全部聞き取れていたかもわからない。

ただ、

「今、中で必死に治療をしていますが、すでに心停止を何回か繰り返していて、心肺蘇生を続けています。ただ、心室のリアクションがあまりにも悪く、すごく厳しい状態です。最悪のことも考えてください。So sorry for that...so sorry...」


そんなふうに自分の頭の中で和訳したことはハッキリと覚えている。
そんな訳のわからないことを言う先生の顔がぼやけて感じて、
そもそもよくわからない英語だらけだけど、一言でも聞き逃しちゃいけないと思って働かない頭を必死に動かそうとして、でもやっぱり右から左に流れて行ってる感じがした。

「なんてことをこの先生は私に向かって話しているんだろう。てっちゃんがさっきまで喋ってたの見てないんじゃないの。え、この先生、もうあきらめてるわけ…?」


文句とか、怒りとか、何とかして助けてよ!と泣きつきたい気持ちとか、何でもいいから湧き出てくる気持ちをぶつけたかった。
でもできなかった。

でも、うなずくことも嫌だった。
その告知を受け入れる気はなかった。


S先生が、考えられる治療の方向性、手段について、率直に全部聞いてくれた。
ちょっと会話のやりとりをして、その先生はまたICUに戻った。
私の頭は完全にシャットダウンしていた、と思う。

突然訪れた、今までの人生で感じたことのない、ものすごい不安と緊張というか…身体の芯がガッチガチだった。
何を考えていたか覚えてない。


しばらくすると、今度は主治医の先生が来てくれた。
きっとICUの中はものすごい状況だろうに、先生は穏やかな表情をしているように感じた。


S先生と私は、簡単にてっちゃんとの関係性を説明して、先生の話を聞いた。

「今、彼は中で本当に必死にがんばっています。心停止と蘇生を何回か繰り返して、ただ心室がほとんど動いてくれず、かなり大変でした。そこで先ほどから、心室のポンプ機能をサポートできるようにインペラを使い始めました。それもなかなか反応がなくて困ったんですが、やっとついさっきから少しリアクションしてくれるようになりました。ただ、まだあまりにも不安定で、安心はできません。」

そう言われた。
少し反応がみえたと聞いて、ホッとしたのは一瞬で、その一言あとにはまたどん底に突き落とされた。

その先生はそこから改めて、ここ数日での彼の症状の変化や、今まで病気などしていなかったかなど、私を通しての問診をした。
ウィルスが原因で起きたことだとは思うが、まだ原因が特定できていないと聞いたのも、この時だった気がする。

(書き忘れてたけど、たしか「心筋炎」という言葉は2ヶ所目の病院でS先生が私に話してくれたんだと思う…ちょっと混乱。)


その上でこういった。


「今まで心肺機能に全く問題がなくて、且つ彼ぐらい若い年齢で、ここまで急激に増悪するのは、雷が人間に直接落ちるぐらいの確率でしか起こらないことです。とにかく不運としか言いようがないです。ただ、彼のように年齢が若ければ、当然高齢の患者さんに比べて回復力は大きいですし、今回のように症状の増悪がすごく速い場合は、その分回復するときにはその回復も速いという情報もあります。」


この言葉があったかなかったかで、私のその先少なくとも数時間の気持ちは全然違ったと思う。
その瞬間は少なくとも、てっちゃんがすごいスピードで回復して、また笑ってくれる姿しか想像しなかった。

てっちゃんはそんなに簡単に負けない。

本気でそう思った。


てっちゃんの両親が今アメリカに向かう手配をしているということを伝えたのと、今はまだてっちゃんに会えないのかを聞いた。
今はまだ無理、ときっぱり言われてしまった。
また随時報告にきますと、そう言ってまた中に戻ってしまった。

一緒に連れて行ってほしいという思いと、私のことはどうでもいいから早くてっちゃんの元に戻って全力で治療してください!という思いと、もうメチャクチャだった。


それ以降、何回か経過報告のために日本に連絡を入れたと思うけど、どのタイミングだったか覚えていない。


そこからまた、頭を整理するためにS先生にとにかく質問をぶつけて、何度も同じことを確認したりして、とにかく頭の中を冷静でいさせる努力をした。

先生が新たに教えてくれたのは、たぶんこの先、状態が最低限安定したら、ECMO(エクモ)という機器を使って、血液の酸素化をしないといけないと思うということ。
それがこの病院でできるか知らないけど、少なくともうちのC病院(てっちゃんが働いていた場所)ならあるから、きっと連携をとってくれるということだった。


S先生の奥さんが改めて駆けつけてくれて、私のことを気遣ってくれた。



またしばらくして、また違うチームメンバーらしき先生が来てくれた。

「インペラを使って、やっと少しバイタルが安定してきました。ただ、これからECMOでの治療を開始するためにC病院に移って手術が必要です。今まだ病室の中はかなりいろいろなものが置いてあって、必要の無いものを少し片づけているので、もう少ししたら中に入ってもらってご主人に会えますよ。」


