てっちゃんが私のために何度も言ってくれていた言葉… 32歳、急性リンパ球性心筋炎で、具合を悪くしてたったの5日で逝ってしまったてっちゃん。最後、彼と何も話せなかった。 頭の中をグルグルする滅茶苦茶な想いを、とにかく吐きだしてみようかと思う。 <The title of this blog is the words My husband, Tetsuya often said to me...He was only 32 years old, passed away due to acute lymphocytic myocarditis. I could not talk with him enough after he felt sick. I will just write out my feeling and emotion that are stucking in my mind everyday.>
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2017年1月19日木曜日
あの時のこと。1月18日。3度目の転院。
書くのに時間がかかる。
命日をどうしても過剰に意識してしまって、命日までにあの時のことを書き上げたいのに、やっぱりすごく時間がかかる。
胸のドキドキが止まらなくなって休み休みしか書けない。
ダメだ、やっぱり。
焦って書くより、時間かけてでも、しっかり向き合おう。
てっちゃんならたぶん、「別にそんな日付とか変に意識しないで、できるときにやればいいじゃん。」って、またちょっと鼻で笑うようにして言うのかなって思う。
考えすぎたり、勘ぐりすぎたり、気にしすぎたり、そんな私の性格でケンカしたこともたくさんあったな。。。
ということで、またこの後のことは、書けそうな時に書いていきます。
2016年1月18日、月曜日。3つ目の病院(B病院)から4つ目の病院(C病院)へ。
とにかく長く感じた時間のあと、先生だったか看護師さんだったかが声をかけに来てくれて、中に来てもらえる状態になったから、てっちゃんと会ってもいいと言ってくれた。
廊下を歩きながら、深呼吸をして、てっちゃんの顔をまた見られる嬉しさと、現実を目にしなきゃいけない緊張とを消化しながらICUまで急いだ。
そのあたりから、私の意識は、視野が狭くなったような感覚というか、周りの人の様子とか音声とかそういうものがほとんど入らなくなっていたんだと思う。
先生や看護師さんと何を話したかとか細かいことは覚えてないけど、とにかく衝撃だった光景…
想像だってしてたのに、覚悟だってしてたのに、ショックだったてっちゃんの姿…
私の腰の高さぐらいまで上げられたベッドの上で、仰向けにされてるてっちゃんは、
目を閉じて、挿管されていて、家から着て来ていた服を脱がされていて、
腰から下には薄い掛物がしてあったけど、
胸の上には、電気ショックの大きな赤い四角い跡が2ヶ所くっきり残っていた。
入っていいと言われた病室には、床を掃除してくれるおばちゃんや、点滴の管理とかをしてくれてる看護師さんがいて、先生たちはガラス越しの廊下でまだいろいろ話していた、と思う。
ベッドの横に立って、てっちゃんの手を握った。
血が巡り直したような、自然な温かみを感じた。
正直、本当にホッとした。
でも、もう握り返してくれる手ではなかった。
私の思い込みかもしれないけど、ものすごい山を乗り越えたてっちゃんは、疲れ切って眠っているような、苦しそうというより、「やっと眠れるわ」と肩の力を抜ききったような顔をしているように見えた。
「てっちゃん……。偉かったね。本当よく乗り切ったね。苦しかったでしょう。本当頑張ったね。偉かったね。」
そんなふうに声をかけた。
先生からは、今転院の準備をしているから、もう少し待ってて下さいと言われた。
低体温状態を維持した方がいいと思うので…という話をされたり、なんだかいくつか説明を受けた気がするけど、正直、とにかく転院までもうちょっとだけ待ってという事実しか耳に入ってなかった。
低体温療法をすると言われて、医学的に必要なんだろうとは思ったけど、
服も着ずにシーツのような薄い掛物しかしていなかったてっちゃんを目の前にしていた私は、
