てっちゃんが私のために何度も言ってくれていた言葉… 32歳、急性リンパ球性心筋炎で、具合を悪くしてたったの5日で逝ってしまったてっちゃん。最後、彼と何も話せなかった。 頭の中をグルグルする滅茶苦茶な想いを、とにかく吐きだしてみようかと思う。 <The title of this blog is the words My husband, Tetsuya often said to me...He was only 32 years old, passed away due to acute lymphocytic myocarditis. I could not talk with him enough after he felt sick. I will just write out my feeling and emotion that are stucking in my mind everyday.>
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2017年8月29日火曜日
経験したからこその感情
「死」と言うものの大きさ、意味、影響力、
それと同時に、人間の無力さと、人間として生きていることの不思議と、
さらに一方で、
医療の技術とか運の良し悪しとかそういうものではなく、やっぱり誰にでも絶対にいつか訪れることがいつ来るかの違いなんだ、全く特別なことではないんだ、
という思いと…
そんなようなことを、
たくさんのことを、
「考える」というより、
全身で「感じる」。
てっちゃんのことがあって以来(正確には、いわゆるショック状態を少し抜けてから)、
ニュースになるような他人の死でも、
あるいは、過去に実は家族を失っているという知り合いの話でも、
それが病気でも事故でも、事件でも、自死でも、
てっちゃんとは全く状況が違っても、
今までの自分では感じ切らなかった感情と感覚が起こる。
「悲しみ」はもちろんだけど、
いわゆる「胸が痛む」を実際に感じるというか、
目の前に黒い厚い幕をドーーンと降ろされる感覚になる。
どうしてこんなことがこの人の身に…
そう思いながら、同時に、そう思っても現実は変わらないと思う変な冷静さと、
命が途切れてしまうか、
何とか繋いでいけるかは、
本当に本当に紙一重なんだと痛感したり、
ならなぜ、てっちゃんやその人たちにはその「繋げる命」がもらえなかったんだろうとまた思っちゃったり、
絶対に誰もがいつか、かけがえのない人の「死」を目の前にしなきゃいけないのに、
それがどうしてもどこか特別な、異常なこととして私達は捉えてしまって、
でもやっぱりあの、尽きてしまった命と、
それでもまだそこにある身体と、
それすらも無くなってしまうその苦しみを、
もうこれ以上の人に味わってほしくないと思う気持ちと……
そういうことを、誰かの訃報を見聞きする度に思う。
「だから何だ」なんだけど、
そういう、当然に起こりうるけど知らなかった重みが、
毎日あちこちに転がっていることに、
今の自分は2年前の自分には考えられない感覚で向き合ってる。
まだ、
今でもまだ、
てっちゃんの死は認めたくない。
てっちゃんの「死」と言う表現も間違ってると思いたい。
この現実は何でだろうと毎日思う。
なんでこの人達にはできることが…って一日に何回も思う。
心から楽しめるものはやっぱりまだ何もない。
ずっとずっと目を伏せて、心を伏せて過ごしてる。
それはずっとずっと続くんだと思う。
でも、
てっちゃんが自分の目の前にいない、会えないということの寂しさや悲しさの感情や、
てっちゃんを守ってあげられなかった後悔の思いと、
こんなに早いタイミングで大好きな人と死別しなくてはいけなくなった自分の運命への苦しさとを混ぜこぜにしちゃいけないんだろうなと、
わかってきてる。…んだと思う。
かけ離すことは不可能なんだけど、
その感情を抱えながら、この事実を経験として生かさなきゃいけない、生かせるはずなんだと、
何を言われても首を振ってた自分が、
嫌がる心は心の奥底だけにしなきゃいけないんだって、
そうできることが増えてきてる。
本音が吐き出しにくくなってくる。
現実を理解してきてるからこそ。
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