そう教えてくれて、もうとにかく早くてっちゃんのところに行って

「本当によく頑張ったね、てっちゃん!!!!本当によく頑張った。近くにいるから大丈夫だからね!!!!!」

そう伝えたかった。

待っている間、さっきとは違う緊張を感じて、そこからが長かった。
「もう少し」という言葉を、そのままに受け取りすぎて、待っても待っても呼びに来ない気がして、

「また急変とかしてたらどうしよう…私に知らせに来るとかそれどころじゃなく、また中で大変なことが起こってたらどうしよう…」

一旦温まった心に、また一気にそんな想いが押し寄せてきた。





2016年8月12日金曜日

あの時、それ以降のこと。



書きたいのに書けない。


あの時のこと。

少しずつ、でもできるだけたくさん、書き出してみてるけど、やっぱり、今書き出してある分以降のことは、手が動きたがらない。

思い出したくないわけじゃない。
むしろ忘れるのはこわい。

書き出せばすごい勢いで書けるのに、書く前からいろんな記憶や場面が順番関係なく、どんどん頭の中で迫ってきて追いつかなくなる。

一番書きたいことなのに。


書けないなら書かなくていい。

そんな単純なことも、今は一つ一つ考えてしまう。

2016年7月20日水曜日

あの時のこと。1月18日。3つ目の病院にて。前半。


2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)にて。




こうやって振り返りをしていると、思い出したこと、覚えていることを、
ちょっとでも書き留めておきたくて、だいぶ文が長くなってしまう。

でもそれをするためだから、とにかく書きます。



B病院は、てっちゃんが働いていた大学病院(C病院)から通りを一つ挟んですぐのところにある、市内でおそらく二番目に大きな病院だった。

去年、知り合いのアメリカ人が具合を悪くし、そこに入院していたことがあり、お見舞いにも何度も行っていたので、私も多少馴染みがあった。



S先生と病院に向かう途中、いろいろ話をしたが、先生もさっきまでいた病院で心電図を含め、
てっちゃんの様子を目で見るまでは、そこまでだと思わなかったし、現状を見た今でもまだ驚いていると言っていた。

ただ、今の現状をしっかり見つめるために、私を変に励ますためだけの誤魔化しなどはせず、冷静かつ客観的に、専門的な立場から意見を言ってくれた。


簡単に言うと、心電図を見た限り、てっちゃんの左側の心室がほとんど動いていなさそう、
ということだった。
あの状態で、てっちゃんがあんなにしっかりしているなんて、ビックリするぐらいすごいけど、
でもそれぐらい全然動いていない、と。



私たちの方が、てっちゃんが運ばれてくるはずの救急車より早く着いていたことはたしかだったので、駐車場に車を止めて、先生と救急の入り口でてっちゃんの到着を待った。



5分ぐらい待っただろうか。救急車がやってきた。



正直、内心、


「この搬送中にてっちゃんが心停止しちゃっていて、ドラマみたいに心肺蘇生されながら出てきたらどうしよう…」


そんなことすらも頭をよぎった。

救急車の中に見えたてっちゃんは、上半身を起こした状態でストレッチャーに乗っていた。

私たちが外で立って待っているのを見つけて、“着いたよ。”と言ってくれているかのように、アイコンタクトしてくれた。

当然だけど、寝巻に着ていたヒートテックとスウェットのジャージをそのまま着ていて、
上着に着ていたダウンは私が最初のクリニックから持ってきてしまっていたからなくて、
冷たい外の空気にてっちゃんが触れているのを見て、胸が苦しかった。

搬送用の人工呼吸器マスクは少しがっちりしたもので、頭から水泳帽のような帽子を被らされて固定されていた。


手だけでも温めてあげたかったし、声をかけてあげたかったけど、ストレッチャーに取り付けられた心電図のモニターを見つめながら、救急隊員があまりに真剣に



「いい調子。そのまましっかり深呼吸続けてね。」



と声をかけ続けていたので、私はしゃべりかけることができなかった。

後から考えると、あのときがもう少し最後にちゃんと私から声をかけてあげられるチャンスだったかもしれなかった。



建物に入り、廊下を進み、エレベーターに乗り…


人工呼吸器の設定がどうなっているのかも、確認はできなかったが、
私の目からは、さっきの病院にいた時より、てっちゃんは幾分か楽そうに見えた。


先生の予言通り、そのままの足でICUに入って行った。

日本のICUのように、入り口が2重にも3重にもなっている感じとは違って、
センサードアを一つ開けると、そこに主治医と思われる先生と、その他のスタッフ、看護師さんが何人も待ち構えていた。

前の病院から、てっちゃんの情報がすでに伝えられていて、すぐに治療が始められるように準備していてくれたようだった。



病室に運び込まれるてっちゃん、それを一気に囲い込む先生たち、取り残される私達…



たしか看護師さんだったと思うが、S先生と私に外の待機スペースにいるように声をかけてくれた。


「えっ?もう追い出されるの?」


と思うのと同時に、


「先生に任せるしかない、私の出番じゃないんだ」


とも思い、でも心の隅っこで、


「これが最後なんてことはないよね…?いや、ないない。」


と言い聞かせながら、言われた待機スペースに向かった。

30mほど離れたその待機スペースに着いた途端、S先生が私に声をかけてくれた。



「こんなことはないと信じたいけど、でもいちおう、とにかくいちおう、もう一回戻っててっちゃんと最後に話ができないか聞いてみよう。この後すぐ挿管されるのは間違いないから、大丈夫だと思うけど、もう一回だけ声聞きに行ったほうがいいでしょ?」