「てっちゃん寒くて仕方ないだろうに…かわいそう。」
と、それが治療だということを素直に受け止められない感覚もあった。
でもとにかく、処置や手続きに関しては、必要と言われるものを進めてもらうしかなくて、
それが進んでいくのを私はただ待って受け入れていくしかなかった。
若い看護師さんが何人か、話しかけてきてくれて、
てっちゃんは本当によく乗り切ってくれたと言ってくれた。
アメリカに他の家族は住んでいるのかとか、いつ頃アメリカに来たのかとか、
患者の情報収集をするためというより、
外国から来ているらしい若い夫婦にこんなことが起こって、本当に心配とか心が痛むとか、そんな想いをもって話をしてきてくれているのを感じて、すごく楽になったし親近感を感じた。
私の肩を抱き寄せて、何も言わずに想いを共有しようとしてくれる、その力に本当に救われた。
なんだかんだと、少なくともそこから30分ぐらいはかかったと思う。もっと長かったんだろうか。
転院に必要な手続きのために、書類にサインしたり、診療記録に必要な情報を話したり、そんなようなことをしていたと思う。
搬送をしてくれる救急隊員の人たちが来てくれて、準備が進んだ。
まだあまりにも状態が不安定だったてっちゃんを、万全の態勢で搬送できるように、先生たちと綿密なやりとりをしてくれていた。
先生や看護師さんにお礼をして、落ちついたらその後の経過を必ず報告しにまた来ますと、その看護師さんに伝えてその場を後にした。
てっちゃんは搬送専用の経路でC病院に向かうから、とやっぱり付き添い続けることはできず、S先生とB病院を出て、道路を挟んで一ブロック隣にあるC病院に歩いて向かった。
外はすっかり暗くなっていて、とにかく寒かった。
その暗さと寒さは今でもはっきり覚えている。
てっちゃんはもちろん、私たちも大きな壁を一つ乗り越えた後の小休憩というか、
でもこの先にまだまだ更に大きい壁があると覚悟をしなおすための時間のような、
とにかく身が引き締まる思いだった。
てっちゃんが入る予定のCICU(心臓疾患の集中治療室)の外に、談話スペースというか、ソファやテーブルが並べてある広いスペースに私たちは到着して、たしか、その談話スペースの見守り番をしていたスタッフの人に、てっちゃんがすでに運ばれてきているか問い合わせをしてもらったんだと思う。
B病院に運び込まれた時のように、搬送が済んだら一旦病室に案内されるのだと思って、S先生とそこで待っていた。
まただいぶ待った。
まだ着いていないわけがない、と思い、もうすでに手術が始まっているのか、それともまた何かが起こってしまっているのか、搬送の間に急変したとか…!?
…そんなことをまた引っ切り無しに考えてしまって、何度もCICUの入り口の前まで行っては戻り…を繰り返した。
しばらくして、先生がやってきて、搬送後そのまま手術室に直行して、ECMOでの補助を開始するためにカテーテルを挿入する手術を開始していることを教えてくれた。
その後のてっちゃんの治療には、主に2人の先生が主治医として関わってくださって、それ以外にも2人ほど、逐一報告に来てくれる先生がいた。
ECMOというのは、膜型人工肺と訳されるようで、単純に言うと、患者さんの肺に変わって血液に酸素を供給する役目を機械が担うというもの。
本当にホースの太さぐらいあるカテーテルを足の付け根から入れて、静脈血を一旦取り出してECMO内に送り、そこで酸素を送り込んだ血液をまた体内に戻す、それを治療中ひたすらてっちゃんの肺の代わりにやってくれる装置。
つまり、心臓はインペラで、肺はECMOで、人間の身体で最も重要とも言える部分を、てっちゃんは機械に頼らないと命を保てない状態にあったということ。
(私の認識が間違っていなければだけれど…)
手術にはどれぐらいの時間がかかるのかと、その先生に聞くと、特に何も問題なくうまく挿入できれば45分ぐらいだと思いますと言われた。
そのとき、たしか夜の20時ぐらいだったと思う。
もうすでに20時であることに驚きながら、でも1時間ぐらいで終わると思えば、今夜中には少し落ち着いててっちゃんのそばにいてあげられるかな……