と…。
私はすぐに



「はい、ぜひ。行きましょう!!」



と返事をして、2人で急ぎ足で戻った。

ICUの前には着くも、ドア一枚先の世界とはいえ、インターホンで呼ばないと誰も気づいてくれないし、もうすでに治療が始まっちゃってたら遅いけど…

S先生がインターホン越しに看護師さんに事情を話してくれた。

最初は断られたが、なんとかもう一度、一言だけでいいからてっちゃんに声をかけたいと必死に伝え、入れてもらうことができた。


病室の中にいたてっちゃんは、まだ身体を起こしたままで、機械の準備を慌ただしくしている何人もの先生や看護師さんに囲まれていた。


てっちゃんの横に立ち、左手を握った瞬間、涙が止められなくなってしまった。

泣いたらてっちゃんだって絶対不安になる…

そう思ったけど、ものすごい不安と焦りが、心と頭に襲いかかって、止めることができなかった。




「がんばってよ…」




と声をかけた気がする。

「がんばってる人に“がんばって”はよくない」と良く言うが、それどころじゃなかった。

がんばってもらうしかなかった。



突然泣き出した私を見て、てっちゃんは強く手を握り返して、



「大丈夫だよ。」



と、「そんな何泣いてんだよ」と少し鼻で笑いだしそうな声で言ってくれた。

本当に心からそう思っていたのか、私のために強がってくれたのか、私にはわからなかった。

てっちゃんに声をかけるために、パワーをあげるために戻ってきたはずだったのに、何も言えなかった。

手を握るのが精一杯だった。





その会話が私たちの最後のやりとりになった。





S先生は、てっちゃんの右手をグッとつかみ、


「いいか、てっちゃん。これからたぶん、てっちゃんは麻酔かけて挿管されて、意識もなくなる。でも絶対乗り越えろよ!!いいか、かなり大変かもしれないけど、大丈夫だから、絶対帰ってこいよ!!いいな!」


てっちゃんの目をしっかりと見て、力強く言ってくれた。

その勢いに、てっちゃんもしっかり先生の目を見て、


「はい、大丈夫です。」


と答えた。



あの時に、ちゃんとしっかり抱きしめてあげたらよかった。

絶対大丈夫だから、ずっと外で待ってるからね、って、てっちゃんが少しでも安心できるような言葉をかけてあげるべきだった。

もっとしっかり目を見て、言いたいこと言ってあげるべきだった。

せめて、先生に追い出されるギリギリまで、隣にいて手を握り続けてあげるべきだった。



でも、できなかった。

その場にいることすらも、もう限界だった。

早くてっちゃんの治療を始めてあげて、と無意識に思った気もするけれど、これ以上てっちゃんの前で泣いて、不安を増やさせちゃいけないとも思った気がする。

S先生に、


「もういい?大丈夫?」


と聞かれ、涙を止めることもできず、


「はい…。」


とだけ答えて、私たちは病室を出た。そんな状況になっても、それでもまだ現実感はなかった。

待機スペースに向かいながら、


「大丈夫。てっちゃん若いもん!」


と、S先生が励ましてくれた。
S先生がいてくれなかったら、私は本当にどうにかなっていたと思う。

この瞬間、私よりもっともっとどうにかなりそうだったのは、てっちゃんだったはずなのに…。


酸素マスクをつけながら二回も救急車に乗って、病院を3か所も回され、
急に大勢のドクターたちに囲まれ、
私は泣いているし、
S先生にはこれから挿管されると言われるし、
周りは英語でいろいろ言ってるし、
苦しいし…


訳わからなくて、怖くて仕方なかったのはてっちゃんだったはずなのに…。



ごめんね、てっちゃん。。。



待機スペースに戻って、深呼吸をして、少し心を落ち着かせた私に、S先生は、


「てっちゃんのご両親や、ボスにももう一度、電話をして状況を伝えた方がいいかもね」


と声をかけてくれた。



頭も心も、状況に追いついていなかった私は、
そこで改めて、事の重大さと、私がすべき役割と、
そして、てっちゃんの家族が感じるであろう不安の大きさに気づいて、また一気に動揺した…

そんな記憶がある。



2016年7月5日火曜日

あの時のこと。1月18日。2つ目の病院にて。



2016年1月18日、月曜日。2つ目の病院にて。





受付で、「今運ばれてきた患者の家族だから中に入れてほしい」と伝えたのに、

少し待つように言われた。

10分ぐらい待たされただけだったと思うが、ものすごく長く感じた。



てっちゃんがいる病室に案内された時には、

てっちゃんはベッドの上で上半身を起こした形で寝ていて、

酸素マスクをつけ、点滴が一本始まっていて、心電図が取り付けられていた。



モニターに出ていたバイタルは、

血圧も90台、酸素飽和度も相変わらず80台だった。

心電図の波形を、私はパッと読み取れなかった。




「遅くなってゴメンね。すぐ入れてくれなかった。どう?少し違う?」




てっちゃんの手を握りながら聞いた。

“う~ん、別に。”というかんじで首を横に倒して、楽になった様子はやっぱりなかったけど、

てっちゃんもしっかり私の手を握ってくれていた。



担当の看護師さんは、酸素飽和度があがってこないことに首をかしげていたが、

そこまで慌てているような雰囲気ではなかった。

てっちゃんはそんな看護師さんの様子を見て、

さっさと治療を進めてくれない状況に少しイライラしているようだった。



てっちゃんが少し寒そうにしているので、

廊下に出て看護師さんを呼び、毛布か何か借りれないか聞いてみた。




病室を出たり入ったりの看護師さんに、状況を聞いてみても、



「今Drの指示を待っているんだけど…。なんで(酸素)あがってこないのかしらね。」



とだけ言われた。


不整脈が出ていたからだと思うが、胸が痛いなど他に症状がないか、

看護師さんは何度もてっちゃんに聞いていたが、

てっちゃんの自覚症状は呼吸困難だけだった。



しばらくすると、呼吸器専門の技師さんが来てくれて、

BIPAP(非侵襲的陽圧人工呼吸器)での治療を始めると言ってきた。




てっちゃんにとっての地獄は、むしろそこからだった。




それまで、自分なりのリズムで


「ふぅーふぅー」


と息を吐きながら、呼吸を整えて保ってきたのに、

人工呼吸器での治療になると、マスクから強制的に圧をかけて酸素が送り込まれるため、

自分のリズムで呼吸ができず、それがとにかく苦しいと、必死に私に訴えてきた。



断続的に酸素が送り込まれるため、自分から話を出来る状況ではなかったが、

あまりに苦しそうなので、



「苦しい?大丈夫?でも酸素あがってくるまで耐えないと。」



と腕をさすりながら励ましたが、それでも首を横に振るので、

さすがに見かねて、少しマスクを浮かせてあげた。

そうすると、



「マスクする前の方がよっぽど楽なんだけど、1分だけでも休憩できない?口も乾くし最悪。」



「早く針さして空気抜いてくれればいいのに」



と訴えてきた。


てっちゃんはこのときもも気胸を疑っていたようだった。

酸素だけがどんどん口と鼻に送り込まれていたため、

唇も渇ききって、口の中もカラカラになっているようだった。






看護師さんや技師さんは、外で忙しそうにしていたが、

てっちゃんが苦しそうにしているのは見ていられず、直接呼びに行って、

せめて口の中を少し潤してあげられないか聞いた。



口腔ケアに使うスポンジ付のスティックと水を少量くれたので、マスクを少し上げて、

口の中を濡らしてあげた。

マスクをあげてあげた時に、少しでも自分で能動的に息を吸えるようにと、

口をマスクの脇にずらして、必死に呼吸していた。

何度も首を横に振って、人工呼吸器での治療を中断したいと訴えてきた。


あまりに苦しそうで、何とか必要性をてっちゃんに伝えながら、

でも、てっちゃんの苦しさが紛れるならという想いも正直あって、私も耐えきれなかった。




ただ、なんとか耐えたおかげで、酸素飽和度は改善してきていて、

98~99%とほぼ正常まであがってきていた。

でも血圧は相変わらず低かった。


自覚症状を本人に聞く看護師さんに、

てっちゃんはマスクのせいで話しにくい中、英語で答えようとしているので、



「日本語でいいよ。私が伝えてあげるから。」



と伝え、少しでもてっちゃんの負担を軽くするために必死だった。

てっちゃんは、


「少し(良くなった)。」


と、酸素飽和度があがってきて、少し楽になった気もすると教えてくれた。






そんなこんなをしているうちに、救急車で運ばれてから1時間以上経っていただろうか。

S先生が病院に駆け付けてくれ、病室に入ってきてくれた。





モニターを見た瞬間、先生の表情が固まった。



簡単にてっちゃんと言葉を交わし、

すぐにナースステーションに行って、自分がA病院のドクターであることも伝え、

現状や治療方針について、担当の看護師さんに確認しに行ってくれた。



そんなことが許され、かつそれに病院側のスタッフが対応してくれていたのに驚いた。

日本ではありえない光景だった。



そのまま何となく私を病室の外に呼び出し、こう教えてくれた。




「はっきり言うよ。状況はかなり良くない。正直言って、この先いつ心停止してもおかしくないよ。」





驚いた。ショックだった。


でも、まだ現実感がなかったのか、それなりに冷静だったと思う。




「たぶんB病院に移って、挿管もして治療を急がなきゃいけない。

今その手配をしているみたいだけど。」




そのとき入っていたC病院も、ちゃんと設備も揃っているし、

それなりの規模がある病院だと思っていたから、



「えっ?また転院?」



とは思ったが、事の重大さに気づいたような気持ちの一方で、

自分がしっかり状況を把握しなければ…という想いに駆られて、涙は出なかったと思う。

そんな心の隙間もなかった気がする。




S先生に


「てっちゃんの上司に連絡した?」


と聞かれ、初めてそういったこともしなくてはいけない状況なことに気付いた。

てっちゃんの上司とは、家族ぐるみでお世話になっていたので、すぐに私から連絡した。

ただ、動揺していたのは事実だったので、状況を正確に伝えてもらうために、

英語の流暢なS先生に説明をお願いした。




てっちゃんが心配ですぐ病室に戻り、また口を濡らしてあげたり…を繰り返した。

またすぐ転院しなきゃいけないらしいことを伝えたが、

てっちゃんは特に動揺した様子もなく、ただうなずいていたと思う。



少しすると、また救急隊員が来てくれて、搬送の準備が始まった。

私たちはやっぱり救急車に乗れないらしく、私とS先生はうちの車でB病院に向かうことになった。



S先生は奥さんと車できてくれていたようで、奥さんが車の中で待っていてくれた。



「朝から何も食べてないでしょう?これ、時間あるとき食べて。」



とおにぎりやお茶をもたせてくれた。

そのとき初めて、すでに昼を過ぎていることに気付いたが、空腹を感じる余裕などなかった。



B病院には、前に知り合いが入院していたことがあり、

救急の入り口や病棟への向かい方など、なんとなく知っていた。




こんな状況なのに、てっちゃんと一緒に救急車に乗ってあげられないのが、

嫌で仕方なかったけど、でも、とにかく何より、


“今ここで何もしてあげられないなら、次の病院に早く行って先に着いて待っててあげなきゃ”