そんなことを今思えば本当に安易にだけど、心の中で思っていた。
ここからの記憶は、その時リアルタイムで自分の姉兄とやりとりをしていたLINEの記録が少しあるから、時間の流れとかはそこを頼りに書こうと思う。
それによると、手術中に私は、てっちゃんの実家に少なくとも一回連絡を入れていたらしい。
S先生も結局朝からずっと付き添ってくれていた。
手術が終わって状況を主治医から聞くまでは一緒にいると言ってくれたので、お言葉に甘えた。
順調にいけば終わると言われた45分を過ぎても連絡は来ず、
1時間を過ぎても、
1時間半を過ぎても、
終わったともまだ終わってないとも、何も連絡が来なくて、でも何かあれば必ず話に来てくれるだろうし…と思って、とにかく我慢した。祈った。
結局手術が終わったと、報告を受けたのは22時を過ぎてからだった。
カテーテルを挿入した部分からの出血が少しあって、それの処置で少し時間がかかっていたとの説明だった。
落ちついたら病室に案内できるだろうと言われ、また一つ、てっちゃんの命の糸がつながったことに本当に心から安心した。
これで全身状態は保ちやすくなるはずだから、今夜とあと二晩ぐらいを通して、状態が落ちついてくればだいぶ安心できるというような話を受けて、なんとなく先が見えた気がして、まだまだこれからが大変なのはわかっていたけど、でも、
「どうかもうこれ以上の苦難がてっちゃんに降りかかりませんように。」
ただただ、そう祈った。
その日は病院を離れられる状況ではなさそうだったし、その談話スペースで見守り番をしている夜勤のスタッフの人がすごく親切にしてくれて、毛布や枕も貸してくれたので、そこに残ることにした。手術が終わったと聞いて、多少の安心はしたものの、それまでの状況がトラウマになっていたのか、もう心のコントロールはほとんどつかなくなっていた。
(というようなことがLINEのやりとりに書いてあった)
でも、結局そこから日付をまたぐ時間になっても、病室に案内してくれる気配はなく、てっちゃんが病室に戻っているのかも、結局どうなっているのかもわからない時間がさらに数時間続いた。
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一生懸命書いてくれているのがよくわかります…ありがと。
返信削除私はだいぶリアルタイムで去年のこの日々、志野とやり取りをしたけれど、こんなことがあったんだと、知らなかったことを一年後に読んで色々知ることができるし、少しばかりその時のことを想像できます。
本当にてっちゃんも頑張っていただろうし、志野も精一杯のことをしていたのだと改めて感じます。
どうか、頑張ってみんなに報告してあげてください。そしててっちゃんを忘れないためにも、ちゃんといろんなこと書き留めておいてあげてくださいね。
何をどこまで書くかとか考えたこともあったけど、もうとにかく覚えているすべてを書こうと決めたら、想像の何倍も時間がかかっちゃった。
削除ここからが長いし、時系列もぐちゃぐちゃになっていくところだから、記憶の整理が難しいんだけれども。
志野ちゃん、本当に辛かったね。あの日、朝連絡もらって、とにかく早く行かなければと、朝一番で飛行機の予約を取りにいって、とにかく一番早く行ける飛行機を手配するのに、昼までかかってしまい、結局翌日の飛行機になってしまった。シカゴで乗り継ぎまでの時間が長く、もっと早い便はないのかと思ったけど。その間、志野ちゃんは一人で頑張っていてくれたんだね。哲也も志野ちゃんが、側にいてくれたから、必死に頑張れたんだと思うよ、今もまだ、志野ちゃんの顔をみてると、横に哲也がいるような気がする。
返信削除私もいまだにお父さん達に会いに行くと、あの家にてっちゃんの姿がある気がして、一緒に座って喋っているような気がしています。あの時、もっと早くお父さん達に連絡していれば、もっと頻繁に経過報告をしていれば、その時も今も、お父さん達の心の状態はもっと違ったかもしれないのに…と思う気持ちは消えないけれど、ここでできる限りのことを書いていくので、読んでもらえたら嬉しいです。
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