と思って先を急いだ。


車の中で、S先生にこの先予想されることを教えてもらいながら、

前日、前々日のことを詳しく説明したりした。


「B病院に着いたら、おそらくICUにすぐ入って、すぐ挿管になると思うから。」


ともう一度教えてもらい、急に心臓がどきどきした。





2016年6月29日水曜日

あの時のこと。1月18日。救急クリニックにて。




2016年1月18日、月曜日。




この日から、私たちの人生は様変わりした。


一瞬一瞬についていくのに必死だった。





救急外来の駐車場に着いた。


てっちゃんの腕を抱えながら、歩いて建物の中に入り、受付を済ませた。

Sさんから、大学病院の救急に行くより待ち時間も短いはずだからと言われていたが、

私たちの前に3人いると言われ、椅子に座って待つように指示された。


少し焦った様子を感じたのか、



「先生は二人いるから、うまくいけばそんなに時間はかからないと思うわ」



と教えてくれた。



病院に着いた安心感もあったのか、辛くなってきていたのか、

てっちゃんの口数は減ってきていた。一つ言っていたのは、



「気胸とかそう言う感じじゃないかな。外科的にさっさと診ちゃってほしいんだけど。」



ということだった。



てっちゃんの方が冷静だったのかもしれない。

その時点で、私にできることは、

てっちゃんの手を握って、ゆっくりしっかり呼吸するように促すことしかなかった。



30分ぐらい待たされたと思う。



名前を呼ばれ診察室に入ると、

てっちゃんは、診察室内にあった簡易ベッドに倒れこむように横になった。




正直私はビックリした。



てっちゃんがしんどそうだった。



1分前までのてっちゃんは、本当は相当耐えていたんだと、

その時のてっちゃんを見て私は改めて気づいた。




すぐに、看護師さんが血圧と血中酸素濃度を計りはじめてくれたので、

その間に、ここ数日の状況を必死に説明した。

そして、もう一つの衝撃が目に入った。





酸素飽和度……82%。。。。





えっ、ウソでしょ。





そう思った。



血圧もとれない。。。




低すぎるんだ。




経験があるというには少なすぎる経験だったけど、

でも働いていた頃に担当になった呼吸器の患者さんでも、

そこまで落ちることはなかったし、

(もちろんそこまで落とさないように管理はしているのだけど)

正直、さっきまでのてっちゃんを見ていて、そんなにも状態が悪いと全く思えていなかった。




私たちの想像以上のことが、てっちゃんの身体に起こっているということを


私はその瞬間に突き付けられた。




すぐに看護師さんが、規模の大きい病院への救急搬送の指示を出してくれ、

救急隊もかけつけてくれた。


一瞬の間に、状況が一変して、緊急事態にのまれ、私は一気に慌て、動転していた。




てっちゃんが働く大学病院(A病院)のすぐ隣にある、

もう一つの大きな病院(B病院)に行くのがいいのではと看護師さんに言われ、

私は言われるがままに指示に従うしかなかった。




「救急車に君は乗れないから、車で救急車についてくるか、病院で合流できるか?」




と救急隊員に言われ、指示に従った。


てっちゃんは、やっぱり横になっているのは苦しかったようで、身体を起こしていた。




「大丈夫だからね!!次の病院でちゃんと待ってるから。」



それだけ伝えて外に出ると、救急隊員から、




「B病院に行くよりC病院の方が近いけど、どうするか?

とりあえず一旦C病院に行って、状況をしっかり把握した方がいいかもしれない。」





そう言われた。




「C病院でいい。とにかく急ぎたいから。私は自分の車で救急車についていく。

でも病院の場所はわかるからはぐれても大丈夫。」



と返事をした。



てっちゃんのカバンと持っていた水分だけを抱え、自分の車に急いだ。



かなり気持ちが慌てはじめているのに気が付いて、大きく深呼吸をしたが、

車を出したときには、さっき「後ろをついていく」と救急隊員に言ったことが

すでに頭から飛んでいて、



“とにかく次の病院に急いで、てっちゃんが着いた時にいてあげなきゃ。”




と救急車がまだ発車準備をしているのを横目に、先にクリニックを出発していた。




朝電話をしたSさんの奥さんに電話をして、状況を話した。

S先生をC病院に行かせるようにする、と言ってくれたので、ひとまず電話を切った。




C病院までは救急のクリニックから車で5分ほどのところだった。

C病院のすぐ近くまで来て、自分が救急車より早く出てきてしまったことを思い出し、

救急車にも追い越されていないことに気づいた。



よく考えれば、救急車がわざわざ私の居場所を気にすることなんかないはずなのに、なぜか、



“私が後ろにつくのを待っていたらどうしよう。てっちゃんの治療が遅れる”



と思った私はクリニックに戻っていた。

結局、もちろん、救急車はすでに出ていて、もう一度C病院に着いた頃には、

てっちゃんはもう救急外来内の病室に運び込まれていた。


あの時のこと。1月17日。


2016年1月17日、日曜日。




この日あたりからのことは、もちろん覚えてるけど、少しずつ時間軸にずれがあるかもしれない。


朝にはたしか、てっちゃんの熱もほぼ微熱程度になっていて、

でも倦怠感が残っていたのもあり、

午前中は2人でベッドの上でゆっくりしていた。




もともと薬を飲むのが好きじゃなかったてっちゃんは、

熱が下がってきた時点で、解熱剤以外の薬を飲む気は全くなかった。


水が飲めずにゲータレードに変えて以来、多くはなかったけど水分は摂っていた。


ただ、相変わらずトイレの回数は少なかった。



何の危機感もなかった私たちは、熱が下がってきている時点で、

だいぶ回復傾向にあると思っていた。



普段から、土日もどちらか一日は、実験の調整や論文書きのために職場に行っていたので、

2日まるまる休まなくてはならなくなりそうで、少し悔しそうというか、困っていた。





腰が張ると言っていたのは、この日の昼頃だったかな…。

記憶があいまい。

金曜の夜から、ほとんどベッドで寝たままだったから、


「寝過ぎで身体がこわばっちゃったかな…」


なんて言いながら、


基本的には肩こりとか腰痛とか全くない人だったけど、

ここ1~2年は、首が疲れるなんてこともときどき言っていたし、

あまり深く考えずに、簡単にマッサージしてあげてみたり、

湿布を貼ってみたりして様子を見てみた。



食欲は相変わらずなくて、特に何も食べていなかったと思う。

というか、覚えているのは、てっちゃんが最後に食べたのはうどんだったな…と、

あとで病院で思ったことだから、つまりこの日は何も食べていなかったんだと思う。





夕方になって、ノソノソとベッドからリビングに出てきて、


「気管支にきちゃったかなー。」


と、気管支あたりに違和感があると言い出した。


咳をするわけでもなかったけど、

私もよく、風邪の終わりごろに気管支に症状が移ることがあったから、

そんな感じだろうと思っていた。



てっちゃんも、


「最近はあんまりなかったけど、昔はよく風邪の後に気管支やってたからな~。それかな~。」


と話していた。



今改めて考えてみると、

そこから、どれぐらいの時間をかけて、どれぐらい症状が変わっていってたのか、

はっきりしない。

本当に徐々に徐々に、という状況だった気もする。


てっちゃんが言っていたのは、



「なんかちょっと息が吸いにくい感じ。」



だった。


たぶん、

息が吸いにくいからと言って、呼吸数をあげすぎてもしんどいから、

という意識だったんだと思うけど、

その分意識的に息を吐いて、たくさん吸えるようにしている…

というかんじだった。



1月で部屋の中も乾きやすかったから、枕元に濡れタオルを置いて湿度を保つようにしてみたり…


温めた塗れタオルを口に当てて、乾燥による症状の悪化がないようにしてみたり…


数日前に何かのノリで2人で楽しんでいた足つぼマッサージを、ネットで調べ直して、


“胃腸”と“気管支”の部分を押してみたり……



それぞれ、効果も長持ちはしなかったけど、やってみると一時的にでも、




「ちょっといいかも。」


とか


「楽になったかも。」



とか言ってくれてたから、いろいろ試してみた。



てっちゃんも私も、もともと手足が冷えやすいタイプだったし、1月の寒い時期だったし、

あまり驚かなかったけど、でも足が冷たかったから、

私が自分で時々やる足湯を勧めてみたりもした。

(今考えたらこれも、心不全の兆候で全身の血流量が下がっていたんだろうな、とひたすら後悔)




たしか、そんなこんなをしていたのが、

夜の10時とか11時とかだったと思う。

ハッキリはしないけど…。




病院に行くことも考えた。


でも、日曜日の、しかも夜中…。




てっちゃんが働いていたのが大学病院ということもあり、

夜間救急で行くのは、その大学病院、という知識しか、正直私たちにはなかった。


日本でいう、いわゆる夜間診療をやっている町の診療所とか、個人のクリニックとか、

そういうものがあるのか、どこにあるのか、どんなシステムなのか、全く知らなかった。


そして何より、


「アメリカで夜間救急なんてかかったら、それだけで100万円ぐらいはとられるよ。」


という話を聞いていたこともあったし、

アメリカでの病院受診には相当の抵抗があった。



しかも、その時にはまだ、それが最悪な状況の前兆だなんて考えてもいなかったから、

大金を払う覚悟で行って、大した治療もされずに帰されるかも…

という気持ちも、抵抗感をあげていたのを覚えている。



てっちゃんの症状は相変わらず、ちょっとよくなってはまた戻り…を繰り返していた。





夜中の2時ぐらいになると、横になっている方が苦しくなって、

椅子に座っているか、立っていることが多くなった。

背中から腰のあたりをマッサージがてら、さすってあげると楽になるというので、

座っているときはひたすらそれを続けた。



気管支だけの問題じゃないんじゃないか…とは思ったけれど、


「心不全」


という言葉が頭に浮かばなかった。。。


何かおかしいと思ったけれど、そもそもの判断が足りてないことにも気づかなかったし、

それ以上に何かを考えることもできなかった。

今だから冷静に振り返ることができるからかもしれないけれど、

まさかてっちゃんの身にそんなことが起こるなんて思っていなかったからかもしれないけど、



本当に情けない。






夜中3時過ぎだったと思う。


てっちゃんが、


「寒いし、やっぱり湿度が必要な気がするから、お風呂ためてつかってみるわ。」


と、言い出して、お風呂に入った。


その間、私はベッドで少しウトウトしていた。


少し経ってあがってきたてっちゃんは、



「気持ちは良かったけど、やっぱりあんまりよくならないわ。」



と、少ししんどくなってきたようだった。


だんだん危機感が強くなってきた私は、

何も具体的な対策が取れなかったので、

ネットで心当たる疾患を調べていくことしか、もはやできなかった。




「朝になっても変わらなかったら、やっぱり病院に行こうか」




と2人で話した。




「朝になったら、S先生に電話して、この状況で大学病院の救急に行くのがいいか聞いてみよう」



と。



S先生は、日本人のDrで、アメリカでの臨床勤務歴も長く、

普段から本当にお世話になっていたし、

何か困ったことがあったときには、前からいろいろ助けてもらっていた。




朝まで待ってみたけど、やっぱり状況は変わらなかったから、

早朝ではあったが、失礼を承知でS先生に電話をした。



電話で、簡単に金曜の夜からの状況を説明している間に、

ベッドに横になっていたてっちゃんが、慌てた様子で飛び起きて、口を押さえているので、



「あ、戻しそうなんだ」



と瞬間的に思って、すぐ近くの洗面所にあったバケツを電話しながら渡した。


まる一日以上何も食べていなかったし、摂っていた水分量も減っていたので、

胃液以外何も出なかったが、



「ちょっとスッキリしたかも。」



と、呼吸も一時的に楽になったような顔を見せた。



結局、アメリカには救急外来だけを受け付けるクリニックのような施設があることを、

S先生に教えてもらい、近くにある場所を検索したら、車で5分のところにあった。



クリニックに行った先で、状況を英語で説明できるか?と心配してもらったが、



「とりあえず2人で行ってみて、困ったり何かあったらまた連絡します。」



とだけ話して、すぐに必要なものだけ持って出発した。



出かける直前に、なぜか直感的に、てっちゃんの脈をとった。

うまく脈がとれず、「あれ?」と思ったが、少し慌てはじめていたのもあり、

あまり深く考えずにとにかく家を出た。



てっちゃんは苦しそうではあったが、

相変わらず深めの呼吸を意識しながら自分のペースで呼吸していて、

自分で上着を着て、歩いて駐車場に向かっていた。




シートベルトが身体を締め付ける感じが嫌そうではあったが、

きれいに晴れた空を見て、



「久しぶりに外出た感じだわー。太陽が眩しい。」



と簡単な会話はしていた。




行った先で、どんなことが待っているのか、

少し慌てはじめている(救急受診に緊張している)自分も感じていたけど、

でもてっちゃんを支えなきゃと思って、多少冷静を装った。




2016年6月14日火曜日

あの時のこと。1月16日。


2016年1月16日、土曜日。



夜からの熱が上がったり下がったりしていたけど、それでも38℃台だった。

発熱以外に、咳や鼻水などの症状は全くないと言っていいほどなかった。



午前中は良く寝ていたが、この日は、食欲が前の日よりなかったみたいで、


食べたいものを聞いても、最初は


「う~ん…」


という感じだったが、結局温かいうどんなら食べたいということになった。


てっちゃんは、無類のそうめん好きで、そうめんは日本から大量に持って帰ってきて

よく食べていた。だけど、温かいにゅう麺は好きじゃなかった。




近くのスーパーにうどんを買いに行き、お昼に食べさせた。

所詮、アメリカのスーパーに売ってるうどんで、おいしくはなかったけど、

1人前弱は食べてたと思う。



ただ、そのあたりから水を飲むのを少し嫌がるようになった。

トイレの回数も減っていた気がした。

前の夜から、汗もたくさんかいていたし、水だけはしっかり飲んでと言い続けていた。





結局、夕方になって、



「おなかに水が溜まっちゃってる感じがして気持ち悪い。ちょっと吐いてくるわ」



と言い出した。


昔から、お酒を飲み過ぎた時とか、気持ち悪い時は、

我慢するより意図的に出すことに抵抗はなかったタイプだった。


トイレから出てきたら、



「スッキリした。水(を飲む)はダメかも。ポカリがあったらいいのに…。」



と言っていた。


もどしてしまったこと自体は勿論心配だったけど、

前日のゾクゾク感とか、熱が高くて辛い、という様子はなくなってきていたので、

早く良くならないかな~と、

その週末が看病で終わってしまうのかと残念にすら、その時はまだ思っていたと思う。





アメリカでポカリっぽいもの。。。。と考えると、ゲータレードぐらいしか思いつかなかったが、

それも、真っピンクや黄緑の着色料たっぷりの甘いものしかないイメージだったので、

あまり飲ませたくなかった。


でも、脱水よりはマシか…と思って、またスーパーに戻った。


レモン味とか、ライム味とか、まだ比較的スッキリ感の強そうなものを選んで帰った。



「これなら飲めそう!」



と、気分が違ったようだったので、できるだけ水分は摂るように、変わらず促した。


熱もだんだん下がってきていて、

相変わらず横になったままゲームをしたり、

少し眠ってみたり、

たまに私とのお喋りに付き合ってくれたり、


そんなカンジだったと思う。



私はと言えば、もともと金曜にでも作ろうと思っていた餃子の材料があったので、

冷凍しておいて元気になったら食べてもらおうと思って、

餃子作りをしていた。


ベッドの上からも、キッチンの様子は見える角度だったので、

てっちゃんも私がせっせと作っているのに気づいたらしく、


「あぁ~餃子食べたかった~」


と、食欲はないのに言ってくれたので、


「元気になったらたくさん食べてね~」


と、キッチンと寝室の距離で話していた。



結局、その餃子を食べてもらうことはできなかった。

今まで以上に想いを込めて作ったのに、てっちゃんに手料理を食べてもらうことはできなくなった。




その日は、結局食欲が戻らず、でも夜遅めの時間になって、


「でもやっぱり少しだけ、またうどん食べようかな」


と言ってくれたので、少し味を変えて食べてもらった。


昼ほどは食べられなかったけど、食後に少しアイスを食べたりもして、

普段はほとんど甘いものも食べないてっちゃんだったけど、


「風邪の時のアイスっていいね。」


なんて言っていた。


「でしょ~?それが私の場合は、風邪のときに限らずなのよ~」


なんて冗談も言っていた。


パソコンでメールやFacebookをチェックしたり、ネットニュースを見たりして、気分転換していた。



だるさは残っていたみたいだったけど、熱の振れ幅も減ってきていたし、

連休中にはよくなってくれるかな…と見込んでいた。



てっちゃんの隣を離れない私を見て、



「これで、もしこれがインフルで、志野に移っちゃったら、次はちゃんと僕が看病してあげるからね。今だけゴメンねー。」



なんて、優しい言葉をかけてくれた。


その日も夜~夜中は寝たり起きたりだったけど、

次の日午前中はゆっくり眠れたようで、一緒にベッドの上で休んでいた。





2016年6月10日金曜日

あの時のこと。1月14日~1月15日。


このブログを始めた大きな目的の一つ。



あの日、あの時のこと、ちゃんともう一回、書き留めていかなくちゃいけないと思う。



てっちゃんの具合が悪くなってから、この世を去ってしまうその瞬間まで、

その全てを見ていたのは、


この世に私一人しかいない。


てっちゃん自身だって、挿管されてからの記憶はない。

というか、本人がどこまで憶えているのか、私は知ることができない。



本当に本当に悔しいことに、

本当に本当に申し訳ないことに、

本当に本当に一生かかっても後悔と自責の念は拭えないけれど、

てっちゃんの両親、お姉さん、お兄さんが近くにいられない状況で起きてしまったこの事実。



思い出せば出すほどに、自分を責める気持ち、悔やむ気持ち、怒り、空しさ、情けなさが

溢れてくるけれど、あの時のことは絶対に忘れちゃいけないし、


てっちゃんの大切な人たちに、ちゃんと伝える責任がある。


家族のみんなには、友達のみんなには、知っててもらう権利がある。


てっちゃんの家族にも、今まで、その時その時で伝えてきたつもりだけれど、

正直、どこまで、何を、伝えられたか覚えていない。


だから、もう一回ここに書き留めていこう。





てっちゃんのお父さん、お母さん、お姉さん、お兄さん、

親戚の皆さん、友達の皆さん、お世話になった皆さん、


ちゃんと伝えられていなかったことがあったらごめんなさい。


てっちゃんを守ってあげられなくて本当にごめんなさい。




てっちゃん、力足らずの私で本当にごめんね。


てっちゃんが、私の目の前からいなくなってしまう日が、こんなにも早く来るなんて、

どうやったって考えたことなくて、そりゃ考えるわけもないんだけど、


てっちゃんの身体のことも、

世の中に起こりうる病気のことも、

身体に関する自分の知識も、


とにかくすべてをなめていたんだ、私は。



てっちゃんの声や想いを聞くことはもうできないけれど、

私があの時どんな風に思っていたかだけでも、これを読んで知っててもらえるかな。

そして、いつか、いつかでいいから、てっちゃんが何をどこまで感じていたのか教えてほしい。






2016年1月14日木曜日、夜。


たしかその日は、てっちゃんは普段通り19時まで仕事をして、私がいつも通り大学まで車で迎えに行った。

車生活の毎日だったけど、一台しかなかったから、毎日送り迎えをしていた。


帰ってきて一緒にご飯を食べて、でも少し風邪っぽいかもというので、早めに寝るように言った。

夕飯は、いつもとほとんど変わらず、それなりに食べてくれていたと思う。




2016年1月15日金曜日。


朝、まだ身体のだるさが残っていたみたいで、

「熱が出そうな感じ」

と言いつつ、でも仕事を休むほどじゃないと思ったのか、朝仕事に向かった。

そんなふうにいうことは、今までもときどきあった。

1年前ぐらいから、仕事がどんどん楽しくなっていたようで、期待される部分も大きくなったし、

やりがいをたくさん感じていたし、(もともとだけど)ちょっとの風邪ぐらいじゃ休むこともなかった。


お弁当もいつも通りもたせた。ただ、心配だったから、別れ際に


「しんどかったら、今日はいつもより早く切り上げておいで。(ベビー)シッターが終わった足で迎えに来られるから」


とだけ言っておいた。


私は、アメリカに行ってから、英語学校に通いながら、

ベビーシッターや日本語の家庭教師の仕事を少しさせてもらっていた。

その日も、午後に一件シッターの仕事が入っていた。


お昼過ぎ、心配で、


「調子どう?早めに帰ってきたら?」


とメールを送ると、


「あんまりよくなさそう。お弁当も残しちゃった。」


そして、夕方近くになって、


「やっぱり今日は早めに迎えに来てもらえる?」



と返ってきた。


17時半頃迎えに行って、帰ってくると微熱。

おじやを作ったら、「美味しい」と言って、思った以上に食べてくれた。


その後、すぐベッドに入ったけど、夜、熱があがってきて、38.2℃まであがった。

薬は普段なかなか飲みたがらなかったけど、しんどいだろうと思って、解熱剤を勧めて、

簡易的に作った氷枕を気持ちいいと思うところにあてさせた。


仕事を休むのが嫌いな人だったから、2人で、


「今日が金曜で良かったね。週末ゆっくり休んで治さないとね。」


と話していた。

その週末明けの月曜日、アメリカは祝日だったため、そこから三連休の予定だった。

ただの風邪だと思っていた。


少しすると解熱剤が効いて、熱は下がり、てっちゃんも熟睡。


その後、上がったり下がったりを2回ぐらい朝まで繰り返した。


1月という、時期も時期だったし、


「インフルじゃないといいけどね~。38℃台だし大丈夫かな~。」


なんて、適当な話をのんきにしていた。


汗もたくさんかいていたから、面倒くさがるてっちゃんを無理やり着替えさせたり、

そんなことをしながら、夜を過ごした。

薬が効いて楽に感じた時は、携帯でゲームをしたりもしていた。